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小説ですわよの番外編ですわよ4-2

※↑の続きです。

 2022年 12月22日 木曜日。
 S県阿江木越あえぎごえ市にある刑務所の前に、珊瑚は立っていた。
 ここに恋人の……恋人だった胡堂 彩斗こどう さいとが収容されている。
 だが彩斗の家族は、珊瑚が面会することを拒否していた。
 当然だろう、息子の人生を狂わせた原因なのだから。また、大学生の息子が女子高生と交際していることに対しての嫌悪感もあるようだった。

 それでも珊瑚は、時折こうして刑務所の前にやって来てしまっていた。かといって、なにができるわけでもない。入口前の柱によりかかって、文庫本を取り出す。
 彩斗との出会いも、本がきっかけだった。本屋で落とし物をした珊瑚に、彩斗が声をかけてきたのが初めての出会いだ。それから好きな小説の話で盛り上がり、喫茶店で互いのおススメ小説を交換することを繰り返して、気がつけば付き合っていた。

 彩斗は知的で優しく、争いを好まない男だった。同時に、許せぬことにはハッキリと異議申し立てをする芯の強さがあった。長い間ボクシングを習っており、心も肉体も強かった。しかしその強さと正義感からの行動が、彩斗の人生を狂わせてしまった。珊瑚の父、石英いしひでが家族に暴力を振るっていることを知ると、彩斗は石英に直談判しに行った。最初は話し合いで解決するつもりだった。しかし泥酔した石英が包丁を持って襲いかかり、身を守るために揉み合いとなった。彩斗が咄嗟に繰り出したパンチを受け、石英は転倒し、後頭部を強打して死んだ。

 珊瑚は彩斗との思い出を振り返るかのように、文庫本のページをめくりたかった。本は彩斗との交換で借りっぱなしのものだった。しかし12月の鋭い風に阻まれる。だがそれでいいと珊瑚は思った。今の自分にこの本を読む資格はない。彩斗の人生を奪ったのは、自分だ。父のことを話しさえしなければ、今日も彩斗と喫茶店で会話を楽しんでいたことだろう。
 なにより小説の内容は、今の珊瑚に共感できそうにない。物語の主人公はある日突然、身体が虫になってしまう不条理に襲われ、家族から虐げられていくという内容だ。一方、珊瑚の家に巣くっているのは、害意を持つおぞましい肉塊である。人が小説に心を救われるのは、物語の主人公が、自分と同じかそれよりも不幸な境遇にある場合だと珊瑚は思っている。今の珊瑚には、とても読み進める気になれない。
 せめて文庫本を彩斗に返し、謝りたかった。だがそれも叶わない。これが自分に与えられた罰なのだろうか。ならば受け止めようと珊瑚は思った。

 入口の自動ドアが開く。ピンクのおかっぱに、ピンクのジャージ姿の若い女が出てきた。刑務所には似合わない明るさを放っていた。この場所を尋ねる者が纏う特有の悲哀も感じられない。珊瑚は女に理不尽な苛立ちを覚え、またそれが情けなくなる。他人に自分と同じ不幸を望むほど、惨めな祈りはあるまい。その感情をぶつけ、救いを求めるのは小説だけでいい。

「あの~」
 珊瑚の内省は、女の声に遮られる。顔を上げると、ピンクのおかっぱが珊瑚の顔を覗きこんでいた。
「な、なんでしょうか?」
「顔色、すごく悪そうに見えたんで」
 女に言われ、珊瑚は頬に手を当ててみる。生きているのか疑いたくなるほど冷たい。
「平気です。じゃあ、用があるので」
「あっ、待って!」
「まだなにか?」
「私、偶数週の水曜日か木曜日の午前中、ここに来るんです」
「……?」
 珊瑚は女の意図がわかりかねた。質問する前に女が答える。
「話を聞くくらいなら、できますよ」
 なるほど、親切心らしい。だが珊瑚には、それを受け取る余裕はなかった。それに今置かれてる状況を明かしたところで、信じてくれるはずがない。死んだ父が帰ってきて、家族を暴力と恐怖で支配していることなど。
「話したところで、失ったものは取り戻せないと思います」
 珊瑚は低く小さな声で言葉を吐き出した。苛立ちだけでなく、恐怖もあった。仮に女が話を信じてくれたとして、彩斗のような行動をとってしまったら……
「私、これ以上背負いきれません。関わらないでください」
 女は、叱られた子犬のように頭を垂れる。
「ご、ごめんなさい。余計なことを」
「それじゃ、急ぐので」
 珊瑚は文庫本を鞄へ押しこみ、弾かれるように去る。振り返れば罪悪感に飲まれそうな気がしたので、ただただ真っすぐ歩いた。そして刑務所前のバス停を目指す。

 バス停に着くと同時に、阿江木越駅行きのバスがやってきた。もし逃せば、20分近く待つことになる。大抵の場合、去り際の「急いでいる」とは方便だが、今日に限っては本当だった。クソオヤジに命じられた“稼ぎ”に向かわなければいけない。
 標的は、父が勤めていた工場の職員だ。父は帰還した直後、この工場でアルバイトをしていた。そこは死んだはずの人間たちが働いているのだという。信じがたいが、父は嘘をつくタイプではない。究極的に正直で素直な人間である。だから感情や倫理に逆らわず感情を剥き出しにするし、平気で暴力を振るう。そして工場をクビになった。
 だが元同僚との繋がりはあるようで、何人かに「娘を買わないか」と声をかけていた。そのうちのひとりが、引っかかったというわけだ。

 珊瑚が駅前のホテルに到着してから数分経ち、部屋のドアがノックされた。開けると髪に紫のメッシュを入れ、紫のジャージを着た男が立っていた。刑務所で会ったピンク女といい、最近は髪と服の色を合わせるのが流行っているのだろうか。
「どうも……」
 男がボソボソと呟く。前髪は目元まで垂れ、表情が読み取れず不気味だ。だがこの手の相手は初めてじゃない。珊瑚はいつも通りの言葉を機械的に紡ぐ。
「先にシャワーどうぞ」
「いや、いい」
「う~ん……」
 珊瑚は困ったフリをした。この手の相手も初めてではない。
「そんなこと言わず、一緒に入りましょうよ」
「もう二度と本番強要はしない」
「はあ?」
 意味が分からない。この男、風俗か何かと勘違いしているのだろうか。
「アンタが持ってるスプレー、もらうよ」
「!!」
 珊瑚の心臓が跳ね上がる。この男、こちらの手口を知っているのだ。動揺した一瞬の隙に、男が珊瑚の両手首を掴んできた。そのままベッドへ押し倒されてしまう。
「大丈夫、なにもしないから」
「してるでしょ!」
「スプレーはどこ?」
「知らない!」
 珊瑚は真っ白になりそうな頭の中から、対処法を探し当てた。それはクソオヤジから教わった唯一まともなものだった。
「この紫キモ前髪っ!」
 男が馬乗りになろうとした瞬間を狙い、珊瑚が膝突き立てる。グニョッと気持ち悪い柔らかさと、わずかに固い感触が同時に伝わってきた。
「ぎょあああああっ!!」
 男が両手で股間を抑え、何度も小さく飛び跳ねる。逃げ出そうとする珊瑚に対し、男は予想外の行動をとった。
「だから潜入調査は向いてないって言ったんだ! ぬいいいいっ!!」
 男は股間を抑えながら窓へ突撃。ガラスをぶちやぶり、そのままダイブした。
「ウソでしょ!?」
 珊瑚は5階の窓から顔を出し、下を見る。だが思い浮かべた無残な死体はない。あったのは、男がよろけながら走り去る姿だった。
「ウソでしょォ!?」

 直後、スマホが着信を知らせる。クソオヤジとグルになっているホテルのスタッフからだ。隠しカメラで室内の様子は把握されている。
「後始末はこっちでしておく。さっさと出て行け」
「このこと、クソオヤジには黙っておいてよ」
「当たり前だ。俺には関係ない」
 一方的に電話が切られた。
「どいつもこいつもクズばかり……!」
 だが珊瑚には、最優先でやるべきことがある。それは今起きた非現実的な出来事を受け止めることでもなく、スタッフに怒ることもでもない。“稼ぎ”に失敗したことを、どうごまかすかだった。
 下手を打てばクソオヤジは激怒し、暴力を振るうだろう。珊瑚は“売り物”なので殴られない。怒りの矛先は母に向けられる。これだけは避けなければいけなかった。
 母を守れぬのなら、生きている意味などない。この命を世界に留まらせる最後の楔は守るべきものがあるからだ。

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「今日の1位は……おめでとうございます、しし座のあなた! 勇気が実を結ぶ日。心に嘘をつかず行動してみて。ラッキーアイテムは、文庫本で~す」
  占い担当:アーミラ・カーヤ
(朝のニュース番組『死んだほうがましテレビ』の占いコーナーより)
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 舞は月に2度ある父との面会を終え、阿江木越駅行きのバスに乗った。水曜日の代休で一日休むつもりだったが、午後から出勤することにした。ここしばらく神沼絡みの事件に追われていたせいで他の返送者案件が溜まっており、人手不足らしい。
(社長の占い、大外れじゃないですか!)
 バスに揺られながら、“アーミラ・カーヤの正体”に悪態をつく。暗い顔をしている女の子が、ラッキーアイテムの文庫本を読んでいたから声をかけてみたというのに。冷たく拒絶された上、話しかけたせいでバスを1本逃がしてしまった。
 しかし最低な気分とまではいかなかった。話しかけていなければ、悶々としたまま働くことになっていただろう。まったく根拠はないのだが、さっきの女の子から自分と近いものを感じたのだ。占いがなくとも、声をかけていたはずだ。あの子と再び会えたら、もう一度だけ話しかけてみようと思っている。

(きっと、お父さんもそうするよね)
 舞の父はヤクザと揉めた末に刑務所行きとなった。おかげで残された家族はとんでもない苦労をさせられ、しばらくは父を恨んだ。一方で子供たちのために許せぬ者へ立ち向かった父が誇りでもあった。
 窓の外の景色が後方へと流れていく。街が、街路樹が、そして通行人が、その輪郭もわからぬまま。強風で窓ガラスに打ち付けられた雨も流れていく。傘を差し出したところで、その人の心に降る雨を止めることはできないかもしれない。それでも雨に打たれる人と目が合ったのなら、今すぐバスを降り、後方へ流れていくのを追いかけたい。そんな人でありたい。舞はそう強く思った。
 と、ポケットのスマホが振動する。探偵社専用のチャットアプリに、綾子からメッセージが届いていた。
『パープルがポカした。プランBに移る。詳しくは現場でイチコたちに聞いて』

つづく