小説ですわよ番外編ですわよ5
※↑の番外編です。
『イチコとワンカップおじさん』
2022年10月3日 月曜日(仏滅)。
S県ちんたま市に隣接する戸渡市。森川イチコは戸渡を縦断する穴川の堤防に腰掛け、缶コーヒーのプルタブに指をひっかける。ピンピンカートン探偵社に入った今日の依頼はすべて終わっていたが、事務所へ帰る前に見たいものがあった。
微糖コーヒーを流しこむと、その熱さが体温に変わっていく。防災無線のチャイムは、数日前に『うみ』から『夕焼け小焼け』に代わっていた。
「これだからヤクザは困るッス。小指がないから球がスッポ抜けるんッスよ!」
「スッポ抜けてんじゃねぇ、シュート回転がかかってんだよ!」
堤防の眼下に広がる野球場では、探偵社の草野球チーム『軍団』と地元ヤクザのオールスターチーム『ちんたまモンモンズ』が互いに詰め寄り、一色触発となっている。本当に小指の有無が理由かは不明だが、モンモンズ側の危険球があまりに多いことで揉めているようだ。
「どっちだっていい、ピッチャーは指詰めてねぇヤツに代われ! 藤浪より危ねぇ球投げやがって! 若い衆なら指残ってんだろ」
「若ぇのはスポーツマンシップにのっとって健全に汗を流すことに興味がねぇんだ!」
「ヤクザごときが、なにスポーツマンシップなんぞ語ってやがる!」
最初に仕掛けたのは、軍団のキャッチャーを務める黄ジャージ――コードネームはなんの捻りもないイエローである――だった。巨漢の体当たりがモンモンズのピッチャーを吹っ飛ばす。穏やかに揺れる穴側の水面をよそに、軍団とモンモンズが堰を切ったように殴り合いを始めた。
「ハハッ、いいぞ!」
イチコは飲み干した缶を置き、手を叩く。平日から無職とヤクザが草野球で大人げなく乱闘を繰り広げる。イチコが見たかったのはこれだ。背後の細い道を小学生たちが「まーたやってるよ」「ちんたまの恥だな」と自転車で走り抜けていく。
逆に自転車をイチコの近くに停める者がいた。錆びた車輪がギィギィと鳴る。イチコはその音を聞き、振り向かずとも「今日も来たな」と察知した。
色あせた野球帽、よれよれのスカジャン、シミだらけの作業ズボンとスニーカー。みすぼらしい男は自転車から降りてスタンドを立て、カゴへ無造作に放り込んだワンカップの日本酒をひっつかむと、イチコの隣に腰を下ろす。
「やあ、おっちゃん。ちょうど今始まったとこ」
イチコが一瞬隣に目をやると、初老の男はジャイアンツの野球帽のツバを少し持ち上げて挨拶に応える。そしてワンカップ瓶の蓋を、軽快な音を鳴らして引き上げた。
「今日も美味い酒が飲めそうだ」
男は老いた顔にシワを増やして笑うと、ワンカップの淵に口をつける。
この男――おっちゃんは毎日のように、軍団の練習や試合を観に河川敷へ現れる。特に毎週月曜日は楽しみらしい。軍団とモンモンズの定期練習試合が行われ、必ず乱闘になるからだ。
イチコは数年前から存在は認識していたが、話すようになったのは今年の夏ごろからだ。おっちゃん目がけて飛んできたホームラン球を、イチコがキャッチして助けたのがきっかけだった。とはいえ特段中身のある話をするわけではない。
「ヤクザも毎回よくやるよなー」
「ハハッ、根性だけはあるんだよ」
こんな感じで、感想を呟き合うくらいである。素性も漠然としか知らない。定年前は都内の大手銀行員だったと聞いたことはあった。みすぼらしい外見に反し、案外金を持っているのかもしれない。笑い方に品があるし、自転車を漕ぐ姿は背筋がピンと伸びている。銀行員だったのは、おそらく本当だろう。
聞けば詳しく話してくれそうだが、イチコはそうしなかった。自分はこの世界の住人ではない。いつかここから去る運命だ。誰にも深入りしまいと線を引いていた。以前、一度だけおっちゃんから飲みに誘われたが「忙しいから、またいつかね」とやんわり断った。おっちゃんが寂しげに目を伏せ、後頭部を掻く姿に胸を締め付けられたが、それでもイチコが線をまたぐことはなかった。
この考えは、1964年にこの世界へ流れついたときから変わらない。むしろ当時より線引きは明確かつ輪郭が強くなった。1986年にウラシマとの抗争で先代の軍団を失ったのが大きい。かつて姉妹のように仲が良かった社長の綾子とも溝が生まれた。最近、アルバイトで入った新人の田代マサヨが原因不明の失踪を遂げたことで、他者への拒絶感はさらに加速していた。
――5分もかからず乱闘は終わった。モンモンズのメンバーは、ある者はだらんと垂れた腕を抑え、ある者は足を引きずり、河川敷から退散していく。
「病院で野球賭博でもしてろ、カス!」
軍団の緑ジャージが、モンモンズへ追い打ちを吐き捨てた。
「いやー、楽しかった」
おっちゃんは殆ど飲んでいないワンカップ瓶をこぼさぬよう、ゆっくり立ち上がって自転車のほうへ歩き出す。イチコも尻についた誇りを払って、愛車を停めたほうへ歩き出した。
「またね、おっちゃん。寒いから風邪に気をつけなよ」
「ああ、キミもね」
おっちゃんは飲みかけのワンカップをカゴに乗せ、飲酒運転にならぬよう自転車をギコギコと押して去っていく。
イチコにとって『おっちゃん』『キミ』と呼び合う距離感が心地よいのは確かだ。しかし……背筋を伸ばしながら自転車を押していく後ろ姿が闇に溶けこんでいく様を、いつも無意識に見守ってしまうのだった。
2022年10月10日 月曜日。
『夕焼け小焼け』が防災無線から流れても、おっちゃんは現れなかった。別に珍しいことではない。イチコだって河川敷に寄らない日はある。お互いに会う約束をしているわけでもないのだから、気にする必要は全くない。そんなスタンスがイチコにとっては丁度よかった……はずだった。
奇妙な胸騒ぎがする。間違えて買った冷たい缶コーヒーが、イチコの指先を青白くさせた。
2022年10月11日 火曜日。
イチコは7時ごろに目覚め、寝室のある事務所3階から2階に降りて朝のニュース番組をぼんやりと眺めていた。
岸田がまずいインスタントコーヒーを淹れてくれたが、口をつけるより前にイチコの意識は覚醒した。テレビに映し出されたのは被害者である益鞭さんの家、コンクリートの高い壁に囲まれた大きな邸宅だ。その2階のベランダに干されていたのは……色あせた野球帽、よれよれのスカジャン、シミだらけの作業ズボンとスニーカー。おっちゃんが身に着けていたものと、まったく同じだった。トドメとばかりに、カメラは邸宅の庭に切り替わる。手入れのされていない雑草が伸びきった中で、錆びた自転車が二度と跨ることのない主人を待って立っていた。
殺意が血流に乗って脳へと昇り、頭の中ではじけ飛ぶ。それでもイチコは叫ぶことも、周囲の物に当たり散らすこともしなかった。爪が手のひらに食いこむまで強く握り、唇が裂けるほどに噛みしめた。赤い雫が、口の端と拳の隙間から音もなく流れ出る。
真っ先に浮かんだ言葉は「犯人が返送者であってくれ」だった。返送者であれば、探偵社が動くことができる。犯人をぶちのめすことができる。しかしイチコの希望を打ち砕くかのように、綾子が社長室から出てきて淡々と言い放った。
「昨日ホワイトから聞いたわ。返送者案件じゃなく、闇バイトだそうよ」
軍団の一員である白ジャージ、ホワイトは警察に強いコネを持っている。ちんたま市内で起こった事件は返送者案件であろうとなかろうと、ホワイトに逐一連絡が入ってきていた。また、ホワイトを含む軍団は、おっちゃんの存在をファンとして認識しており、昨日河川敷に現れなかったことで嫌な予感に駆られ、真っ先に警察へ確認したらしい。
イチコは、こみ上げてくる感情を飲みこんだ。飲みこもうとした。だが無意識――本能あるいは魂の領域は、嘘をつけなかった。涙が、熱い涙が、どれだけ抑えこもうとしても溢れて止まらない。
もっと早く、自分が線を超えていれば。おっちゃんと飲みに出かけていれば。でっかい家を見せてよとねだっていれば。図々しくおっちゃんの家へ定期的に出入りして、遊び場にしていれば。強盗なんかに狙われなかった。狙われたとしても返り討ちにできた。後悔が、ありもしない未来の妄想となってイチコの頭の中に投影される。
それを予見したかのように、綾子が鉄扇を広げた。
「そういえば、イチコ。貴方は今年、夏休みをとってなかったわね」
「えっ……?」
イチコのスマホが通知を告げる。探偵社専用の勤怠アプリで、1週間の休みの申請が許可されたという通知だ。
「この期間、貴方がなにをしても探偵社とは無関係。ただし軍団を勤務時間中に動かすことは禁止。来週から問答無用で復帰してもらう。ウラシマ絡みでキナ臭い動きがあるの。いいわね?」
冷えた秋の朝だというのに、綾子は鉄扇をあおいでみせる。
「……ありがとう、姐さん」
「行ってきなさい」
バニラの香水が、60年前に隣でよく嗅いでいた香りが、イチコの鼻腔をくすぐり、闘志を刺激した。
しかし、その日の正午過ぎに、ホワイトからイチコにメッセージが届いた。おっちゃんを殺害した犯人が逮捕されたと。それでもイチコは無力感に打ちのめされることはなかった。代わりに、ある想いが芽生えた。それは――
2022年10月17日 月曜日。
茜色と藍色が交じり合う空の下、イチコは穴川の堤防に腰を下ろした。河川敷では軍団とモンモンズが、やはり一色触発のにらみ合いを繰り広げている。イチコはプルタブに指をかけた。いつもの缶コーヒーではなく、ワンカップ瓶だった。ひと口含むと、苦々しさにむせかえる。なにが美味しいのかわからない。隣で感想を共有できる者は、もういない。そんなことは関係なく防災無線から『夕焼け小焼け』が流れ出した。
2022年12月5日 月曜日。
今日からバイトの新人が入ってくるらしい。イチコは今日最初の現場に近い北裏筋駅前へ、新人を迎えに行った。ロータリーに車を停め、しばらく待っているとダッフルコートを着こんだピンク髪の女が現れる。
イチコはこの女が、長らく空席だった相棒の座につくのだと確信した。怯える小動物のような弱々しいオーラを纏いながらも、瞳の奥に野生を秘めていたからだ。許せぬ者に立ち向かう強さがあった。しかし戦い慣れたイチコにはわかる。この女の身のこなしは、素人かそれ以下だ。
だからこそ守りたいと思った。自ら定めた線を超えようとも。そして自らの命が消えようとも。
森川イチコは、この世界の住人ではない。しかしこの世界を愛している。
「水原 舞さんだね。どうも、森川イチコです」
イチコは丁寧にゆっくりと、ピンク髪の女に頭を下げた。
番外編5『イチコとワンカップおじさん』完