私が石ころを描き続ける理由
私は「人間とは何か、生命とは何か」それを石ころを描くことで探っています。
学生の頃から今に至るまで、主だったモチーフとしてずっと石ころを描いてきました。だからと言って、鉱物についてマニアックな学術的知識があるわけではないし、それを求めたいとも思っていません。コレクターでもありません。にも関わらず、なぜこんなにも石を描くことに固執するのか、自分でもかなり不思議に思った時期もありましたが、それを一度記てみようと思います。
アーティストステイトメントというのがありますが、あれはあまりにも端的にまとめることを求められるものなので、そこには収まらないあれこれの理由も記しておきたいと思い、noteに記すに至りました。
生命を探求するのに何故石ころなのか
学生の頃から、主だったモチーフとしてずっと鉱物を描いてきました。生命の諸現象を統括的に表すには、これしかないと感じたのがスタートでした。当初から、表したいのは具象的な動植物ではなく「生命的なもの」であることが明白でした。
生命的なものが居る絵画空間とは、描かれたものが呼吸をすることで生まれてゆくものである必要がある。それゆえに、それらは見るものの体内と同調していくような性質をもつ。
広大な景色を見たとき、あるいは木々に囲まれ見上げたとき、流れる水の力を目にしたとき、人は、自分が見ているその風景の一部になっていくかのような感覚があるだろうと思う。
それは逆に言うなら、その風景が自分の一部になっていくことでもあり、風景が自分の体内に再構築されていくかのような感覚。そのとき、自分の身体が実際のスケールよりも大きいもののように感じられるだろう。自分が全体の一部なのではなく、自分という部分の中に全体が現れる瞬間。
学生時代、私は石の結晶構造をひたすら描いていました。石の中で内部に向かって結晶が増殖する力と、身体内部にその増殖風景が構築してゆく力が同一のものであるかのように感じていました。
体内で自然の本質を再構築するということ。世界を食べること。内と外の境界線がなくなっていくこと。 自分の体内にあるものと外界にあるものはイコールであり決して切り離されていない。私の制作は、その感覚を確かめ掴んでいきたいと思って始まったものでした。
踊りの稽古を続ける理由
一方で、私は制作のアプローチのために、コンテンポラリーダンスと舞踏を学生時代から学んできました。
今そこに生命の息遣いを感じることから得られる身体感覚。呼吸の深さはこれに大きく関係しています。呼吸をすることで生まれ出る身体の在り方。本来限定されているかのように思われる身体が、それを超えていくような、生命が活性化されていく感覚と事柄を確かめていきたい。
私がコンテンポラリーダンスや舞踏を学ぶことに固執し続ける理由は、まさにここにあります。
人間には身体的想像力というものがあり、生命が活性化されていく感覚と事柄を丁寧に確かめ、そして身体的に解ることが重要と感じ、それは人が生きる上でも欠かせないものだと考えています。
経験主義的な考えにとらわれがちな現代において、経験していないことについて考えを巡らせる想像力を培うために、私たちは知識をつけようと努力しますが、それと同等(あるいは以上)に身体的想像力が大切だと考えています。その為に、身体の深淵を知ることが必要不可欠でした。
ある身体状況に置かれた時、人はどのような考え・感覚に至るか、身体はどのような在り方をするようになるか、どんな行動をとるのか。それらを自らの体で理解してゆくことは人間を知ることです。
遠い過去の人間の歴史、その成功にも過ちにも、身体的に思い巡らすことができるだろうと思います。あるいは遠い地で起きた災害・戦争についても、身体的想像力をもって考えることができるやもしれない。そんな希望が人間の身体にはあると考えています。
絵画の主役
自然物が描かれていても、絵画の主役はあくまでも人間です。人間という生き物が持っている感覚・認識のあり方、それらを探ることが、この行いによって最終的に行き着くところです。
「自然と人間の関係性を探る」という言い方もできますが、最終的に行き着く関心ごとは「人間とはどのような生き物であるか」です。それを鉱物を描くことで探求をしている、という軸がここ2−3年で固まってきました。
以前展覧会のレビューを下さったある方の文章でハッと気づかされたのは、私は石ころを描くことで「絵画的検証」を行っているのだということ。私は人間を探求するために、絵画制作をしています。
(だから、というわけではないのですが、昔から美術史や絵画論などにはさほど興味を持てないでいます。)
死者について
そして結局は「生命とは何か」「生きるとは何か」「命とは何か」を考えるところに行き着きます。
私はどうしても昔から、様々な時代の地層に眠る死者の存在を無視することができないできました。しかも、どこの誰とも分からない死者に支配されてきた。
子供の時から、死んだ後の世界なんかよりもこの世の方がずっと怖かった。自分が生まれる前に人類に起きた事を知れば知るほど、とんでもない世界に生まれてきてしまったもんだと思った。その過去を人類として背負って行きていかねばならないのだと思った。
「人間とは何か」を探求せずにはいられないのは、その過去を背負った生き物としての責任があると感じているからかもしれない。でも一体誰への責任なんでしょう。
ここ2−3年は特に、死者という存在は人間にとって一体何なのだろうと考えながら制作しています。
2019年の夏に恐山に行きました。菩提寺の院代が、「「死者」は私たちにとって、下手をすれば生者よりもリアリティのある存在で、私たち生者は、死者によって支配され、生かされている。」「不意に訪れる人の死を受け入れられない時、生者は死者に支配される。不思議なことに、目の前の生きて側にいてくれている人よりも、死者は大きな影響力を与える存在になりうる。」と話しておられました。
確かに、生きてそばにいてくれる人たちがいるにも関わらず、なぜこんなにも、もういない人達のことばかり考え捕らわれるのだろうと、自分でもとても不思議だった。
もう人間なんてどうしようも無い生き物はさっさと滅びればいいのにと思いたくなる反面、この姿形の身体を持って生まれ、存在している、人間という生き物の可能性を信じたいという思いが頑なにあるのも事実。
あるいは、私はその人間の可能性を、絵画制作を通して探っているのかもしれないとさえ最近は思います。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
まだまだ自分の行いに対して「かもしれない」が多いのも心苦しいですが、
最近は、展覧会のレビューなどを書いてくださる方々の言葉を見て、時に私自身が語るよりも上手く言い表してくださっていたりと、ハッとさせられることが多々あります。
そういった方々のお力を時々借りながら、自分でも言葉によって整理をつけていくことをこれからも続けたいと思い、その端緒となるnoteをまとめた次第です。
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● 本記事の掲載作品情報(トップ画像から掲載順)
・《窟》(掲載写真は作品部分)H20 × W26 cm 2015年
・《散乱系》(掲載写真は作品部分)H138 × W160cm 2016年
・《哀歌》各 H91 × W72.7 cm 2017年
・《海獣》H29 × W40 cm 2015年
・《鬼灯は明かりで、提灯の代わり》H175 × W200 cm 2017年
・《明滅する影》H56.2 × W90 cm 2019年
・《水盆上で起こったこと》H 53 × W 72.7 cm 2019年
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