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祖国のために原子爆弾を作るのは悪だろうか

ハイゼンベルグという天才をご存知だろうか。
1901年のドイツに生まれ、二度の大戦に巻き込まれながらも量子力学という現代物理学の分野を切り拓いた人物だ。僕の憧れでもある。

31歳の若さでノーベル物理学賞を受賞したハイゼンベルグは、第二次世界大戦中にドイツの原子爆弾開発チーム〈ウラン・クラブ〉に招集された。原子爆弾開発の善悪についての話し合いの中で彼は次のように述べる。

「原子爆弾も悪のためでなく善のためなら作っても良いのか」
「何が善であり何が悪であるかということを、一体誰が決めるのか?」


「一つのことが善か悪かは、手段の選択によって初めて認められる」

(引用元:『部分と全体』ハイゼンベルグ著 山崎和夫訳)

つまり「〇〇のため」という目的ではなく、「目的のために何をするか」という手段で善悪は判断されるというのだ。例えば、子供のためと言いつつ暴力を振るう大人は悪だ。

もちろん、このアイデアのもとでは原子爆弾の開発はたとえ祖国のためであっても悪だということになる。どんな目的があったとしても、そのために大量虐殺兵器を使用することや開発することは「善いこと」とは言えないだろう。ドイツの物理学者が原子爆弾を開発することはなかったが、その背景にはこのような思想があったことも大きいのかもしれない。

僕は大いに感動したし、納得した。元々街を破壊しながら人々を守るスーパーヒーローに疑問を持っていたくらいだから、このアイデアはスッと腑に落ちた。どんなに崇高な思いがあっても、それが誰にとっても崇高であるとは限らない。
ここまで考えたところで、ふと疑問が浮かんだ。「物事の善悪は手段の善悪で決まるとして、手段の善悪は何で決まるのだろう?」僕は考えてみることにした。

手段、言い換えれば行動は必ず自分以外の誰かに影響を与える。だから他人に直接的な影響を与えることのない思想とは違って、他人への影響によって善悪の判断が可能になるのだと思う。その判断とは、他人に嫌な思いをさせる行動は悪だというとても簡単なものだ。ここでおそらく、道徳や常識と呼ばれるものが必要になるのだろう。人間ならば持っているだろう共通の感覚、それがここで役に立つのだ!

僕は、日常生活のスケールでも自分のしたことがよかったのかどうか悩んでしまうことがある。そんな時、自分の目的とか思想は置いておいて純粋に自分の取った行動を客観的に眺めてみることが大切なのだろうと思う。嘘はつかなかったか。誰かに迷惑をかけなかったか。そういう意味では、この思想は「行動がすべて」という言葉で表されるのかもしれない。チープに聞こえるけど、普通のことを普通の言葉で表現することも大切だと思う。

僕が明日から急に原子爆弾の開発に携わることはないだろう。でも、戦争の中でも善悪の平衡感覚を失わなかったハイゼンベルグの思想を大切にして生きていこうと思う。いい行動がいい未来を連れてくると信じて。



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