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「行けたら行く」について──本当に行けたら行っていたおじさんの愚痴

 歴史雑記088
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はじめに

 今日は、「行けたら行く」について書こうと思う。
 ご存知の方も多いと思うが、最近、Twitter等で「行けたら行く」「知らんけど」などの関西弁を由来とするフレーズが頻繁に用いられるようになってきた。
 ただし、その用法を文脈的に見る限り、筆者のような関西人のおじさんが幼少の頃──僕の場合は大体30年くらい前の話だが──その当時のニュアンスと大幅に変わってしまっているように感じるのだ。
 どのように変わってしまっているのか、そして言葉の変化が進行することで、ネイティブ話者に何が起きるのかについて、少々考えてみよう。
 半分は愚痴であるから、気楽に読んでもらえれば幸いである。

マジで行けたら行っていた

 さて、僕がむくつけき幼少のみぎり、「行けたら行く」は日常生活において頻出するフレーズであった。
 ただ、当時の小学生の社会において、少なくともネガティブな意味で使われる事は稀であったと言うのが体感である。
 なぜなら、おそらく多くの人が証言もしてくれるであろうが、我々は本当に「行けたら行っていた」からである。

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