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【カサンドラ】 6.退行

私が最後に泣いたのは、7歳の時だったろうか。
物心ついた頃から、狭いダイニングの一角で一生懸命に稼働していた二層式の洗濯機が壊れ、処分の日まで庭に置かれていたのだけれど
何年も働き続けた挙句、使えなくなったからと庭で雨ざらしにされている姿が可哀想で仕方なくて
だけどそれを親に訴えれば、また笑われると思い
家の中に入れてあげてほしいと、言えなかった。
兄弟がいない私にとって、自宅にある無機物は全て大切な友達だったのに
何もしてあげられない自分が嫌で、ひとりで学校のトイレに籠って泣いた。

あの日から今日の今日まで、
自分が感情を抑えているという自覚すらなかった。
私は幼い頃から全然笑わない子供だったと聞いていたから
涙が出ないほど心が動かないのは、自分の性格なのだと思っていた。

私が母から受け取った言葉を口に出した時、祐介は腕に力を籠め「もう家に帰らなくていい」と言ってくれた。
そしてその後、お互いが抱えた過去を打ち明け合った。

祐介の家は母親しかいない。
幼い頃に父親が借金を作って出て行ってから
母親と姉と3人で借金取りに追われる生活を続けてきたという。
8歳ほど歳の離れた姉は既に嫁いでいて、今は幸せに暮らしているが
その姉が年齢を偽り水商売をして生活を助けていたらしい。
そんな日々を長く送ってきたため、当時を思い出すから、と、
祐介は家の電話が鳴る音を嫌がった。

私の家庭は貧しかったけれど、
食べるものに困ったことはなかったし、手先の器用な父が私の遊具や家具を作ってくれたり、母が揃いのワンピースを縫ってくれたりしていたので、貧乏と感じたことはほとんどなかった。 
おっとりした気質の母は、期待に応えれば露骨なほど褒めてくれたが、
機嫌を損ねると何日も掛けて私を無視した。
理由さえわからないまま、無言で出される食事を黙って口に運び、返事のない「ただいま」を置いて、
ひたすら母が会話をしてくれる時を待っていると
ある日突然いつもの笑顔を見せてくれる。
私にとってその瞬間は、どんな高価なプレゼントよりも嬉しかった。


一度捻ってしまった蛇口は、案の定以前のように硬く締めることができない。
身体の中でパンパンに膨らんだ風船の中から未知の液体が吹き出るように
この日から自分でも知らなかった自分の姿がいくつも現れた。

どんな私を見ても、
祐介は私の全てを受け入れてくれるけれど、
私には彼の全てを受け入れるスペースがないので
腐葉土にように溜まり固まった感情を一方的に祐介にぶつけるようになっていった。
その関係性は恋人同士というより、幼い子供と父親のようでもあった。


他人に、自分の全てを受け入れられるという経験が
心地悪くてたまらない。
虫唾が走るほど気持ち悪く、鬱陶しい。
だって私は、誰かの目に映る自分しか見えないのだ。
人は「自分」という弱々しく何も無い肉体から成長し、努力をして外壁を固め
その壁を見て誰かが褒めてくれたり、愛してくれたりするのではないのだろうか。
私はそれ以外の愛され方を知らなかった。


Real Lover-Mad Lion 

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