「僕らの別荘」見てて思い出したけど、新海誠の『秒速5センチメートル』が好きだった。
僕はよくYouTubeを見る。
色んな人の動画を見るというよりは、気に入った何人かの動画を見る。今も動画を見ていた。
それで懐かしい気持ちが呼び起こされてしまったから記事にしてみようと思った。少し付き合って欲しい。
僕の気持ちを動かしたのはこの動画だ。
これは「僕らの別荘」というチャンネルのサブチャンネルの動画だ。僕はこのチャンネルが大好きでよく見ている。男4人が「別荘」で喋ってる動画を上げている。面白くて、楽しい。石井さんが大好きです。気になった人はメインチャンネルの方から是非見てみてね。面白いよ。
この動画では2人の男が別荘のソファーを組み立ながら話をしている。その中で新海誠さんの『秒速5センチメートル』の話があった。僕は、それを聞いて凄く懐かしい気持ちになった。
僕は中学生の頃、『秒速5センチメートル』に出会った。映画もあるらしいけど、僕は小説しか読んだことがない。
見たことの無い人の為にあらすじをまとめよう。知ってる人は飛ばしてね。
物語は3部構成になっている。
第1部は主人公の貴樹が中学生の頃の話だ。貴樹は小学生の頃、明里という女の子と仲が良かったが、彼女は東京から栃木に引っ越してしまう。会えなくなってしまった2人だが、文通は重ねていた。そんな中、貴樹も鹿児島へ引っ越すことになってしまい、「もう二度と会えないかもしれない」と思った貴樹は、3月のある日栃木まで電車で逢いに行くことを決意する。しかしその日関東は大雪となり電車は長時間停車してしまい、更に乗り換えの駅で明里に渡すはずだった手紙を風に飛ばされてしまう。深夜、約束の時刻をとうに過ぎた頃に貴樹が到着すると、そこには明里がひとりで待ってくれていた。2人は雪の中、桜の樹の下で唇を重ね夜を明かす。そして翌朝、貴樹は明里に見送られながら電車で帰るのだった。
第2部は種子島に住む高校3年の女子、花苗の目線で語られる。花苗は中学の頃に東京から引っ越してきた貴樹に恋をしていた。趣味のサーフィンでもなかなか波に乗ることができずにいたが、ついに波に乗ることが出来た日に、貴樹に想いを告ようと決意する。そして高校からの帰り道、想いを告げようとした瞬間、貴樹からの無言の拒絶を感じてしまう。ついに告白できなかった花苗はその時打ち上がったロケットを見ながら、貴樹は自分よりももっと遠くの何かを見ているのだと悟るのだった。
第3部は東京で社会人となった貴樹の話だ。3年付き合った理沙に「心が全く近づかなかった」と言われ、また葛藤から会社も辞めてしまう。貴樹は中学生の頃からずっと明里を求め続けていたのだった。ある春の日、貴樹は小学生の頃の通学路を歩く。踏切に差し掛かったところで、前方から歩いてきた女性とすれ違う。2人は何かを感じ取り、踏切を渡り終えて2人が振り向く。その瞬間、電車が視界を遮り、電車が通り過ぎた時彼女の姿はなくなっていた。それでも貴樹は何かを決心したように静かに歩き出すのだった。
とまあ、こんな話なわけです。映画もいいらしいから見てみてね。
中学生の僕は、このお話が僕にもたらす苦しさが大っ嫌いだった。読み終わったあとはどうにも苦しくて眠れなかったのを覚えている。だけどその分、大好きだった。中学生の僕にとって、とてつもなく大きな何かを動かされたんだと思う。
僕が特に好きだったのは第2部だ。というか、花苗が大好きだった。真っ直ぐにサーフィンに向き合い、真っ直ぐに恋に向き合った女の子がどうにも眩しくて、幸せになって欲しいと本気で思った。ロケットが打ち上がるシーンは本当に苦しかった。
僕は昔から、何かに真っ直ぐに向き合える人が好きだ。真っ直ぐ向き合って、真っ直ぐ傷つく。それがかっこいいってことだと思う。もしかすると僕は正しく傷つくことに美学を見いだしてるのかもしれない。
僕はずっと「正しく傷つく」ことに謎のこだわりがある。たとえ後で自分が苦しむことになったとしても、そこまでの過程に自信が持てるのなら、それは正しい傷だと思う。正しい傷は痛い。僕はその痛みが大っ嫌いだけど、何故かそこに向かわなければいけない気がしている。もっと楽に生きればいいし、自分を守ればいいんだと思う。そう言われたこともある。だけどやっぱり僕は正しく傷つきたい。
上手く伝えられなくても自分の気持ちを伝えたいし、自分に自信が持てないままで他人を愛したい。そうやって傷つきたい。
世にありふれた言葉で言うと、「やらない後悔よりやる後悔」ってやつだ。
そういう意味では、この話の中で嫌いだったのは貴樹だ。彼は与えられた苦境によってのみ苦しんでいるように見えた。自分のせいで苦しみに行ったことが無いように見えた。そういうスカした奴は、僕は嫌いだ。
動画の中で石井さんがそんなようなことを言ってて、それでこの話を思い出した。行動しないと何も起こらないよって話だ。
自分で何かを決めることは、自分が失敗することを受け入れることだと思う。未来の失敗の可能性を受け入れるのかもしれないし、過去の出来事が失敗だったと受け入れるのかもしれない。それはわかんないけど、必ず何かしらの痛みを抱えるはずだ。
僕は昔、大人になるってことはその痛みを感じなくなるってことだと思っていた。今考えると、それは半分合っていて半分間違っていた。
大人だってその痛みは感じている。それに上手く対処しているだけだ。
まず、自分のできる範囲が分かってくるから、そこから出なくなる。そうすれば失敗も少ない。僕もそうなってきた。難しい曲は歌わなくなったし、下手くそなスポーツはやらなくなった。
それでも失敗する時がある。その時にちゃんと傷つける人が世間ではネガティブとか言われてるんだと思う。そういう人を現実への向き合い方が下手くそと言うのかもしれないけど、僕にはむしろ輝いて見える。そういう意味で、僕は落ち込んでる大人が大好きだ。抱きしめたくなる。
もちろん所謂ネガティブにも色んな人がいて、痛みを逸らすためのネガティブもある。そういう人は詰まるところポジティブな人たちと同じだと思う。自分自身を痛みを感じにくい体に作り替えている。どうせ痛みをそらすならポジティブにすればいいのに、とは思うけど、その人の性格上その方が楽なのかもしれない。
僕はこんなことを考えながら、長らく葛藤してきた。「苦しまず生きたい」VS「正しく傷つきたい」のタイトルマッチだ。結果、ある程度苦しんでこれたと思う。それが誇りでもあるし、一方ではもっと上手く現実と向き合わなきゃなとも思っている。
自分は勉強が出来ると思っていた。東大に来て、勉強で全く太刀打ちできずに傷ついた。それでも勉強にしがみついてもっと傷ついた。進振りでやりたかった勉強への道が閉ざされて、やっと「僕は出来ない」を受け入れた。
今は、できることを伸ばさなきゃと思っている。具体的には勉強だ。授業で習うのはやりたかった勉強じゃないけど、やらなきゃと思う。「また勉強かよ」って思うけど、そっちの方からやりたいことが見つかりそうな匂いがするんだよな。あとまあ、勉強して損は無いっしょ!
そうやって成長したら、また別の壁にぶつかるはずだ。それを楽しみにしよう。
今日書きたかったことは粗方書いたと思う。
書き終わって思ったんだけど、僕って若いねー。まだこんな文章書けたんだね。青い。シンプルに恥ずかしい文章だと思う。公開したくない。
多分10年後には、もっと現実との向き合い方が上手くなってて、こんな文章書けなくなってる。そうなってるといいな。
この文章は、僕と同じ葛藤を抱える若者や、かつてこの道を通った大人に向けて公開する。こんなことを感じたことの無い人に「何言ってんだこいつ」と思われるのは恥ずかしいけど、「わかってくれる人いるよね!」の気持ちで放流しよう。そうすれば恥ずかしくない。
いや、やっぱりちょっと恥ずかしい。
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