不適切裁判所
早朝のターミナル駅で意図的に混乱を引き起こしたと訴えられた被告人は、起訴状が読み上げられる間もイラつきを隠せない様子だった。検察官が起訴状を読み終わり着席すると、裁判長は穏やかな声で被告人に語りかけた。
「あなたはなぜ、その老人を助けたのですか?」
「助けた行為がなぜ罪になるというのですか? 困っている人がいたら助けるのが普通じゃないですか」
被告人の声のトーンが少しだけ荒くなり、裁判長は少し呆れたように首を横に振った。
「では、被告人。あなたが老人を助けたときの様子を、具体的に説明してください」
「電車を降りると、階段を上ろうとしている老人がいました。その老人の動きがあまりにも遅いので、私は声をかけました。返事はありませんでしたが、私が老人の背中に軽く手を添えると、老人は私の肩に掴まりました。そして一緒にゆっくりと階段を上りました。上り切ったところで老人は私にお礼を言って、改札に向かって歩いていきました。その様子を見守っていたときです。私は突然後ろから人に押されて転倒しました。それがきっかけで駅が混乱したことは認めますが、足を骨折した私も被害者です」
被告人が話し終わると、裁判長はドアの前に立つ警備員に目配せをした。するとドアが開き白衣を着た人物が入ってきた。その人物は証言台の前に立つと、一礼して話し始めた。
「医師として証言します。老人は身体機能に悪いところはなく、足腰の弱さは年齢的にみても正常な範囲と言えます。階段を上る際に老人を助けることは、老人の運動機会を奪う行為であると考えられます」
「証言ありがとうございます」
裁判長は医師に向かって礼を言うと、被告人の方を向いた。
「老人は助けを求めていましたか?」
「いえ、しかし私が手を差し伸べたあとは、老人の方から私の肩に掴まってきました」
「では老人は、助けを求める意思表示はしなかったということですね?」
「はい、明確には……」
裁判長はひと呼吸おいて話し始めた。
「あなたの行為は、老人が自力で階段を上り、健康を維持する機会を奪っています。そしてそれが元となり、早朝の駅を混乱させました。これら一連の行為は、不適切相当と認定されます。もし何か反論があれば、いまここで述べてください」
被告人は不満の表情を浮かべながら下を向いた。肩が上下するほど大きく深呼吸をすると、裁判長の顔をまっすぐ見て話し始めた。
「私はその老人が危険にさらされていると感じました。このままでは、彼が階段で足を滑らせて転倒してしまう可能性があると思ったのです。その瞬間、私は考えることなく行動していました。私が助けなければ、その老人が駅を混乱させていたかもしれません」
被告人はもう一度深呼吸をしてから、さらに続けた。
「私は幼い頃から、困った人がいたら助けるよう教わってきました。私が行なった行為、危険に直面している老人を助けるという行為が、なぜ不適切なのでしょうか? 親切心を否定することこそ、不適切ではありませんか?」
裁判長は軽く頷くと、静かに話し始めた。
「あなたの言いたいことは理解できます。ただ不適切裁判所では、被告人の行為や言動に対して、それが関係者や社会へどのように影響を与えるかを鑑みて判決を下すことになっています。個人の感情は法的な評価の対象にはなりません」
被告人は裁判長の言葉を遮るように訴えた。
「では法律はなんのためにあるのですか? 個人の自由を守り、より良い社会を築くための法律が、なぜ善意の行動を罰するのでしょうか?」
裁判長はしばらく沈黙したあと、少し声を落として被告人に語りかけるように話し始めた。
「その点については、私の権限の範疇を超えていますが、考慮する必要があるかもしれません。しかし私には法律に則って判決を下す義務があります」
裁判長が最終的な判決を言い渡す準備をしている間も、被告人が裁判長から目を逸らすことはなかった。裁判長は手元の書類にサインをした後、被告人の方を向いて話し始めた。
「被告人の行為は、個人の一方的な感情をもとにしたものであり、社会的に不適切な行為であるとの結論に至りました。従って、被告人には懲役二年の不適切刑務所収監を命じます」
三日後、被告人は受刑者として不適切刑務所に収監された。しかしそこは、刑務所と呼ぶにはあまりにも不釣り合いな温かい空気が流れていた。居室の入り口には生花の活けられた花瓶があり、壁にはいくつかの絵が掛けられている。部屋の様子に驚いている新入りに受刑者の一人が声をかけた。
「足を引きずっているようだね、私の肩に掴まりなさい」
五十代と思われるその受刑者は、新入りの返事を待つことなく話し始めた。
「私は飢えた子供に食べ物を与えたという罪で収監されたんだ。ここにいる受刑者はみな、他人を思いやる行動が不適切であるという理由でここに連れてこられているんだよ。ここは、法律によって不適切であると排除された、優しい心を持つ人間が入るところなんだ。私はここに来て気がついたよ。この刑務所こそ、私のような人間が平穏に暮らせる場所なんだ」