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NHK電子音楽スタジオ70周年記念コンサート at Artware hub KAKEHASHI MEMORIAL 遺 (のこ) された電子音楽名曲選『立体音響作品を聴く』

曲 目
K・シュトックハウゼン テレムジーク(1965)
近藤 譲 リヴァラン(1977) 
吉崎清富 電子音楽のためのグリーンスペースの宮 (1979)

ゲストトーク:近藤 譲(zoom録画)

NHK電子音楽スタジオの設立70周年を記念するコンサート・シリーズの最終回。「テレムジーク」が初めて演奏された1966年3月21日のR301ST:スピーカーセッティングを再現したとのこと。シュトックハウゼン作品が公演の最初と最後の2度演奏された。初演時のプログラムにならった形だという。

曲の合間に近藤譲氏のトーク(主催者からの質問に答える形で、zoomにより収録)が流れる。70年前、NHKという放送局の中に、当時世界でも最先端であった施設が設立されたことの意味が語られていた。かの組織の昨今の状況を鑑みるに近藤氏も複雑な思いがあろうし、聴衆もさまざま考えさせられる。

吉崎作品…グロッケンシュピールもしくは小さなベルのような金属音を素材とする部分と、長く引き伸ばされる和音による部分とが対照的。全体に爽やかな印象の作品である。終結部近くでは鳥や動物の声も聞こえる。

近藤作品…以前聴いた時よりも広い会場だったためか、一つの音と次の音への繋がりを耳で追っていきやすいように感じた。音と音が有機的に連なって、息の長いフレーズのようなものが形成されていく。本作では音像移動は使用されていない。これは、音のつながりを重視するための措置だったとトークの中で作曲家自身が語っていた。だが、あちこちのスピーカーから発せられる音を聴衆の耳が辿っていくことで、擬似的に音の運動が線として見えてくるように感じられて、おもしろかった。

シュトックハウゼン作品…1回目の演奏を聴いた時は、電子楽器アンサンブルが聴衆を囲んでいるかのような印象を持った。音像移動がないためである(本作を聴いた湯浅譲二氏は「音が動かないじゃないか」と不満を抱き、それが「ホワイトノイズの為のイコン」の創作に繋がったという)。

近藤氏はトークで、シュトックハウゼンが電子音楽について語った中で印象に残っているのは、音を空間の中で自在に配置できること、そして楽音と騒音の区別がないこと、だと述べていた。

空間配置に関して、シュトックハウゼンは3群のオーケストラのための「グルッペン」(1955-57)で実践している。また、後者は、電子音楽でこそ実現しうる部分が大きい。本作「テレムジーク」でも、世界各地で収録した音楽が、電子的なノイズと並置される。

なお、本作は32のセクションから成り、それぞれの長さ(秒数)はフィボナッチ数列によって規定されているという(松平敬(2019)『シュトックハウゼンのすべて』アルテスパブリッシング)。

楽音と非楽音の垣根を取り払うというのは、表面上ケージの思想に近いように見えるが、実はかなり異なるものだという気がした。

2回目を聴いた時、音像は確かに動かないのだけれど、各スピーカーから流れる音は一つ一つが丁寧に彫琢され、細かく調整されていることがよく感じられた。どの音にも表情があり、実によく磨かれている。さらにほかのスピーカーから聴こえる音との連携も緊密で、細かい部分にも聴く娯しみが感じられる。ゆったりとした空間を使っての演奏だからこそ実感できることだと思う("電子音楽は繰り返し聴くことで新たな発見が得られることが多い"というMC日永田広氏のことばのあらわすところを実感した)。

シュトックハウゼンの音楽は、常にこうした聴く娯しみがあるように思う。極端に言えば、かつて鍵谷幸信氏が『レコード芸術』に連載した「やぶ睨みのシュトックハウゼン」の中で語っていた通り、任意の一瞬のみ聴いてもおもしろい(後に『人はだれも音をきかない日はない』(集英社1977年)に再録)。しかし、それは聴衆に「聴かせよう」という姿勢であることよりも、まずは自分が「聴きたい」音が極めて明確に存在していることによるのではないかと想像する。

かの作家の作品を聴いていると、しばしば、とてつもなく耳の良い人だったのだろうと感じる。そして、譜面を記す時点で、自身の志向する音が自分の中に極めて高い解像度で存在したのではないか。したがって、彼にとっての創作は、実際に奏される音を、自身の内にある音に可能な限り近づける作業だったのではないか。

シュトックハウゼンは、自作の演奏にしばしば指揮者または奏者として参加したり、あるいは自ら音響調整卓を操作するといった形で関与したりすることが多かった印象がある。そうした姿にも、上で述べたような基本的創作姿勢が感じられる。自らの手で理想形に近似させた音を、聴衆に「も」聴いてもらう、そんな姿勢である。

あくまでも自分の中にある音が出発点なのだから、非楽音を用いる場合も、たとえば「4'33"」にみられるような、世界の中にある音を聴き出すといった方向性はないとおぼしい。あくまで自分の内なる音の近似としての非楽音ではなかったか。ケージと異なると感じられるのは、この点である(無論二つの立場に優劣をつけようとするものでは全くない)。

貴重な音源を、極上の環境で味わう機会を得た。引き続き来年は「日本の電子音楽70周年」としてイベントを継続する由。可能な限り足を運びたい。(2024年11月16日 Artware hub KAKEHASHI MEMORIAL)

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