【カサンドラ】 ~第1章~1.2019 凶夢
「ちょっと慎ちゃんもう食べないのー?早く食べちゃってよー。
パパもママももうお仕事行かなきゃいけないのー!」
見慣れた男性アナウンサーの爽やかな笑顔を映すテレビの前で、4歳になる慎太郎がバスのおもちゃを持って動き回っている。
チラチラとリビングの掛け時計に目をやりながら
粘着式のコロコロで、紺色のジャケットについたホコリを忙しなく取っている真紀子の姿を
熱いコーヒー片手に、僕はのんびりと眺めていた。
ガタンとドアが開く音で我に返ると 靴下とフローリングを擦れさせ滑り込むようにして
孝太郎がキッチンにスライディングしてくる。
真紀子から給食用のナフキンが入ったスカイブルーの巾着袋を受け取ると
「行ってきま~」と言って風のように外へ出て行く。
行ってきま「す」まで言わないのが彼の中のブームらしい。
真紀子は大学時代の同級生だったが、社会人になってから偶然の再会をきっかけに付き合い始めて
今年で結婚12年。
何かとやることが早く、料理も上手い。容姿も、劇的な美女という訳にはいかないが
結婚当初すでに中年太りをし始めていた僕の嫁さんとしては、充分すぎる妻だ。
「ー昨夜8時頃ーーー」
保育園の送りは僕、迎えは真紀子がしている。
僕は苦手な料理をしない代わりに掃除と洗濯をするように家事を分担しているので出社前に朝食の片付けをしてしまいたい真紀子にとっては戦争のような朝だ。
「神奈川県鎌倉市の住宅で火災がありーーー」
家事分担。家事…
火事…?
朝の風景の一コマのように日常に溶け込む報道番組から、突然聞き慣れた文言が耳に飛び込んできた。
「鎌倉って言った?」
真紀子がコロコロの手を止めた。
「え、鎌倉のどこ?」もう一度真紀子が言った。
僕は真紀子からテレビに視線を移した。
神奈川県鎌倉市の住宅で火災
一家心中か
と、画面右上にテロップが出ている
「これパパの実家の近くじゃない?」
「・・そうっぽいね…まじで・・?」
「あこの川!」「…滑川じゃんこれ…」
「---亡くなったのは、この家に住む渡辺広樹さん(78)と妻の優子さん(76)、
長女の渡辺優希さん(42)と見られており、一家心中の可能性を視野に捜査を進めています--」
「渡辺…渡辺って…」
「え!なに!知り合い!?」
「や、わかんないけど、小学校の時同じクラスだった女の子のこと思い出した」
「やめてよー!」
「いや渡辺なんて苗字いっぱいいるから、、わかんないけどこの景色・・」
「ちょっとー!本当にそうなの?あほら家の近く映ってるよ」
真紀子に促されテレビ画面を見ると、そこに映されたあまりにも懐かしい情景に背筋が凍った。
滑川を挟んで分断する2本の道の右側を進み、その通り沿いにある細い路地を入って左に直角に折れると、渡辺の家があった。
何度も何度も通ったあの滑川の前の通りを
数十年ぶりにこんな形で目にすることになるとは思ってもいなかった。
恐らく、そこまでしか車が入れないからだろう。川沿いのフェンスの前に
黄色い腕章を付けた報道陣がひしめき合っている様子が、
ただ事では無い惨状を物語っていた。
渡辺優希
20年近く忘れていた名前だ。
最後に彼女の名前を聞いたのは、20代の頃に鎌倉駅の居酒屋で行われた同窓会の時だったろうか。
職場の近くで時々渡辺を見掛けるという坂本の話では、
シャブ中になって、ガリガリに痩せ細っているという噂だった。
本当か嘘かわからないが、当時でそんな噂が立つくらいなのだから
まともな生活をしていなくてもそれほど驚きはしないが
僕個人の記憶を辿れば、一家心中にはまるで繋がらない。
裕福な家庭ではなさそうだったが、小学生の頃の渡辺は割と良い服を着て登校してきていたし、
成績が良くユーモアがあり、高学年になるとクラスでも人気があり華やかな印象の子という記憶しかない。
教室でアイドル歌手のモノマネをしたりして、確かファンクラブがあるという噂もあった。
瞬時に20年以上開いていない扉を開け古い記憶にアクセスするうち、火事のニュースは終わっていたようで、
画面は愛らしい犬が無邪気に駆け回る映像に変わっていた。
僕はようやく今に戻り、壁の時計を見た。
「パパもう出ないとやばくない?」
「うん・・・慎太郎、行こ。」
昨日までまったく考えていなかったことが突然脳内に次から次へと駆け巡り始め
保育園までの道のりで慎太郎と何を喋っていたのかさえわからない。
あの渡辺だろうか。金に困っていたのだろうか。
そもそも渡辺は、またあの土地へ帰ってきていたのだろうか。
倒錯する思考を必死で追いかけていると、「井山さーん、おはようございます!」と爽やかな声が聞こえた。
慎太郎と同い年の女の子を持つ高野さんのご主人。
黒髪の短髪に黒縁メガネを掛けて、白いボタンダウンシャツ姿のいかにも誠実そうな男性だ。
年齢は確か、僕より5歳ほど若い。笑うと目がなくなるタイプで、真顔の時と表情が大きく変わる。
高野さんはいつもと変わらぬ癒しスマイルを投げかけてきたが、
慎太郎に目線を合わせ「おはよー」と微笑むと、すぐに姿勢を戻した。
僕が高野さんの娘さんに挨拶をする間もなく
「井山さん、今朝鎌倉のニュース見られました?」
と問いかけてきた。
つい先週だったか、子供会のイベントの時に僕の地元の話をしたばかりだったので
彼も驚いたのだろう。
僕は「はい・・」と短く返事をしてから
今朝の衝撃をそのまま話した。
「まさか自分の地元で一家心中が起きるなんて、、びっくりしますね・・・」
高野さんは少し憐れむような表情でうんうんと2度頷き、
保育園の門を開けて僕達を先に通した。
そそくさと慎太郎を預け、駅に向かって歩き出すと
高野さんのご主人が追いかけてきて、先ほどの話の続きを始めた。
「さっき・・子供たちがいたんで言えなかったんですけど
心中じゃなくて、家庭内殺人だったみたいですよ。」
「 殺人?」
僕は思わず一瞬足を止め、目を見開いて声を潜めた。
高野さんは、落ち着いた様子で深く頷きながら
「消火が早かったから、遺体の損傷が少なかったんじゃないですかね。
母親の身体に深い刺し傷があったみたいで」
IT企業に勤める高野さんのことだから、ネットからの情報だろうか。
最近はテレビより情報が速く、確実だったりするから侮れないものだ。
朝からそんな怖い話を聞いてしまい、僕は駅まで行くことさえ嫌になってしまった。
「僕の実家、まさにあの辺りなんですよね。あそこからほんと数分・・」と漏らすと
高野さんは、”あ”の形に口を開いたまま目をまん丸くして固まった。
鎌倉というと余所者が一番に思い浮かべるのは海岸線や観光名所になっている寺院がある辺り。
僕が少年時代を過ごした十二所という土地は、同県内の人であっても読み方さえわからないほどマイナーな”村”だ。
高野さんも、鎌倉にあんなマニアックな場所が存在し、
ましてや僕がそこの出身だとも思わなかったろう。
僕は改札で高野さんと別れて通勤ラッシュに飲み込まれたが
その日常が何だか安心にさえ感じられた。
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