その人そのものにタッチしたい
2020年1月からコーチングを学びはじめ、時にたのしく、時に自分の足りなさを痛感しつつセッションをさせてもらっています。
続けていると見えるものがすこしずつ増えてきました。
どんな肩書きやラベルやタグがくっついていても、みんな人間なんだ
そんなことを思うことが増えたので、書きつつ考えていきます。
このnoteでもちょっと書いてたね。
小学4年のときに先生も人間なんだなあと実感したように、
どんなにすごいビジネスマンや経営者も人間なんだよなあ。
生意気な小学生だった
小学4年の担任の先生とあまりソリが合わなかった。
なんでだったかはよく覚えていないけど。
授業を聞かずに机の下で本読んだりしてた。マジ失礼。
もっとちいさいころ、先生や親などの大人に対して、「正しい・きれいな規範、絶対的な善」みたいな感覚を持っていた。
そうじゃないんだな、と実感したのが小学4年生の時。
おおげさな何かがあったわけじゃない(覚えてないし)のだけど、
先生でも感情でものを言ったりするし、(自分と同じで汚いところもある)人間なんだ
とおもうようになった。
なんかたぶん言われたことが納得いかなかったとか、それって先生の都合じゃない?っておもったとかだと予想。
我ながらかわいくない10歳である。
モモの読み聞かせをしてくれると言いつつ、いつのまにかなくなったのとかまだ覚えててびっくりする。
余談ですが、モモで描写される時間の概念がとってもすてきなので、心に余裕を持ちたい人はGWのおともにぜひ。
ラベルづけにひそむ落とし穴
先生だけじゃなく、経営者、ビジネスマン、リーダー、学生などなど、人間に付与されている属性としてのラベルを表す言葉はたくさんある。
ラベルづけは便利だ。その方が効率がいい。何をやっているのか分かりやすいし、自分と同じ属性の人に親近感を覚えたり、レアなラベルが貼られていると信用が得られやすくなることもあるだろう。
でも落とし穴もある。
その人そのものから遠くなるのだ。
人間を複数のラベルのあつまりとして認知する行為に慣れすぎると、コピーの存在しないひとりの人間をパズルのピースのように知覚しかねない。
・(自分にとって)使える/使えないという価値基準
・数値やスペックによる判断
これが必ずしも悪だとはおもってないんだけど、これがクセになっていて、かつ自覚できていないとしんどくなりやすい。
・あるラベルがついた人への期待値が上がりすぎる
・価値のあるラベルがないと感じて絶望する
ラベルの集まりとして誰かや自分を見ることは、人間を機械のように代替可能ととらえる感覚とたぶん近しい。
成人発達段階でいう、オレンジ(自己主導段階)の世界観とも言えるかな。
人間にタッチしたい
コーチングセッションでは、感情や気持ちにフォーカスする。
どう感じていますか?
どうなったら嬉しいですか?
その奥にある感情はなんですか?
これは、ラベルをていねいに取り外して、その人固有の、人間としての輪郭を確かめる行為なのかなあ。なんてことを考えている。
自分の気持ちや感情は、わかってる。とかつてはおもっていた。
ぜんぜんわかってなかったな、といまはおもう。
・やりたいって言ってるけどできないこと
・もやもや悩んでること
・いつもの失敗パターン
こういうものの奥には、自分でもわからない感情が眠っている。
それは、忘れていたり、フタがされていたり、別の名前で認知されているかもしれない。
ラベルを一緒に取り外していって、ひとりの人間としての自分に向き合う時間がデザインできたら、きっとわからなかった何かがクリアになる。
人間そのものにタッチできたときのコーチングはパワフルになるな、とも感じているので引き続き試行錯誤していく所存。
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これ、お知らせのお知らせでは...
お知らせその2
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めちゃ濃そう。たのしみ。
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