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パハマン・プレイズ・ショパン

 長い時間をかけて洗練されたクラシック音楽を聴くのはたしかに心癒されるけれど、かつてそこにあったはずの歪な面白みや息をのむほどの鮮やかさにもう手が届かないことを思って、時折どうしようもなくもどかしくなる。

 それはロックンロールもジャズも同じで、古い音楽が好きな人は多かれ少なかれ、この「手の届かないもどかしさ」に心震えた経験があると思う。

 池袋のココナッツ・ディスクで300円で買ったウラジミール・パハマンというピアニストのレコードには、そんな心地良いもどかしさがいっぱいに詰まっていた。

アルバム情報 
<タイトル>
『VLADIMIR DE PACHMANN PLAYS CHOPIN, MENDELSSOHN and SCHUMANN』
<アーティスト>
ウラジミール・パハマン
<制作年>
録音1907-12年(LP盤の発売は1970年代)
<収録曲>
-CHOPIN-
a1 Ballad, Op.47
  2 Etude in E minor, Op.25
  3 Nocturne in G major, Op.37
  4 Nocturne in F major, Op.15
  5 'Octave' Etude and Waltz No.6
  6 Waltz No.7 in C sharp minor, Op.64, No.2
b1 Prelude in D minor, Op.28, No.24
  2 Etude in G flat major, Op.10, No.5
  3 Funeral March from Sonata, Op.35
-MENDELSSOHN-
  4 Rondo Capriccioso in E maijor, Op.14
  5 Venetian Gondola Song, Op.30, No.6
  6 Spinning Song, Op.67, No.4
  7 Spring Song, Op.62
-SCHUMANN-
  8 The Prophet Bird, Op.82, No.7

 1933年に85歳で亡くなるまで演奏を続けたパハマンは、その長いキャリアの後半にいくつかの録音を世に残した。

 どれも100年以上前とは思えない斬新な演奏ばかりで、たとえばこの「小犬のワルツ」は、不規則に跳ねまわるメロディーが不思議なほど小気味良い。パハマンのちょこまかと跳ねる軽快な指遣いを想像するだけで楽しい気分になれる、とてもチャーミングな演奏だ。

 Wikipediaの記事を読む限り相当のくせ者だったようだから、彼の個性的な演奏が当時の主流だったとは言えないだろうけど、ロマン派音楽に今の僕らが想像するよりはるかに多様で広汎な解釈があり得たことは確かなようだ。

 以下は当時の音楽市場を解説したジャケット裏の文章からの引用。 

<原文>
The nineteen century saw a radical change not only in the style in which music was composed, but also in the manner of performing it. The new freedom of expression that characterised the music of the Romantic era allowed far more latitude of interpretation than had been possible before, and in consequence the role of the executant musician suddenly assumed a new importance. This trend developed in so pronounced a manner that towards the end of the period the performer - or more accurately the soloist - came to achieve a stature that frequently dwarfed that of the composer. In more recent times the balance has been redressed to some extent; luckily, however, the earliest recording processes date back sufficiently far to have been able to preserve for posterity the interpretations of some of the greatest instrumentalists of the late nineteenth century, when the stature of the soloists was very real.
<拙訳>
 19世紀には作曲法のみならず、演奏法の急進的な変化が起こった。自由闊達な表現が特徴のロマン派音楽は、それ以前の音楽に比べて楽曲を柔軟に解釈することができたので、結果として演奏者は新たに重要な役割(表現者としての役割)を担うようになった。この演奏法のトレンドはとても見栄えのするものだったので、ロマン派の時代の終わりにかけて演奏者は—より正確にはソリストは—しばしば作曲家をしのぐ人気を博した。そうしたアンバランスな関係は後の時代にある程度解消されるが、幸いなことに最初期の録音手法が19世紀後半—ソリストが真の名声を得た時代—の偉大な器楽家たちの演奏を後世に保存している。

 特権階級のための芸術だった音楽が広く一般に親しまれるようになると、作曲家だけでなく演奏家もコンサート会場やサロンで演奏して生計を立てることができるようになった。

 そのようにして形成された音楽の自由市場では、過去の楽曲の忠実な再現より、独創性の追求が重要視された。

 きっとパハマンも、そんな音楽市場の中で歪な個性を磨き続けたピアニストのひとりだったんだろう。

 以下、再びジャケット裏から、パハマンの奇行を紹介した文章を引用する。

<原文>
Pachamann is remembered not only as a great pianist but also as a great eccentric. His tendencies (which increased as the years went by) to treat his audiences to little discourses on often irrelevant subjects, not only before and after but even during his performances, endeared him to the public and did much to distract the less perceptive of them from noticing the deficiencies in his playing as age crept on. His rituals of adjusting the piano stool and causing the piano to be shifted around the platform until it was positioned to his liking are also legendary, and were the reason why a leading American critic dubbed him "the Chopinzee". Other tales give us the flavour of the man yet more distinctly. On a visit to England, asked by reporters what he thought of  London, the great man replied: "Zat is not ze question, Madame. Ze question is vat do London zink of pachamann?" During a concert by  Godowsky, he leaped on the platform, took charge of the piano, and proceeded to demonstrate to a delighted audience - and an engage Godowsky - just how he thought a certain passage should be played. 
<拙訳>
 パハマンは偉大なピアニストとしてだけでなく、非常に風変わりな男としても知られていた。彼の奇妙な振る舞い(それは歳を経るほどに酷くなった)は演奏の主題とはかけ離れたところで聴衆の語り草となった。奇行はコンサートの前後はもちろん演奏の最中にも続いたが、それによって彼は人々から愛されたし、また、それほど明敏でない聴き手の注目を加齢による演奏の衰えから逸らすことにも成功した。納得のいくポジションが決まるまで椅子の高さを調整し、舞台上のピアノをあちこち移動させる彼のルーチンはある意味伝説的で、アメリカのある著名な批評家はそんな彼に「ショパンジー」というあだ名をつけたという。彼の醸し出していた雰囲気が端的にわかる逸話は他にもある。たとえば彼は訪問先のイギリスでインタビュアーに「ロンドンをどう思うか」という趣旨の質問をされ、次のように答えた。「奥サン、ソレは質問になっていないヨ。ロンドンがパハマンをどう見做すのか、という問いならわかるがネ」。さらにはレオポルド・ゴドフスキーのコンサート中のこと、舞台に飛び乗ってピアノを弾き始めた彼は、大喜びの聴衆に向けて—ゴドフスキーも巻き込んで—「そのパッセージはこうして弾くべきダ」と実演をしてみせたという。

 パハマンの弾く「小犬のワルツ」は今聴くとかなりアクが強い感じがするけれど、個性が最大のセールスポイントとなった19-20世紀には、彼のようにユニークなピアニストが他にもたくさんいたのかもしれない。

 そんな「個性の百花繚乱」ともいえる時代の片鱗を僕らが知ることができるのは、当時の最先端技術だったレコード(Gramophone)による録音のおかげなんだけど、皮肉なことにこの記録メディアの登場がロマン派音楽を「古典」に変えてしまった。

 レコードによって名演奏が後世に保存されようになると、「この曲はこう弾くべき」という共通認識みたいなものが次第に出来上がっていき、ひとつの楽曲に対する解釈の幅が狭くなっていったのだ。

 僕が好きなロックンロールやジャズも、そんな風にして生まれて死んだ音楽だ。

 自由競争による個性の多様化が音楽の横糸なら、記録メディアによる解釈の純化が縦糸で、そうやって歴史はいくつもの歪で鮮やかな音楽ジャンルを織りなしてきた。

 日毎にスピードを増すように思えるこのもどかしい繰り返しが、これからもひたすら続いていくとすれば、その果てで歴史はどんな音楽を織りなし、音楽はいったい誰を温めているのだろう。



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