中国古代の「人質」──戦国期の安全保障
歴史雑記110
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※ヘッダ画像は人質の子として生まれた始皇帝さん。
はじめに
今回は人質について書く。
中国古代の漢文史料では「質」と書いて「ち」、「質子」と書いて「ちし」と読む。
日本中世の場合は「証人」とかもっと婉曲な表現が用いられることもあるが、「人質」と端的に書くこともある。
人質を取ることは、それを差し出した先の行動を掣肘する(裏切りを防ぐ)ことが第一目的となろうが、もっと大きなスケールで政治的な意味を持つこともあった。
始皇帝の父・子楚の場合
『史記』の著名なエピソードが示すとおり、始皇帝の父・子楚は人質であった。
始皇帝や呂不韋にかんする記述は非常に説話的な要素を多く含むため、エピソードの細部までそのまま信じることはできないが、子楚が秦の公子であり、隣国の趙に人質に出されていたことは間違いない。
ただし、子楚が有力公子でなかったというのもまた事実と認めてよい。
昭襄王は子楚が趙の都・邯鄲にいるにもかかわらず、たびたび軍を起こして趙を攻めているからである。
『史記』はそのために子楚がずいぶんと肩身がせまい思いをしたと記すが、これも事実かどうかはわからない。
太子も質となる
そもそも、子楚の場合は一例でしかなく、もう少し仔細に『史記』を読んでいくと、有力公子が質となっている例もずいぶんと見受けられる。
「太子」と記されている例だけをざっと見ても、以下の人物を検出することができる。
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