モア・ザン・ユー・ノウ
ソニー・ロリンズのサックスには、力を込めてしゃくるような箇所がひとつもない。まるでありものの具材を中華鍋に放り込んで一振りしただけで見たことのないご馳走を作ってしまう、恐ろしく手際のいい料理人のような男だ。
それとは対照的にセロニアス・モンクは、不安定な足場の上で曲芸を披露し続ける軽業師ような風情がある。彼のアクロバティックでどことなくルーズなピアノ演奏は、不規則なリズムで緊張と放漫のあいだを行ったり来たりしながら、聴き手をあの独特な高揚感へといざなう。
そのような相反する音楽性を持った二人が同じ舞台に立って演奏をすると、そこに確かな統一感が生まれる。二つの個性は「自由」と「純度」をよりどころに結びつき、歪で鮮やかな音楽になる。
アルバム情報
<タイトル>
『MOVIN' OUT』
<アーティスト>
ソニー・ロリンズ、セロニアス・モンク、他
<制作年>
1954年
<収録曲>
a1 Movin' Out
2 Swingin' For Bumsy
3 Silk N' Satin
b1 Solid
2 More Than You Know
1953年から54年にかけて実現したソニー・ロリンズとセロニアス・モンクのセッションは、『MOVIN' OUT』や『Thelonious Monk and Sonny Rollins』といったいくつかのレコードに収録されている。
今回取り上げた『MOVIN' OUT』の中で二人が共演しているのは「More Than You Know」というバラード曲だけだが、この一曲でも彼らの個性的な演奏を十分に楽しむことができる。
それにしても、1950年頃に録音されたモダンジャズのひりひりする演奏を聴いていると、「そんなに必死になって、彼らはいったい何と闘っていたのだろう?」とつい考えてしまう。
もちろん当時のアメリカにおいて、高価なスーツに身を包んだ黒人たちがステージに上がり、(彼らをじっと見つめる白人客の前で)金色に光るサックスやトランペットを吹き鳴らしたジャズという音楽が、文化的・社会的な反抗の意味合いをはらんでいたことはなんとなく想像できる。
しかし、自分たちの音楽を追い求める彼らの異常なまでの没頭ぶりには、「多数派への反抗」なんて言葉じゃ表現しきれない、もっと切実な何かがあったように思えてならない。それはむしろ聴衆の存在や自分を取り巻く環境を無理やりにでも忘れ、研ぎ澄ました感覚をもって自己を音楽に還元しようという、無謀な試みのように僕の目に映る。
次の動画はセロニアス・モンクのドキュメンタリー映画『Straight, No Chaser』の「Evidence」の演奏シーンだ。この映像を見れば当時のジャズコンサートがどれほど奇妙な舞台であったか、またその中でモンクがいかに特異な存在であったかがわかってもらえると思う。
モンクの死後に発見されたいくつかのフィルムを映画監督のクリント・イーストウッドがつなぎ合わせ、1988年に公開した『Straight, No Chaser』には、モンクのエキセントリックな演奏シーンがふんだんに盛り込まれている。このドキュメンタリー映画の公開が当時ジャズ界からほとんど忘れられていたモンクの再評価に一役買った面もあるようだ。たしかにこれだけプリミティブで前衛的な演奏を見せられてしまったら、観客が彼に興味を抱くのは当然かもしれない。
この映画の存在を知ったとき、僕は「ストレイト・ノー・チェイサー」というタイトルの意味を勝手に「まっすぐ進め、追手はいないぜ」という風に解釈していた。そのハードボイルドなタイトルは、モダンジャズが持つ切迫感や、モンクが他者の存在を忘れて音楽に没頭する姿をよく表現しているように思えた。もちろん実際には、「ストレートでくれ、チェイサーはいらないよ」と酒場でウィスキーなんかを注文するフレーズだったわけで、もっと言えばモンク自身が作曲した同名の曲にちなんでつけられたタイトルだったのだけど。
「まっすぐ進め、追手はいないぜ」と「ストレートでくれ、チェイサーはいらないよ」とでは、シチュエーションもテンションもかなり違うけど、モダンジャズの黎明期とモンクの生涯を扱った映画のタイトルとしては、どちらの解釈もそれほどズレていないのではないかという気もする。
つまり、切迫感を伴った自己陶酔こそがモダンジャズの本質であり、その純度の高さゆえに誰とも混じり合うことがなかった孤独な個性の持ち主こそ、モンクの正体だったのではないだろうか。
次の文章は『THAT DEVILIN' TUNE -A JAZZ HISTORY, 1900-1950-』(Allen Lowe,2003)から、初期のモダンジャズとモンクについて書かれたパラグラフの引用。
<原文>
(...)And channel he did, from his very first professional gigs in the late 1930s. Though some saw his playing as primitive, as without sufficient technique or as just plain wrong, those in the know, who really understood the deeper meaning of technique and style — new modernists and their sympathizers, like Coleman Hawkins, Mary Lou Williams, Dizzy Gillespie, and Charlie Parker — knew from the beginning that he was on to something. Though Mary Lou Williams claimed that, in the early days, Monk could swing like Teddy Wilson, the recorded evidence is that he did so more by emulation than by actual execution and that, though he may have used Wilson as an early model, he was really using the Wilson style as a peripheral point of reference and a means of abstraction. As we've pointed out, change was in the air in those years, in the atmosphere of recording studios and some of the after-hours Harlem clubs like Minton's or Monroe's Uptown House. Musicians were feeling their way toward new means of expression, into a harmonic system that incorporated seemingly odd and difficult intervals as well as clashing dissonances, that integrated these changing tonal elements into more irregular patterns of rhythm and that placed accents in less predictable places, on less predictable beats. Monk was very much in the center of all this. If he didn't have the same kind of fleet, right-hand-emphasizing solo style that some of the new generation had, he had the requisite harmonic acumen, the ability to substitute chords of sometimes remote relationship to the original harmony, and a rhythmic mastery that allowed him to accent in all of what seemed like the wrong places while maintaining complete equilibrium. If this threw some late night jammers for a loop, if it confused them and forced them from the stage, well, then, that was just too bad — no, actually, that was the point and purpose, to separate the new from the old, or, at least, the older.(p.194)
<拙訳>
(...)そしてモンクは、1930年代の後半にプロとして演奏した最初のセッションで才能を開花させた。彼の演奏を未熟だという人はいたし、技術の不足や単純なミスを指摘する人もいた。しかし聴衆の中には、テクニックとスタイルの真に意味するところを理解する人々―コールマン・ホーキンス、メリー・ルー・ウィリアムス、ディジー・ガレスピー、そしてチャーリー・パーカーといったモダニストたち―とその取り巻きがいて、モンクには何かがあると初めから見抜いていた。「初期のモンクはテディ・ウィルソンのようにスウィングしていたわ」とメリー・ルーは語ったが、残された音源を聴いてわかるのはむしろ、彼が演奏を「こなす」というより「競い合うよう」にしてピアノを弾いていたことだ。たとえ初期はウィルソンを手本にしていたとしても、それは見かけ上の引用と抽象的な意味合いにとどまっていた。これまで指摘してきたように、変革の予感は時代の空気の中に、すなわちレコーディングスタジオや、ミントン・ハウスやモンロー・ハウスといったハーレム地区のクラブの閉店後の雰囲気の中に漂っていた。ミュージシャンたちは自身の演奏表現が新たな方向に導かれていくのを感じていた。それは荒々しい不協和音のような、一聴すると奇妙で複雑な音程を和音の体系に組み込んだものだった。彼らは変化し続ける調性の構成音を不規則なリズムに取り込み、予期せぬ小節の意外な拍子にアクセントを置いた。モンクはそうした変革のまさに中心的な存在だった。もし彼が(新しい世代がしばしばやっていたような)右手で主旋律を強調して弾くソロ・スタイルを持っていなかったとしても、彼には編曲家としてなくてはならない調性に関する鋭い感性―元のコードからかけ離れた斬新な代替コード見つけ出す能力―があったし、完璧な均衡を維持しつつ間違いかと思うような意外な位置にアクセントをつけられるほどリズムに精通してもいた。もしモンクの才能が夜の酒場でセッションをする演奏家たちを驚かせたとしても、また、もしそのことで彼らが困惑してステージから降りてしまったとしても、それは残念なことに―いや、正確に言えばまさにそれが要点であり目的だったのだが―先進的な人と遅れている人との間に境界線を引いてしまった。少なくとも、これで変化についていけない人々が明らかになってしまったのだ。(p.194)
即興で生まれるフィーリングとアイディアにこだわったモンクは、レコーディングでもリハーサルをせず、3回以上テイクを重ねることはめったになかった。サックス奏者のチャーリー・ラウズによれば、モンクはレコーディング中に即興の重要性を指摘して「一度目の演奏をしてしまったら、それがフィーリングの全てだ。その後はどうしたって下り坂を転げはじめるのさ (Once you play it first time, that's the feeling and everything is. And after that, you start going downhill.)」と語ったという。
彼が始めた即興重視の演奏スタイルにパーカーやディジーたちが相乗りするかたちで、モダンジャズは50年代を象徴するムーブメントとなった。それは世論のイニシアチブが伝統から革新へとやみくもに移り変わっていった当時の時代背景と呼応するかのように、「新しい世代」と「変化についていけない世代」とのあいだに残酷な境界線を引いた。
そうした時代の雰囲気の変化は、モンクがより自分らしく振る舞えて、より自由に演奏できる環境を作った。しかし、彼はどこかの時点でその変化についていくのをあきらめ、かつて自分が引いたラインに追い越されてしまった。まるで歪に巨大化したせいで自重に潰され化石になった、中生代のとんまなオオトカゲのように。
セロニアス・モンクにまつわる尽きることのないミステリーの多くは、彼が世間から忘れられている期間に熟成されたものだろう。結局のところ僕は、それらの謎を推測と空想でおぎなって、幻の男を追いかけている気分に酔っているだけなのかもしれない。
その実像がどうであったにせよ、僕の頭の中で復元されたモンクは、灰皿が溢れるほど煙草を吸い、大粒の汗をハンカチで拭いながら、一心不乱に鍵盤を叩くひとりの不器用な男であった。そして男は緊張と放漫の境界線の上で、いつまでもあの不規則なステップを踏み続けているのだ。
最後に、モンクがデューク・エリントン作曲の「スウィングしなけりゃ意味ないね」を弾いた音源を聴いてみてほしい。
モダンジャズ・カルテットのお洒落な演奏とも、東京ディズニーシーで聴くようなビックバンドの豪華で楽し気な演奏とも違った、モンクなりの美しくも危なっかしい「スウィング」が味わえると思う。