小説ですわよ第2部ですわよ2-6
身体の背面全体に痺れるような冷たさを感じ、マサヨは目を覚ました。鉛色の空が視界を覆っている。そこで自分が地面へ大の字になって気絶していたことを察した。
やや倦怠感はあるものの、怪我を負った形跡も痛みもない。ゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡す。車輪のついた自動車が行きかい、通行人たちの表情は……普通だ。真顔であったり、外套をまとって身を縮こませたり。マサヨがよく知る世界の風景である。
(もしかして戻ってこられたの?)
しかし、つい今まで乗っていたバイクはない。
「愛助? 愛助、いる!?」
返事はない。そばを通過する中年のオヤジが訝しげに見てくるが、すぐに我関せずと無表情で去っていく。
と、頬へ水滴のようなものが落ちてきて身震いする。
「みぞれ雪……」
マサヨがアヌス02へ転移したのは4月。今は明らかに冬だ。世界だけでなく時間も跳躍してしまったのだろうか?
「愛助! 愛助ったら、返事してよ!」
ここが元の世界だとして、帰還できたのは嬉しいが、できたばかりの新しい仲間が消えてしまったのは寂しい。イチコたちに紹介しようと思っていたのに。
「そうだ、イチコに連絡しなきゃ!」
スマホを取り出すが、いくら電源ボタンを押しこんでも反応しない。どうにかして探偵社に連絡をして、アヌス02の恐るべき計画を伝えなければ。
幸いにも、遠くに蕎麦屋が見えた。イチコに何度か連れていってもらったことがある。探偵社が宴会で貸切ることもあるらしい。つまり連絡手段を持っているということだ。
蕎麦屋へ走り出そうとしたとき、横から異様な影がぬるりと躍り出てくる。ボロ布を羽織り、般若の面をつけた、見るからに不審者。
「お前、ピンピンカートン探偵社の人間だろ!」
ボイスチェンジャーを通した声が、不気味に怒鳴る。マサヨは咄嗟にバックステップで、不審者と距離をとった。02の追っ手かもしれないと考えたのだ。
「なんで知ってんの?」
「お前にキンタマ蹴られたんだよ!」
「あ……!」
バイトを始めたばかりのころ、珍しく依頼者が直接事務所を訪ねてきたことがあった。その男がイチコの胸を掴もうとしたので、股間を蹴り上げやったのだ。顔は忘れたが、名前は……やはり忘れた。だが奇妙な名前で……
「俺の名はkenshi。この世界を地獄に変える者!」
「そう、kenshiだ。こんなところで何やってるわけ?」
「あの蕎麦屋にピンピンカートン探偵社の女ふたりが入っていくのを見かけてさ」
「まさか、イチコが!」
「名前は知らないよ」
『女ふたり』ということは、イチコと綾子だろう。事務所は彼女たち以外全員男だ。ふたりが揃っているのは幸運だ。02のことを伝えられる。
「だからさ、あの女どもが店を出てくるときに脅かしてやろうと思ってんの。こんな般若の面がいきなり現れたらビビるぜ~」
「くっだらない」
kenshiを無視して通り過ぎようとしたが、ある考えが浮かんで立ち止まった。
「脅かす、か……」
イチコと綾子をビックリさせてやろう。そんなことをしている場合じゃないのは承知だが、どうしてもイタズラ心が抑えきれない。
「ねえ、kenshi。そのお面貸して」
「えっ、ヤだよ! これは俺のだい!」
「いいじゃないの。ちょっとだけ」
「ヤダヤダ!」
「あんたの代わりに、ふたりを脅かしてあげるから」
「ヤダもん、ヤダもん、自分で脅かせるんだもん!」
kenshiが抵抗して、マサヨの肩を押してくる。そのとき――
電流のようなものが、頭のてっぺんからkenshiに触れられた肩へ走る。kenshiは虚ろな表情になり、マサヨを押した手がぶらんと垂れさがる。
「なに……これ……」
どうしたものかと考えを巡らせている数秒のあいだに、kenshiは生気を取り戻して大声を張り上げる。
「あ、アヌス02!? みんな気っ持ち悪い笑顔で! 神沼みたいなヤツもいた! あれはなんだ! 田代まさしが特異点!? お前、〇ロ助みたいなロボットとバイクに乗ってたろ!」
マサヨは何が起こったか、理屈ではなく直感的に理解していた。自分の記憶がkenshiに伝わったのだ。多くの返送者たちは、異世界へ転生した際に超常能力を得る。マサヨも同じということだろう。
「こんな幻覚を見るなんて、疲れてるんだな。今日は帰って寝よう」
「じゃあ、般若の面ちょうだい」
「いいよ。あ、でも顔は見ないで」
「わかった」
マサヨが顔を背けると、kenshiは般若のお面とボロ布を地面に置いて走り去っていく。
マサヨが振り返ると、ヒョロガリの男の背中が角を曲がっていった。
「さてと……」
面と布を身に着け、ボイスチェンジャーであろう機械も置いてあったので懐に忍ばせる。同時に、蕎麦屋の戸が開いた。出てきたのはイチコと……もうひとり知らない女。
「誰、あの子? 全身ピンク……まあいいや」
マサヨはみぞれ雪を踏みしめ、ふたりの前に立ちはだかった。
「待てっ! 俺の名はkenshi。この世界を地獄に変える者!」
――舞の視界は、よく知る探偵事務所の風景に戻った。
「あたしがバックレたんじゃないって、わかってもらえたかしら」
マサヨは超常能力で記憶を共有したのだと語った。舞は同じような能力の返送者と交戦経験があるので感覚的に理解できた。
「失礼しました、マサヨさん」舞が頭を下げる。
「いいのよ」
マサヨが微笑む。だが上辺だけのような固さがあり、舞は安心できなかった。
「しっかしまた、スケールの大きな話になってきたなあ」
イチコが両足を組み、頭をかく。
「こっちの神沼たちだって、死ぬ想いでようやく倒したのに」
「ていうかイチコさん、死んだじゃないですか」
「ハハーッ!」
ゴールドと珊瑚もクスクスと笑う。神沼(こちらの世界のゲロ沼)の一件以来、事務所では不謹慎にもイチコの死をいじるのが流行っていた。イチコ本人でさえ、それを楽しんでいるのだが、ひとりだけ真っ当な反応を示した。
「なんですって!」
マサヨが両手をテーブルに叩きつける。
「あっ、いいんだマーシー。じゃあ今度はこっちのことも話すよ」
マサヨは深呼吸して怒りを抑え、ソファに座る。イチコはマサヨが消えてから、ゲロ沼が逮捕されるまでの出来事を、かいつまんで説明した。
イチコは話の最後に、舞をちらりと見た。
「そういうわけで、水原さんには助けられっぱなしでさ」
「いやあ、それほどでもないですよ」
言葉と裏腹に、舞は自然と胸を張っていた。これがまずかった。マサヨの怒りが再沸騰し、歯ぎしりを始める。
「私なら、イチコのことを……!」
ライオンかトラか、威嚇する巨大なネコ科のような威圧感をマサヨが放つ。が、やはりすぐに深呼吸して怒りを押さえこんだ。
「作戦会議を続けましょう。と言っても、情報収集くらいしかできることはないけどね」
「姐さんなら、なにか手を考えてくれるかもだけど。あとで伝えとくよ」
「オンライン通話もできないくらい体調悪いの?」
ゲロ沼に強制転移させられた人々を呼び戻すため、綾子はかなり消耗した状態だ。
「ずっと寝こんでて、じいやが付きっきりで看病してる」
「そっか……」
「一旦、休憩してお昼にしよう。午後からは情報収集だ!」
イチコが拳を勢いよく突きあげる。舞と珊瑚もそれに続き、ゴールドはやる気なく拳を掲げた。マサヨは静かに立ち上がる。
「ごめん、遠慮させてもらっていい? こっちはこっちで情報集めとくから」
「あ~、Jリーグカレー苦手だったっけ」
「ううん。愛助を探したいの。コロッケそば、食べさせるって約束したから。そう、約束……」
か細い声で、目を伏せるマサヨ。愛助のことが心配のだろう。だが舞には、それ以上の意味が含まれているように思えた。
「わかった。ひとりで大丈夫?」
「ひとまずね。ぬーぼーは、みんなで食べちゃって」
マサヨはコート掛けからボロ布を手に取り、身体へ巻きつけるようにして纏う。そして事務所のドアを開けた。イチコが見送ろうと立ったので、舞
「マーシー、キミはひとりじゃないよ」
「……ありがと。じゃあ、また」
マサヨは固さのある笑みを見せ、事務所を出ていく。音もなくドアが閉まる。
しばし静寂の間があったのち、珊瑚がおそるおそる切り出す。
「あの~イチコさん、軍団さんのことなんですけど」
「水原さんが逃がしてくれたんでしょ?」
「気づいてたんですか?」
「3階から話し声が聞こえてた。あ、マーシーにはバレてないはず」
イチコはマサヨが置いていったクーラーボックスを抱え、冷蔵庫の前に置く。舞は改めて、ブルーたちを逃がした意図を説明した。イチコはぬーぼーを冷蔵庫にしまいながら、小さく「うん、うん」と聞いていた。
「ごめんなさい。私、先走っちゃいました。それにマサヨさんを疑うようなこと……」
「気にしないで。私もマーシーのことを完全に信用してるわけじゃない」
「だ、だけど、記憶を共有したじゃないですか」
「あれが“記憶”ならね」
ゴールドがパソコンの画面に注視したまま補足を入れる。
「望む映像を見せる超常能力という可能性もあるだろ。あるいはアヌス02の科学力によるものか」
「大体、蕎麦屋の前で会ったときから怪しすぎるよ。急に消えるし、そのあと機械蜘蛛に襲われるし」
「確かに……」
「だから水原さんが3階に行ってすぐ、自分のスマホの電源を切っといたんだ。着信画面を見られないように」
イチコはスマホを取り出し、舞たちへ見えるよう画面をかざした。スイッチを押しこんで数秒してから、スマホが起動する。
(やらかした!)
舞は急に大きな罪悪感に襲われる。理由は自分でもわかっていた。
それは、相棒であるイチコを信じきれなかったこと。そもそも昨夜でも出社前にでも、マーシーについて話し合っておくべきだった。また、心のどこかでイチコがマサヨの帰還に浮かれていると誤解していた。実際は舞よりずっと冷静に状況を俯瞰していた。
いや。これも確かに理由だが、本質は別にある。
――嫉妬。マサヨに対する嫉妬だ。はっきり言って、マサヨはスペックだけなら舞よりずっと上だ。その点のみを考慮するなら、イチコの相棒にふさわしいのは彼女だろう。だから……怖かった。ようやく見つけたハイエースの助手席という居場所。相棒の座。事務所でのポジション。すべてが奪われ、追い出されそうな気がして怖かった。イチコを始めとして事務所の面々はクセが強すぎるが、舞をいきなり追放するような人間ではない。わかっている。わかっているからこそ余計に、舞は惨めだった。
イチコはぬーぼーをしまい終え、冷蔵庫を閉める。そして、独り言のように小さな声で話した。
「だから、私にもブルーたちのこと隠さないで欲しかったな」
「ごめんなさい。だ、だけど……!」
イチコに見透かされているようで、舞の心が過剰な防衛反応を示した。嫉妬の残りカスと、くだらないプライドが、舞に不要な言葉を口走らせてしまう。
「イチコさんだって、マサヨさんが怪しいって先に話してくれてもよかったじゃないですか!」
望んでないのに語気が強くなってしまった。イチコは驚いて目を見開いたあと、申し訳なさそうに頭を下げる。
「そうだね……ごめん」
「あっ、そんなんじゃ……」
会話は途絶え、外から通行人のヒールの音だけが聞こえてくる。
(最悪だ。私、今までで一番……)
余計なことをするのは舞の悪癖というか呪いであったが、ここまで空気を悪くさせたことは初めてだ。舞のハートはすっかり米粒サイズに潰れていた。
「そういや、あのぬーぼーの応募券をハガキで送ったら“おとぼけぬーぼー”貰えんのかな?」
ゴールドが空気を読んでか読まずか、沈黙を破る。
同様に空気を読んでか読まずか、珊瑚が答える。
「貰えるわけないでしょ。異世界のお菓子ですよ」
「まあ、うん、わかってるけどさあ……」
「あ、スミマセン」
ついに全員が完全沈黙した。その後、珊瑚が全員分のJリーグカレーを温めてくれた。会話は一切なかったが「いただきます」と「ごちそうさまでした」だけは全員で口を揃えた。舞はかろうじてイチコたちとの絆を感じられ、ラモス瑠偉に感謝した。
つづく。