一見の客
レトロな商店街で有名なこの街に越してきて半年。元々街歩きの好きな私がこの商店街にある店を把握するのにさほど時間はかからなかった。それでも路地の多いこの商店街。まだあと1年くらいは散策を楽しむことができるだろう。
11月15日木曜日午後5時。気温16°C。この日は仕事を少し早く終えたこともあり商店街をぶらぶらしてから帰ることにした。この街に来てまだ半年。季節や時間が違えば景色も変わって見える。何か新しい発見はないかと周りを見ながら歩いていると今まで気づかなかった路地を見つけた。路地の入り口から覗くと民家しかないように見える。この先を進んだところで初めて知る店や面白そうな建物を見つけられるとは思わない。しかしその時の私は心のどこかで“全ての路地を制覇してやろう”という意味のないたくらみを妄想していた。
10m進んだが民家しかない。20m進んでも民家しかない。突き当たりまではあと30mほど。この商店街ができて間もない頃からあるような家もあれば最近リフォームしたばかりのような家もある。しかしこの先に民家以外の何かがある気配はない。私は一瞬立ち止まって帰ろうとしたが“全ての路地を制覇する”という数分前の自分のたくらみを思い出し半ば義務感で足を進めた。そして5mほど進んだところに小さな看板を見つけた。そこには手書き風の文字で<BAR 中谷>と書かれている。その看板は小さな明かりで照らされていた。
この時点で私は当初の目的を達成している。“全ての路地を制覇する”というたくらみに向けて任務を遂行しそして尚且つ何もないであろうと思っていた路地に店を見つけたのだ。しかし同時に私は新たな目的を見つけてしまった。新たな目的はもちろんこの店に入ることだ。
古民家を改装したであろうその店の扉はナチュラルな木の質感を活かした引き戸だった。軽く手をかければ力を入れずとも開くだろう。しかし通常は住民以外の誰かが踏み入れることはないと思われるこの路地で営業をしている店。しかもBAR。私はこの扉の心理的な重さを感じ始めていた。時間の経過とともに扉は重さを増し看板を照らす灯りは夜の訪れによって相対的に明るくなる。そのどちらもが私に“感じる必要のない圧力”をかけてくる。別に店に入る必要はない。知らない店を知ったというだけで十分な収穫だ。しかしここまで路地を入ってきているのだ。せっかくだから。何がせっかくなのだ?でも今入らなければもうこの店に入ることはないだろう。別に入ったところで怒られることはない。怒られたってそれはそれで話のネタになるはずだ。手書き風に書かれた看板は敷居の高さを下げる効果を狙っているのかもいれない。であれば私を受け入れてくれるのではないか。私は決心して扉を開けた。
実際に扉が重たかったのか軽かったのかは覚えていない。扉を開けると着物を着た店主と思われる女性が不思議そうな顔をしてこちらを見ている。足を踏み入れて良いものか躊躇っていると「いらっしゃいませ、どうぞ」とその店主から声をかけられた。