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【閉塞感】

今年に入ってから韓国バラエティ(リアリティーショー)を好んで観ているのだが、その中にはコロナ禍に撮影されたものもいくつかあって、それらを観ていると、日本はますます芸能面でも、韓国に追いつけなくなる姿しか見えないなと実感する。

もちろんコロナ禍の撮影であることは冒頭でテロップが入ったり、徹底した衛生管理のもとで撮影が行われていることは説明されているけれど、もし日本で同じような説明を冒頭で入れたとしても、同じような番組をつくったら、おそらく非難されただろうなと思う。

全員がコロナ陰性であることはわかっていたとしても、マスクなしで複数の人間が集まり料理をしたり、おしゃべりをしながら食事やお菓子をつまんだり、ときにお酒を飲んだりという、いま見ればなんとも思わない当たり前なことでも、当時の日本で同じことをやって放送したら、激しく糾弾されただろうなと容易に想像がつく。

なにしろあの頃は、緊急事態宣言やマンボウなどで、飲食店での酒類提供の自粛、営業時間の自粛と、先の見えないガマンを国民に強いて、朝の経済ニュースでは、アナウンサーがマスクをしたままニュースを読むという信じられない事態があったのだから。

とはいえ、わたしも韓国に住んでいたわけではないし、かの国の実態がどうだったのかはよくわからないし、仮に何かニュースになっていたとしても、まったく覚えていないので、当時の韓国の実態がどうだったのかは、まったくわからない。

それでも、ああした番組を放送できる(視聴者も受け入れられる)だけのココロの余裕みたいなものは、少なくともあったはずだ。

でなければ、ああした番組が複数放送されるはずがないのだ。(しかも視聴者参加型で)

そしてそういう寛容さが、いまのニッポンには圧倒的に不足しているのだなと、コロナ禍で撮影された韓国バラエティを観ていて痛感するのだ。

わたしは現代人にしてはめずらしく、海外へ行ったことがない人間なので、日本と海外の実際の違いを自分自身の身体で感じたことはない。

あくまでも映像等のコンテンツからしか、その違いを知る機会はない。

けれども、そうしたコンテンツから韓国の寛容さを感じるほどに、日本の窮屈さも同時に感じるのだ。

この息のつまりそうな慢性的な閉塞感を、他国のバラエティ番組をつうじて本当に強く感じるのだ。

折しも昨日は、石破新総裁が誕生した。

個人的には誰が総裁になっても、この国に希望は持てないと思っているが、ますます日本の斜陽化に拍車がかかるだろうなと、ため息がでてくる。

そしてたぶん、(今もほとんど観ていないけれど)わたしはますます、日本のテレビ番組を観なくなるのだろうなと思う。

貧困と高齢者にターゲットをしぼった番組に、寛容さなどあるわけがないのだから。

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