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すり鉢すべり台

 息子は幼稚園が終わるといつも、近くの公園に行きたいと言ってせがんでくる。お迎えの帰り道、一時間だけという約束で公園に行くのだが、その約束が守られることはほとんどない。
 今日もいつも通り公園に着くと、息子はお気に入りのすり鉢すべり台に向かって走り出した。コンクリートでできた丸くて大きなこのすべり台は、中央がすり鉢のようにくり抜かれており、手前から奥に向かって傾斜がきつくなっている。側面には、子供が足をのせるには十分なサイズの石が、一定の間隔で埋め込まれていた。すべり台にたどり着いた息子は、この石に足を掛けて登ろうとしている。後ろから支えようと駆け寄ろうとしたところで、足の踏み場が見つからなかったのか、息子は諦めて石から足をおろしてしまった。立ち止まって様子を見ていると、すり鉢の縁の一番低くて登りやすそうなところから中に入っていった。子供の頃の私も、このすべり台が大好きだった。すり鉢の一番高いところにある手すりを見ると、昔に比べてかなり色褪せているような気がする。私が初めてこの公園に来たのは、確か三歳の頃だったと思う。

 すべり台でお兄ちゃんやお姉ちゃんたちが鬼ごっこをしている。仲間に入りたい。でも入れてくれるかな? 少し近づいて様子を窺う。誰も僕には気がつかないみたいだ。ママの方を振り向くと、笑顔でこっちを見ている。僕はママに駆け寄り抱きついた。
「どうしたの? お兄ちゃん、お姉ちゃんに『一緒に遊んで』って言ってごらん」
 僕はいつもその一言が言えなかった。
 七歳になる頃には、すり鉢のてっぺんに立てるようになった。手すりをしっかり握って上を見上げると、空が少しだけ近づいた気がした。下を見ると幼稚園児たちが遊んでいる。僕はすり鉢の縁を少し移動してから、ぶつからないようにゆっくりと、靴底でスピードを調節しながら滑り降りた。もう一度すり鉢を駆けあがろうとしたところで声が聞こえた。
「そろそろ帰るよ〜」
 僕はすり鉢から降り、お母さんと手を繋いで帰った。
 中学生になったばかりのある日、同級生たちと、側面に埋められた石を登って誰が一番早く上まで行けるか競争をした。すり鉢の上にある手すりを掴もうとしたところで足を踏み外し、滑り落ちた。家に帰って公園でのことを話すと、お母さんは笑いながら擦りむいた額に絆創膏を貼ってくれた。
 十七歳になって初めて彼女ができた。彼女とはいつもこの公園で待ち合わせをした。部活を終えてここに着くと、彼女はすり鉢の縁に腰掛けて小説を読んでいた。僕たちは暗くなるまで話をしてから、一緒に手を繋いで帰った。彼女のお父さんが、玄関前で待っていることもあった。僕は急いで彼女の手を離し、その手を軽く振ってすぐに角を曲がった。
 大学を卒業すると、就職をして家を出た。実家に帰る時はいつもこの公園の前を通った。すべり台を見ると、いつも誰かが遊んでいた。
 彼女の二十七歳の誕生日。この公園でプロポーズをした。すり鉢の縁に座って話をしていたら、子供たちが集まってきたので、僕たちはすべり台の裏に移動した。彼女の返事を待っている間、何故か滑り落ちたときのことを思い出していた。彼女の返事が聞こえなかったわけじゃないけれど、その言葉をしっかりと覚えておきたいと思って、もう一度聞かせて欲しいと言ったら喧嘩になりそうになった。
 三十二歳になった私と三歳になったばかりの息子は、ほとんど毎日この公園に来ている。
 気がつくと辺りは暗く、子供たちの数も少なくなっていた。二台の子乗せ自転車が公園を出ていくのを眺めていたら、息子が走ってきた。
「パパ、帰ろうか」
 いつもは帰ろうと誘っても、帰りたくないと言って愚図る息子が、自分から帰ろうと言ってきた。
「うん。ママがご飯を作って待ってるよ。今日は何かな?」
 私は息子と手を繋ぎ、公園を後にした。


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