妹
昭和48年生まれの妹は先日、49歳になる予定だった。7歳違いだった。
でも、21歳で自死した。
車にホームセンターで買ったビニールパイプで排気ガスを車の窓に引き込み、同じくホームセンターで買ったガムテープで目張りして。
あんまり好きでもないビールを飲んで意識を薄らわせて逝ってしまった。
今の車は、そういうことが起きないようなガス排出量になっていると最近知って安心した。
末妹の彼女は何も知らない。
世間が変わってしまったことを。
多分おニャン子クラブぐらいで止まっていると思う。
坂道シリーズはもちろん、モーニング娘。も知らない。
彼女が大好きだった洋楽でも
ビヨンセがすでにベテランの域に達していることも、ビリー・アイリッシュもエド・シーランも、私が大好きなジャスティン・ビーバーも知らない。
彼女が逝ってしまった日、夕方帰宅して晩ご飯の支度をしている時に玄関のチャイムがなった。
こんな時間に誰だろう?と思いつつ、玄関ドアを開けても誰もいなかった。
空耳じゃない。確かに聞こえた。
日付が変わって未明、母から警察署から身元確認に来てほしいと電話があったと連絡が入る。
まだ夜の開けぬ中、ナビもない時代にどうやって知らない街の警察に行きつけたのか覚えていない。
妹はノート1枚分に、ただ「誰も悪くありません」とだけ記していた。
いっそのこと誰が死に追いやったのかを記していてくれた方が楽だったかもしれない。
検視した医師は「優しい方だったんですね。お辛いかもしれませんが、ご本人がそう言っているのだから、犯人捜しはしなくていいですね」と言った。
あの夜のチャイムは妹が鳴らしたのだ。
「お姉ちゃん、さよなら」と。
時間を戻して。
警察署に着いたとき、母は車のドアを閉めることさえままならぬ放心状態だった。
その時、母子家庭の三人姉妹の長女である私がしっかりしなければと決意した。
妹は母のお小言は聞かなかったけど、私を慕ってくれていた。
私が結婚した時は「あの人にはお姉ちゃんはもったいない」といい、
娘が生まれたら「わたしのお姉ちゃん、取られちゃった」と言っていた
話をあの朝に戻す。
とにかくしないといけないことを追いかけるように、
死亡証明書取得から始まって仮通夜・通夜・本葬と続いた。
遠方から来た親戚の対応もあったし、
嫁に行かないまま逝ってしまった妹にウエディングドレスも用意した。
泣く暇なんかなかった。
「これはどうしますか?」
「こっちはどうしましょうか?」
葬儀社とのやり取りはリアルタイムに進んでいった。
それは四十九日まで続いた。
妹の死去では1週間しか特別休暇がもらえず、
職場も超繁忙期だったので、とりあえず職場復帰。
1ヶ月は毎日真っ黒な服で仕事に臨んだ。
どうか私の傷に触れないでくださいというアピールをしていたのかもしれない。
その時は滞りなく仕事をこなせたが、
1年後、同じ時期を迎えて自分が何をどうしたのかを覚えていなかったのはショックだった。
人間って、感情を殺して仕事ができるものなのだと初めて知った。
アーユルヴェーダでは、苦しみを抱えたまま死んでしまうと、
あっちに行ってもその苦しみを抱えたまま闇の中を彷徨うらしい。
彼女の決断。彼女の意思。
数年前まで、当時一緒に暮らしていた母に
「なぜ、寄り添って変化に気付いてあげられなかったのか?」と責めていた。
が、審判を下すのは妹自身であるはずで、私が責めるのはお門違いと気がついた。
それから、母を責めるのを止めた。
不思議と心が軽くなった。
彼女の意思だから、私が代弁する余地はないのだ。
ただ、自ら命を絶った苦しみに彼女が苦しんでいないことを祈るばかり。
彼女の魂が己の選択によって、さらに苦しい思いをしていないことを祈るばかりだ。
遺された私には祈ることしかできない。それしかできない。
自死遺族は、己であれ「殺人」と「死去」という苦しみを二重に抱えて生きていくことになる。
自死であれ、病死であれ心に空いた穴は、
残念なことに他人様が慰めてくださるように時間が解決するものではない。
穴は開いたまま、なのだ。
ただ、いつも心の穴に風が通るのに慣れていくしかない。
伸ばしたクッキー生地に型を当てるとくり抜いたその瞬間はエッジが立っている。
が、時間が経つとバターがだれて、エッジが無くなるのとおんなじ感じ。
穴は決して埋まることはない。
だから、その穴を埋めようとする必要はない。
見つめ続けていくしかない。
それが大切な人を失った者の宿命だとも思う。
今の私は、ちょうど妹の誕生日を迎えたばかりでナーバスになっているかもしれない。
しかし、その勢いで今まで心に散文的に心の中に横たわっていたことをすべて吐き出し、心の整理ができたように思う。
そんな自己満足にお付き合いいただき、
ここまで読んでくださった方に心から感謝します。
ありがとうございました。