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きはじ 6

「本当にやるだなんて、君を甘く見ていたよ」
 約束通りに、というよりは宣言通りに、再会を果たしたのは昼前の成田空港の入場ゲートだった。三人は挨拶もせずに即興劇の役者になって、そこに集った。台本はそもそも存在すらしない。
「貴方のせいでこうなったんだ」
 朝からここで待ち伏せするなんて、自分は一歩間違えれば犯罪者になっていた。偶然、あの夜に見つけたチケットから、彼女が辿るルートを予測して調べ上げた。そんな漫画みたいな執念を発揮できたことに、自分が一番驚いている。
「それでどうするつもりなの?」
 搭乗口を目と鼻の先にして、マシロさんの顔には余裕の笑みが浮かんでいた。目は嗤っていなくても、それはもうどうでもよかった。最後くらい本気で衝突してやると思っていた。その方がスッキリしそうな気さえしていた。でも当の俺は衝突の仕方すら知らない。他人の感情と本気で向き合ったのも随分久しぶりだった
「失礼ですが、どちらさまですか」
 物腰柔らかな、大人びた男が隣に立っている。歳は同じくらいだろうが、適当なジャケットを羽織って日の出より早く飛び出してきた自分とは対照的に、いかにも金持ちそうなセーターを着ていて、自分とは違うステージに生きていることを思い知らされる。しかしそれもこの一時の対峙のことでしかない。今日の終え方は解らないけれど、今日が終われば関係無くなる人達だった。
「後輩です。この方の」
「ああ、それで」
「お見送りって顔はしていないよ。スミ」
「知ってますよ。それもこれも全部」
 マシロさんの物悲しそうな顔は形容し難い憐憫を湛えているようにも思われた。
「彼はさ、スミはね……いい人なの。私が傷つけたの」
 またもや助け舟、とは思いたくなかった。自分がここに飛び込んできた手前、彼女に救われるのは、あまりに気まずかった。マシロさんが彼に話しかけた。彼は色々なことを一瞬で承知したようだった。そして小さく微笑んだ。
「はじめまして、僕もです。僕も、いい人、でした」
「は?」
 俺は目の前の彼が、何を言わんとしているのか、すぐには飲み込めなかった。
「僕は、この女性がどんな人か、知っています。これでも夫ですから。直接見たことは一度もなかったけど、貴方みたいな人が何人かいるんだろうなって、ずっと思っていました。それで今日ここで確信しました。僕も最初はただのいい人で、一人で生きていくこともできる彼女にとって何でもない男一匹だった。だけど、彼女を連れ出すことに決めたんです。僕だけの場所に持って行ってしまえって、彼女には連れて行ってくれる人が必要だって勝手に決めつけたから」
 俺はハッとした。ずっと気付けなかった。彼女にこそ、どこかへ連れて行ってくれる人が必要だった。だから、彼がその役割を引き受けていた。俺は彼女が只管年下の男を連れ回す存在だと見くびっていた。俺は悔し涙を流していた。おかげで、ようやく自分の気持ちとその情けなさに気付けた。
「名前も知らないし、こう言っていいのか解りません。でも、マシロさんをよろしくお願いします」
 一体どんな狂人だと思われただろう。情緒は滅茶苦茶で、何をしに来たのかすら、目の前と同じようにぼやけている。それでも彼は俺が差し出した曖昧な手をしっかりと握り返した。
「僕は貴方が何をしている人かもよく知りません。でも、どうか幸運を」
 嫌味なく、忌憚なくそう答えた。一点の曇りもない晴れやかな顔だった。この場でそれができるというだけで、彼は尊敬に値した。
「マシロさん、ありがとうございました。どうかずっとお元気で」
 彼女は拳を差し出していた。
「ほんとに馬鹿だね、スミ……でも、本当にごめんなさい。見送りに来てくれてありがとう」
 きっと俺は、見送りに来たのではなかった。でも、彼女の言葉で、そういうことになった。マシロさんは拳を突き出した。彼女なりの挨拶なのだろう。
「さようなら」
「じゃあね」
 突き合わせた拳はゆっくり離れて、手に宿った微かな熱はあっという間に消えていく。二人は空港連絡通路へ、俺は来た道を引き返して、京成の地下ホームに、歩き始めた。
そうして、もう振り返ることも、お互いの行方を案じることもしないだろう。ただ、記憶の中にしまい込んで、どこか遠い場所で元気にやっているだろうと、何の気もなしに思い返すだけ。不幸があっても、知らせなくていい。知りたくもない。

 新幹線は名古屋駅のホームに滑り込んだ。俺が手荷物を肩に提げて、近くのドアから降りると、都会らしい、要するに新横浜とそう変わらない空気に出迎えられた。東に見える雲が少し黒かったけれど、おかげで暑さは和らいでいた。慣れない場所だから、目的地までのメモを頼りに進む。
数日前に父に手渡されたその紙切れには、母の現在の居場所が書かれていた。大学病院の一室だった。父は「行きたくなった時に行けばいい」としか言わなかった。相変わらずの口ぶりと素っ気なさだった。
 俺は知ってしまったことの意味を考えた。ずっと前に父と俺を捨てた母がそこにいる。重い病を抱えて、もうこれ以上進めなくなっているであろう彼女を前に、何を言えばいいのだろう。そもそも母は、あれから俺に何があったかなど、まるで興味がないだろう。結局、これだけ考えても、会話を切り出す言葉一つ決まらなかった。
 ただ、ずっと前に教わりそびれた、距離と速さと時間の関係が、長い時間をかけて解るようになったということは、伝えようかと思った。

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