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『小説ですわよ』第12話

※↑の続きです。

 綾子がそそくさとホールの出入り口へ歩き出す。
「私と軍団はリムジンで帰るから。岸田、運転頼むわよ」
「かしこまりました。ではイチコ様、水原様。綾子お嬢様のお宅でお待ちしております。イエローがJリーグカレーを用意して待っているはずです」
「うわ~い、Jリーグカレーだ~!」
 イチコが子供のように飛び跳ねる。だが舞は困った。帰れと言われてもどうしろというのか。
「ハイエース、動かないんですけど」
「ああ、それでしたら……」
 轟音と共にホールの壁の一部が吹っ飛ぶ。車体のあちこちにトゲトゲの追加装甲を装着した、銀色の軽トラが突っ込んできたのだ。降りてきたのはシルバーだった。
「お~っ、舞ちゃん、イチコちゃ~ん。ブチ殺すぞ、うぇ~い」
「ハハッ。ブチ殺すぞ、うぇ~い」
 イチコとシルバーが陽気に腰を振る。舞はイチコの死を重く受け止めていたのが自分ひとりだけと分かり、腹が立ってきた。しかし「ブチ殺したいのはこっちだ」と喉まで出かかったのを飲みこんだ。
 シルバーは軽トラから工具を持ち出し、ものの数分でハイエースを修理してくれた。そして前歯が欠けた笑みを見せ、軽トラで壁に開けた穴から帰っていった。

 今度はイチコが運転席に、舞が助手席につく。舞は母が、というより講演会に参加していた客たちが無事に帰れたのか気になった。そこでイチコが散らかった運転席を片付けている間に、母へ「今朝、元気なかったけど大丈夫そう?」とLINEを送ってみた。すぐに返信がきた。「家に戻って寝てる」。
 もう家に着いたのか? という疑問が浮かんだ途端、イチコが察して話す。
「姐さんの転移魔法で、みんな家に帰れたと思うよ。今日のこと……ていうか、神沼のことは全部忘れるはず」
「そうですか、よかった……」
「この現場はグリーンとホワイトが処理してくれる。姐さんの家へ行こう」
「あの、もし時間があるなら私の家に寄ってもらっていいですか?」
「構わないけど……」
「母を安心させたいので」
 これまでイチコに送ってもらうのは事務所までだった。住所は探偵社に知られているのだから隠す必要はないが、“道ですれ違う人”が家の周辺まで侵入することに強い抵抗感があった。でも今は、そんな線引きがバカらしく思えた。
「そういうことなら、お安い御用だ」
 イチコがエンジンをかけ、ハイエースは壁の穴から外へ出る。

 20分ほどで舞の自宅マンション前に到着した。
「ゆっくり、お母さんと話してきて。姐さんには連絡しとく」
「あの……一緒に来てくれませんか」
「いいの?」
「お願いします」
 理由はいくつかあった。まず母は舞の交友関係が乏しいことを以前から心配していた。そして舞は前職の件があったので、今のバイト先では上手く人間関係を築けていると母に伝えたかった。なにより、明確には言葉にできないが、舞は単純にイチコを――友を母に紹介したかったのだ。
 イチコは何も追求せず、シートベルトを外す。
「わかった、行こう」
「ありがとうございます」
 舞の中で、少しずつイチコが生きている喜びの実感が湧いてくる。
 イチコと舞はそれぞれハイエースのドアを開けて降りた。続いて後部座席のドアも開く。
「えっ?」
 後部座席から紺ジャージの美形が降りてきた。
「ネ、ネイビーブルー! なんで!?」
「なんでっていうか……ずっと車に乗ってたので」
「嘘でしょお!?」
 まったく気配がなかった。この紺ジャージ、いつのまにかハイエースに乗りこんでいたのだ。
「社長のリムジンはいっぱいだから、こっちに乗ったんですけど……ダメでしたか?」
 なぜか上目遣いで、泣きそうになりながら訪ねてくる。
「ハハッ。ネイビーブルーは気配を消すのが得意だもんねえ」
「はい。私、顔がいい以外は取柄がないし、存在感がなくて」
「その“顔がいい”ってフレーズやめろ! よくない私はどうなるの!」
「す、すみませぇん」
 ここでネイビーブルーを置いていくのも後味が悪いので、一緒に家まで連れていくことにした。

 舞はマンションの404号室――縁起が悪い代わりに家賃が格安である――のドアを開けて入る。
「ただいま」
「おじゃまします」
「おじゃまします~」
 返事はない。イチコとネイビーを先導してリビングへ向かう。隣接した6帖の和室に、母が布団を敷いて寝ていた。
「あら、舞ちゃん」
「ごめん、寝てた?」
「ううん、横になってただけ。そちらは?」
 イチコとネイビーは母の視線を受け、会釈する。
「バイト先の森川 イチコさんとネイビー」
「あらまあ、娘がお世話になっております」
 舞は母が起き上がろうとするが、手で制する。
「寝てていいよ。忘れ物取りに戻ってきただけだから」
「ええっ、だけど……」
「いいから。それより体調はどう?」
「朝はボーッとしてたけど、今は疲れてるだけ。仕事が休みでよかったわ。友達とお茶したあと、急にダルくなってね」
 やはり講演会の記憶はないようだ。舞の琴線がほぐれ、目頭が熱くなってくる。
「じゃあ、お母さん。もう行くね。お昼ご飯は?」
「Jリーグカレーがまだ残ってたから大丈夫。あれ、おいしいわよねえ」
 これにイチコが身を乗り出す。その目は異様に爛々と輝いている。
「ですよねえ! さすが、お目が高い!」
 だがイチコは口を抑え、後ろへ下がった。
「舞ちゃんはお昼ご飯いいの? よかったら、みなさんも一緒に……」
「私はバイト先の人たちと食べるから」
「うん」母は嬉しそうで寂しそうな声でうなずき、イチコとネイビーを見る。
「舞のこと、よろしくお願いします」
「はい。こちらこそ舞さんには助けられっぱなしで。ありがとうございます」
「私は顔がいいこと以外取柄はありませんが、舞さんのお仕事を一生懸命サポートします!」
「それやめろって言ったでしょ!」
「ふふふっ」
 母が声を弾ませ、肩を震わせる。ひとまず心配はいらないようだ。
「じゃ、お母さん、またあとでね。夜は適当に外で食べてくる」
「野菜もしっかり摂るのよ。ビタミンは大事なんだから」
「もう、わかってるって」
 母の過保護がこんなに染み入ったのは初めてだ。舞たちはきびすを返し、和室をあとにする。
 リビングのゴミ箱には、未開封の神汁の箱が突っ込んであった。

 舞の家から車で30~40分。ちんたま市 凡人区 大摩羅公園の高級住宅街。石畳とけやきが並ぶ、閑静な高級住宅街。ハイエースは大通り沿いのある邸宅の前で止まった。白い壁と鉄柵の門、一面芝生の庭を挟んで真っ白な屋敷がそびえ立っている。ここが綾子の自宅だった。
 『Carmilla』という表札の下にあるインターホンに向け、イチコが運転席から叫ぶ。
「姐さん、う~っす」
 鉄柵が自動的に開き、ハイエースが庭を突っ切って邸宅へと向かう。ちょうど助手席から見える庭の左側で、強大な狼が四つん這いのゴールドに覆いかぶさり、腰を振っていた。
「あの狼、岸田さんって聞いたんですけど」
「そうだよ。月に一度、ああなる」
「それは知ってます。ゴールドは助けなくていいんですか」
「うん。本当に挿入いれてるわけじゃないからね。それにゴールドの仕事はハッキングと、ファッキングだから」
「どう見てもファックされてるほうじゃないですか」
「ハハーッ! 細かいことは気にしたって仕方ない」
「それもそうですね」
 そこで後部座席のネイビーブルーが口を挟む。
「いいなあ、ゴールドさんは。私は顔以外取柄がなくて存在感がないから潜入役しかできないのに、ふたつの役割があるなんて」
「自虐風自慢やめろ」
「すみませぇん」

 ハイエースは邸宅から向かって左の駐車場に停車した。イチコ、舞、ネイビーはそこから正面のドアまで回る。
 イチコが両手で木製の巨大なドアを押すと、ギイと軋んだ音がした。開けた先には広々としたゴシック調の空間が広がっていた。中でも鮮血のような赤い絨毯が目に留まる。そして黄金のシャンデリアの下で、綾子が不機嫌そうに立っていた。イチコは気にせず笑顔で話す。
「姐さん、う~っす」
「遅い」
「す、すみません、私が母のところへ寄りたいと言ったからで」
「それはいいのよ。お母様のご容態は?」
「疲れて寝てましたが、問題なさそうです。社長のおかげで助かりました。ありがとうございます」
「お元気そうならなにより。さ、早くいらっしゃい。Jリーグカレーが冷めてしまうわ」
 今さらながら、舞は綾子のことも信頼できると感じた。第2の細木数子になりたいと聞いたときは、どんな胡散臭い人間か疑ったが、母のことを真っ先に心配してくれるあたり悪人ではない。
 しかし舞の安堵は、すぐに揺らいだ。
「では始めましょう。吸血鬼の茶会を。ドラクロア日本支部へようこそ」
 舞は、綾子が初めて歯を見せて笑うのを見た。その口には2本の犬歯……と呼ぶには鋭すぎる牙が光っていた。

 舞とイチコは広い食堂に案内され、昼食会が始まった。
 中央に長いテーブルが置かれ、上座に綾子、その左手側に舞とイチコ、右手側に軍団が対面して座る。ホワイト、グリーン、パープルは現場の後処理のため、まだ来ていなかった。ゴールドと岸田も庭でお楽しみを続けているようだ。
 テーブルに並べられたのは、Jリーグカレーとインスタントコーヒー。この屋敷とは、あまりにも不釣り合いだ。だが今日は朝から人生で一番といっていいくらいに動いた。お腹の虫がカレーを求めている。イチコと軍団も同じだったのだろう、綾子が何かを話し始める前に「いただきます」とがっつき始める。
「あんたたちねえ……」
 綾子がイチコと軍団を睨みつけるが、説教しても無駄だと悟ったのか、自身もさっさと食べ始めた。

 数分ほど経ち、スプーンと銀の皿がぶつかる小さな音だけが聞こえる時間が続いた。真っ先にイチコが食べ終え、皿を掲げる。
「姐さん、おかわり!」
「自分でよそいなさい」
「ほ~い」
 イチコはトボトボと席を立ち、隅のカートに置かれた炊飯ジャーと鍋からおかわりをよそう。
 と、綾子が上品にスプーンを置いた。
「水原さんには、まだ話してなかったわね。私は吸血鬼なのよ」
「へぇ~、そうなんですか」
 舞はカレーを口に運びながら応えた。今さら驚きはない。只者でないのは明らかだ。一応、綾子の牙を確かめてみようとしたが、ナプキンで口元を拭いていて見えない。
 ここで舞は以前、イチコのスマホに綾子から着信があったことを思い出す。綾子はカーミラの名で登録されていた。カーミラとは古い小説に登場する女吸血鬼だ。金を吸い取るインチキ商売にちなみ、イチコが冗談で登録していたと思いこんでいた。
「社長って、まさか本物のカーミラ?」
 綾子は「ふふん」と自慢げに鼻を鳴らし、鉄扇をあおぐ。
「そっか~。実在したんだ」
「つまらない反応ねぇ」
「変な人たちには慣れちゃいました」

 縦長の窓から、昼下がりの穏やかな光が差しこむ。ここで舞は、もうひとつ疑問が湧いた。
「日光浴びても死なないんですね」
「まだ下級だった頃はね。讃美歌も昔は苦手だった」
「ニンニクや十字架も効かなかったりします?」
「上級吸血鬼はそんなくだらないもので死んだりしないわ」
「じゃあ、どうやったら死ぬんですか?」
「なに、死んでほしいわけ?」
「探偵社がつぶれたらバイト代が入らないので、それは困ります」
 綾子は牙を見せて笑い、すぐにナプキンで口元を覆う。噛まれたら、どうなるのだろう。昔読んだ小説では、吸血鬼の眷属にされると書いてあったが。
「貴方、本当に面白いわね。基本的に死ぬことはないわ。死ねないとも表現できるけど。唯一、依頼主の……」
 軍団がおかわりの順番で揉め、殴り合いを始めたが、綾子は話を続ける。
「依頼主、というより吸血鬼たちのあるじが魔法を使えば、私は灰になって消える」
「怖っ。カタギの弱みを握ったヤクザじゃないですか」
「ふふ。ヤクザなんかと一緒にしたら、オーストリアから血相を変えてすっ飛んでくるわよ」
「その人が探偵社の元締めかあ」

 呑気な舞に反し、綾子の表情が険しくなる。
「彼は愚かな神々の過ちから生まれた、原初の吸血鬼。人の姿に生まれながら人として生きることを許されなかった異形。彼は神々を憎み、神々のケツ穴の先……つまり神の居場所を突き止め、復讐しようとしている。そのケツ穴を爆裂させることでね」
 急に下劣なワードが飛び出したので、舞は米粒が気管に入って咳きこんだ。綾子がイヤそうに顔をしかめる。ここでイチコがカレーまみれの口を開く。
「姐さんたちの目的は、マルチアヌスを調べながら神々の居場所を探ること。私の目的は、マルチアヌスのどこかにある故郷へ帰ること。だから協力し合ってるんだ」
「みなさん、色々あるんだなあ。インチキグッズを売ったり、Jリーグカレー食べたりするだけじゃないんですね」
「ハハーッ!」
「ちょっと、インチキは余計でしょ!」
 あざだらけになった軍団が席に戻ってきた。舞は目に移る者たちを見渡す。死ねない吸血鬼の復讐者。死にたい異世界人の放浪者。よくわからない才能をもった無職たち。そして、なにも持たないアルバイトの舞。奇妙な組み合わせだが、舞は自分が場違いとは思わなかった。目の前のJリーグカレーとインスタントコーヒーが愛おしく感じられる。
 舞はゆっくりと立ち上がり、ここに根を張ろうと足を踏みしめ、
「これからも、できる限りお手伝いをさせていただきます。よろしくお願いします!」
「ええ、こちらこそ」
「よろしくね、水原さん。キミは私の志村けんだよ」
「あ……!」
 舞の秘めていた怒りと悲しみがよみがえった。肝心の疑問も。

 舞は両手を乱暴にテーブルへ叩きつける。
「イチコさん、なんで生きてるんですか!」
「ハハッ。それが私もよくわかんないんだよね」
 イチコはヘラヘラと笑い、頭を掻く。それが舞の激情をさらに爆発させた。
「それじゃ納得できません! あんなに泣いて、胸に穴が開いたような気持ちでバイトの面接を受けて! ひとりで寂しく蕎麦屋に行って、また泣いて!」
「そう言われてもなあ……」
「それでもイチコさんの仇を取ろうと必死こいて宝屋と戦ってたら、いきなりドリフ大爆笑ですよ! これは相撲案件でしょ、相撲案件!」
「お、落ち着いてよ、水原さん」
 そこで綾子が開いた鉄扇を閉じる。
「相撲か、いいわね。場所を移しましょう。説明がてら、腹ごなしの運動といこうじゃないの」
「そうこなくっちゃ!」
 舞は一度座り直し、全員で手を合わせて「ごちそうさま」をしてから食器をカートに乗せた。

 屋敷の外に出る。岸田とゴールドはまだ戯れていた。舞たちは道を挟んで反対側の芝生へ移動する。
 シルバーの持ってきたラジカセから、ラジオ体操第1が流れる。相撲をとるのは舞とイチコのはずだが、軍団も一緒に体操を始めた。綾子だけは折りたたみ椅子に腰かけ、足をプラプラさせている。
「社長も一緒にやりましょうよ」舞が腕を回しながら誘った。
「運動は見るほうが好きなのよ。軍団も無職が汗を流して草野球する様が見たいから結成したんだから」
「ひどい趣味だ。じゃあそのままでいいんで、イチコさんのこと説明してくれません?」
 と、背中に悪寒が走り振り向く。ブルーが舞の尻をつんつんしようとしていたので、とっさに指を掴んだ。
「このエロ小僧!」
「イチコのこと、ボクが説明するよ」
 ブルーが舞の手から指を抜く。舞は呆れのため息をついて、身体をねじる運動に戻った。
「あのとき、つんつんして死んだって言ってたでしょ」
「ボクはそう思ってた。でも諦めたくなかったから、相談してみたんだ。同じ才能を持つ人……2代目おでんつんつんおじさんに」
「に、2代目おでんつんつんおじさん!?」
 舞が小学生のとき、10年ほど前だ。コンビニのおでんを指でつつき、捕まった中年男性がいた。今度、格闘技の大会に出るとニュースで見たが、それが初代だとして、バカな意思を受け継ぐ2代目がいたというのか。

「ボクと2代目は必死につんつんして、イチコが助かる唯一の方法を解析した。それはJリーグカレーが引き起こす“まさおラモス化現象”だった」
「ちょ、ちょっと待って、まさお? ラモス?」
 謎の単語が繰り出されたが、舞はその場で飛び跳ねる運動をやめなかった。
「簡単に言えば、肉体が変化することだよ。Jリーグカレーを愛し、全身の血がJリーグカレーで満たされた者にのみ起こる奇跡。全国の少年少女が抱く夢。それこそが“まさおラモス化現象”。これを応用すれば、イチコを蘇生できる可能性があったんだ」
「まさおナントカがよくわからないのに、応用されても困るけど……あんたと2代目は、その可能性に賭けたのね」
「うん。大量のJリーグカレー、Jリーグふりかけにテスラ缶をブレンドし、イチコの全身にかけたんだ。そしたら見事、イチコはラモスになって復活した」
「じゃあ、あそこでラジオ体操してるのはラモス?」
 舞が指さした先には、背伸びしながら深呼吸するイチコがあった。
「大事なのはここから。肉体のラモス状態が固定されてしまう前に、イチコにドリフを見せたんだ。最初は反応もないし記憶も錯乱してて焦ったけど、加藤茶が志村けんに頭を引っぱたかれるところで、イチコが涙を流して元の身体に戻ったんだよ」
「ええっと、そ、そうなんだ。よかった。ありがとね、ブルー」
「つんつんしていい?」
「指折りキメるよ」
「じゃあ、やめる」
 ブルーはそそくさとイチコから離れ、第2に移ったラジオ体操に興じた。 

 降り注ぐ日差しが暖かく、柔らかい。舞はようやくイチコが生きているという安堵を得た。冬の嵐のような激情はもうない。だが対神沼、対宝屋の切り札とはいえ、イチコの生存を自分だけ知らされなかったことに傷ついた。人がどれだけ嘆き、苦しんだか、イチコはわかっているのだろうか。それを確かめるためには、やはり相撲でぶつかるしかない。今はヘラヘラしているが、戦いとなれば真剣な想いも覗かせるだろう。

 ラジオ体操第2が終わり、木の枝を円形に並べた土俵の上で、舞とイチコは蹲踞そんきょの姿勢を取って対峙する。先に両拳を地面につけたのは舞だ。遅れてイチコが左手をつける。右手がつけば立ち合いの始まりだ。
 舞はイチコの表情をうかがう。余裕とも挑発とも取れる微笑みを称えている。絶対にイチコの本気と本心を引き出してやる――舞の闘争心に火がついた。
 そして、イチコが右手を地面につける。瞬間、舞は抑えつけていたバネが跳ねるように、イチコへと正面からぶつかっていく。
「アオォォォン!!」
「あああああああああっ!!」
 岸田の咆哮と、ゴールドの絶叫が、イエローの「はっけよい、のこった」に被った。

 白鵬式のカチ上げ式エルボーも、指折りもなしだ。舞は正面からイチコにぶつかり、両手でスウェットの腰回りを掴む。
「ふたりとも、ファイトッス!」
「目ん玉つんつんしちゃえ」
「ブチ殺せ~!」
「久々に人間の血が見たいわ」
 綾子と軍団の、応援か野次かわからない声を浴びながら、舞はイチコの体勢を崩そうと試みる。
 だがイチコは巨木のように動かない。左に押しても、右に引いても、その体感は決して揺らがなかった。
 突然、舞の身体が羽根のように浮かび上がる。気がつけばイチコに両襟を掴まれ、宙に浮いている形となっていた。
 そのままイチコは両腕を振り下ろし、舞を放り投げる。2~3メートルは後方へ空中を飛んだだろうか。勝負を見守る綾子と軍団の顔が遠くなっていく。舞は手足をバタつかせるが、なにもできないまま背中から叩きつけられた。その勢いで後頭部を打ちつける。
 本能で上半身を起こそうとするが、魚眼レンズを覗いたように遠近感のおかしくなった景色が目に飛び込んでくる。再び舞の上半身が倒れ、芝生に寝そべる。
「イチコさん!?」
「なにやってんッスか!」
「イチコ!」
「まずいんじゃないの、これ」
「やば、やりすぎた……」
 イチコ、綾子、軍団の動揺がぐわんぐわんと歪んで聞こえてくる。
(ああ、負けたんだ私。なにもできなかった。イチコさんに、なにも……わかってたけど……)
 その悔しさを噛みしめる余裕はなく、時間がゆっくりと流れ始め、頭が真っ白になっていく。そして聞き覚えのある声が響いてくる。

(よう、舞の海😁)
(相撲の精霊! 私は水原 舞です)
(今まで、よくがんばったな🤗)
(でも私、負けちゃった)
(そんなもん当たり前💢 相撲は強いヤツが勝つ❗❗)
(そうですね。私は弱い。結局、宝屋を自分で倒せなかったし)
(だけどお前、自分の意思で戦った。俺に頼らなかった。大事なものを奪われた怒りと、奪わせない使命で、ひとりカスに挑んだ❗ これなにより大事🤯 これからは俺いなくても戦えるな❓)
(えっ……ダメだよ、あなたがいなくなったら!)
(戦える。一緒に戦う仲間いるだろ😄❗ それに俺はお前、お前は俺。もう話はできないけど、いつでもいる。別れるの悲しいけどな🥺)
(精霊さん……)
(理不尽を許さぬ人間になれ❗ ムカつくやつ程々に理性で殺せ❗❗ じゃあな😭)
(ありがとう。がんばるよ!)
(まあ、たまに戻ってくるかもしれないけどな😏 今はやることある)
(アルバイトですか?)
(アホしね🥵)

 喉への圧迫感を覚え、真っ白な視界が晴れていく。
 目の前には舞を心配そうに覗きこむイチコ、綾子、軍団がいた。
「水原さん! ああ、よかった」
 舞はブルーが人差し指をこちらへ向けているのに気づく。
「ゲホッ、コホッ。喉を突いたのお前か……」
「本当は乳首のほうが目覚ましに有効なんだけど、あとで怒られるから」
「当たり前だボケ!」
 舞はイチコの手を借りて立ち上がる。イチコの手はスベスベツルツルフワモチだった。
 だが頭を打ったダメージがまだ抜けておらず、すぐに尻もちをついてしまう。全員が一斉に舞へ同情の視線を向けた。
 途端、舞はすべてが空回りしていたことに情けなくなって泣いた。
 声をあげて泣いた。
 野々村竜太郎元議員のように、わんわんと泣いた。

 イチコが舞を胸元に抱き寄せ、その手で背中を優しくトントンと叩く。石鹸の匂いが舞を安心させ、余計に涙腺を緩めた。
「心配かけてごめんね、水原さん」
「だってぇ! イチコさんが急に殺されてぇ! 勝手に記憶も消されてぇ! 思い出して復讐しに行ったらぁ、イチコさんがドリフ大爆笑のオープニングで現れてぇ!」
「うん」
「私だけ知らなくてぇ! 怖い想いをしたのに、みんなもイチコさんもヘラヘラしててぇ!」
「うんうん」
「私……わ゛た゛し゛は゛ぁ゛!! ……う゛わ゛は゛は゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ん゛!!」
「よしよし」
 イチコがきつく抱きしめて、背中をさすってくる。イチコの大きな胸が舞の顔を包んだ。自分より豊満なのが気に入らなかったので、鼻水をすりつけてやった。
 それから、どれだけ経っただろうか。涙も鼻水も、感情も落ち着いた。自分の力で立ち上がると、イチコが拳を突き出してきた。
「ただいま、志村けん」
「おかえりなさい、加藤茶」
 舞はイチコの拳に自らの拳を重ねる。
「あの嫁は大丈夫なんですか?」
「あれ、意外としっかりした人らしいよ。それより昔、だいじょうぶだぁで組んでた彼は……」
「田代まさしの話はするな!」
 舞とイチコは顔を見合わせ、高らかに笑った。
「ハハーッ、ハッ!!」
 綾子と軍団から拍手が巻き起こった。いつもまにか狼から人間に戻っていた岸田も拍手をしていた。ゴールドの顔からは感情が消えていた。

「じゃあ他に依頼もないことだし、今日は解散しましょうか」
 綾子が言い終えたところに、庭へジープが侵入してくる。車から降りてきたのは白、緑、紫のジャージを着た男たちだった。舞は言うまでもなく、彼らが軍団のホワイト、グリーン、パープルだと察した。
 オールバックヘアのホワイトが、メガネをくいっと上げて喋る。
「お嬢、後始末は完了です」
 続けて、パーマヘアであどけない笑顔のグリーンが話す。
「関係者は陰毛をに抜いて記憶を消しておいたから大丈夫だよん」
 さらに目が隠れるほど長い前髪のパープルがボソボソと言葉を紡ぐ。
「神沼を拷問したけど、異世界へ送られた人たちを戻す方法は本人も知らなかった。ブルー、あとで神沼を解析するの手伝って」
「うん、わかったよ」
 全員が揃ったところで、綾子が声を張り上げる。
「みんな、ご苦労様。神沼の件が終わっても、返送者がいなくなるわけじゃない。明日からもよろしく頼むわね」
 岸田、軍団、イチコが深々と頭を下げる。
「よろしくお願いしま~~~す!」
(細田守?)
 舞はよくわからなかったが、とりあえず頭を下げておいた。

つづく。