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張良雑考④──韓王成と張良
歴史雑記113
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※ヘッダ画像は『絵本通俗楚漢軍談』より、二世皇帝(胡亥)殺害のシーン。
はじめに
少し間が空いてしまったが、不定期更新の張良にかんする記事をお送りするしだいである。
これまでの記事は、こちらのマガジンにまとめてあるので、復習したい方は下記よりお読みいただければ幸いである。
『史記』の仕様の問題で、時系列が行き来するので、まとめて読んでいただいた方が圧倒的にわかりやすいと思います。
さて、今回は張良が挙兵する原因となったと考えられる、戦国韓の復興事業と、張良のかかわり、そしてスタンスの変化について見ていきたい。
当初の張良の目標が韓の復興であったことは疑いないが、最終的に彼は韓王信と少し距離を置いたポジションに収まっている。
このあたりを少しばかり考えてみよう。
韓王成の登場
以前も述べたが、統一秦の二世二年六月は、まさに激動の一か月となった。
斉を復興した王族の田儋は、同じく魏の王族で旧魏の地を次々に奪還し、意気盛んであった魏咎が秦の反攻に遭ったのを期に援軍として臨済に向かうも、秦の名将・章邯に敗死し、魏咎は臨済の民の命と引き換えに自殺して果てた。
田儋、魏咎の死によって、景駒の跡を襲って楚政権の勢力を伸長させていた項梁は、秦の巻き返しに直接的にさらされることになる。
同月、項梁は楚王として懐王心を立てた。同時に、張良の申し出を採用し、韓の復興にも手を貸すこととした。
ここにおいて、韓王成が登場する。
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