「両界ガムラン曼荼羅」 ~音と舞による曼荼羅の世界
プログラム:
藤枝守作曲
組曲「ガムラン曼荼羅I」(2020)
組曲「ガムラン曼荼羅II」(2023・初演)
ガムラン演奏: パラグナ・グループ
舞踊: リアント 、ボヴェ太郎 、川島未耒 、佐草夏美
主催:NPO法人日本ガムラン音楽振興会
制作:マイルストーンアートワークス
助成:公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京
2020年の「組曲 ガムラン曼荼羅Ⅰ」と、今回新たに作曲された「組曲 ガムラン曼荼羅Ⅱ」をあわせての披露。
独特の音階によって、ゆったりとした音の絵巻が展開していく。曲ごとに拍子や曲調が切り替わる。拍子は、やや荘重な曲で4拍子、少し軽快な調子の曲では3拍子が使われていた(6拍子に聴こえるが、実はゆっくりの3拍子であった)。「Ⅱ」は「Ⅰ」よりも音色やフレーズのバリエーションが豊かになり、さらに変化・展開していく可能性を示した。
それぞれ8曲から成る組曲の形式なのだけれど、各曲中の拍子は一定で、いずれも実にたおやかな曲調である。今回は男女1名ずつの舞踏を伴っての公演だった。ゆったりとした舞を観ていると、この作品はもともと舞曲として作られたのではないかとさえ感じられてくる。
「組曲」「パルティータ」と呼ばれるバッハ作品は、基本的に舞曲集である。今回の曲集を「曼荼羅」と捉える視点は、バッハ作品を逆照射する可能性があるのではないか。すなわち、単に調性を紐帯とする舞曲集ではなく。緩やかな有機的関連性を持つ構造体として捉えられないか、など妄想した。
独特のガムラン音階に耳を傾けていると、特定の楽器が主導的な立場を独占することがないことに気づく。メロディは複数の楽器に分散される。また、複数の声部が並行的に進行するが、どれが主旋律、どれが伴奏とも決めがたい。高音部が必ずしも優位ではなく、基本的に全パートが対等なのだと感じた。
プログラム・ノートにはケージの平方根方式を「拠り所にしている」とある。これは、たとえばX・Y・Zというリズム・パターンを設定したとすると、「X・Y・Z」をX回、Y回、そしてZ回反復するというふうに拡張していくやり方で、フラクタル図形と同じく部分と全体が同じ形を成す。従って、今回の2作においては、部分と全体の関係も絶対ではないのだと思われる。
また、本2作のメロディック・パターンは、植物の電位変化のデータの変換によるもので、藤枝氏の「植物文様」と同様の手法による。今回は福岡市・香椎宮の神木・綾杉から採取されたデータを用いたという。綾杉は、神功皇后ゆかりの神木とされる古木で、数次の炎上、倒木を経ながらも健在である。文字通り綾をなすメロディ・ラインは、この古木の生命力を映し出すかのようである。
かつてケージは図形楽譜によって、精力的に創作を行なった。それは、わたくしたちを取り巻く世界を厳密に測り、音楽の形で描くという営みであった。植物の電位変化データを使った藤枝氏の創作は、この点でケージの仕事を真っ直ぐに受け継ぐものだろう。
左右対称に配置される楽器群の中央に、大きなゴングが2枚吊るされている(用いられる音階によって使い分けられている)。ゴングは、パターン(フレーズ)の冒頭を合図する。その深い響きは、生音でなければ味わえないものだと感じる。
アンサンブルの中央にゴング奏者と向き合って陣取るもう1人の奏者が、パターンの末尾や折り返しを伝達する。この奏者が用いるのは鈴や木製のラトルで、ほかの青銅製の楽器とは明確に異なる音色である。ほかの奏者たちは互いの音を慎重に聴き、合図に従って音を紡いでいく。このような合奏の運営方法は、日本の雅楽とも共通するものだろう(偶然ながら、先日実演に接したライヒの「18人の音楽家のための音楽」も同様の方法を使っていた)。
このように、今回の2作品は、音階・リズム構造・合奏のあり方などさまざまな点で伝統的西洋音楽とは全く異なる論理によって形成されている。何よりも中心というものを持たないことが特徴である。厳密に記譜されているが、揺蕩うようなメロディたちはとめどもなくあらわれては消える。部分が次の瞬間には起点となって新たな楽想が立ち上がる。ここには始まりも終わりもないのかもしれない。その伝でいくならば、それぞれ8曲から成る「曼荼羅」ではあるが、それぞれの曲が起点となって、さらに別の曼荼羅を作り出していく可能性をも蔵しているのではないか。実際、アフタートークで藤枝氏は、できればさらに書き継いでいきたいと語っていらした。今後の展開に注目したい。
パラグナ・グループは真摯な演奏姿勢が印象的。4人の踊り手たちは実に典雅な舞をみせてくださった。特にリアント氏の、全身の筋肉を全て意のままに操るかのようなしなやかな動きに目を奪われた。器楽の演奏に舞踊が加わる際、時として両者が噛み合わずに消化不良な印象を抱くことがある。だが、今回の公演では、舞踏と器楽が不思議なくらいに調和しており、舞によって音楽の深みがさらに増していた。奏者も踊り手も、作品に対して深い理解と思いがあるためだと強く感じた。(2023年5月5日 自由学園明日館・講堂)