自分探しするぐらいなら、友達とピエトロでも食べてこい
意識高い系の中ではどれぐらい自己分析とやらが重要視されてるのだろうか。自己分析として自分の強みや弱みを理解し、それを就職やらゲームに利用しようとすること自体は好きにしたらいいと思う。ただ「自分のやりたいことはなんだろうか」という悩みに時間を取られ過ぎなのではないかという疑問がある。自分自身、自分探しをしたことがないわけではない。それにこれから僕が主張する話を聞いても、今があなたにとって自分探しがしたい時期なのなら止めることはできない。人は一度経験してみないと本当に納得はできないものだ。
早速なぜ自分探しに意味がないのかを説明していく。単刀直入に言うと、本当の自分とやらはまず無いというのがとりあえずの結論である。勿論結果的に自分のやりたいことは存在する。アニメを観たい、筋トレをしたい、旅行に行きたい。これらは確かに自分のやりたいことで間違いないはずだ。だが、ここで主張したいのは自分から湧き出るやりたいことなんて存在しないという話だ。例えば想像して欲しい。地球上にたった一人しか人間が存在していなかったとする。そのたった一人の人間は容姿に気を遣うだろうか。弁が立つことを誇りに思うだろうか。恐らくそんなことはどうでもよくて、ただ生き残ることが最優先だろう。つまり人間は初めからお金が欲しいとか、出世したいとか、綺麗でいたいというような欲望を宿しているわけじゃない。
人は人の欲望を模倣する。端的に言えばそういう性質があると考えられる。本来の自分がお金持ちになりたいとは思っていない。けれど、誰かはお金持ち羨ましいなと思っている。だから自分もそれを目標にする。そういう欲望のすり替えが起こっているとする。じゃあなぜお金持ち羨ましいなと考える人が出てくるのか。それは人の作り出した文明及び社会の構造にある。本来の人間は別にお金を求めているわけでは無い。ただ人間が作り出した構造的にお金はかなり都合がいい。だから後天的に望まれる。その漠然とした社会的な欲望を個人が引き受けることで欲望のすり替えが起こっていると説明できる。
今やりたいことを探そうとしている人がいたとする。その人がどんなに自分を分析しようが、本当の意味でこれしかないんだという宿命に結び付けられた目標なんか出てくるはずがない。あったとしても徐々に意味づけしていくことで、それがなんかようわからんけど大事だと思い込んでいるに過ぎない。そんな形のない自分の欲望を探したって時間の無駄ではないか。だったら本当にやりたいことかは分からないが、義務付けられている(教育、勤労、納税)に自分なりに意味を見出していったほうがよっぽど現実的に思える。
ただ何故か人は納得のいく自分の欲望を探してしまう。その理由は恐らく、なんらかの強制力が弱いからだろう。例えば、仕事が辛いと思っていても、いざ職場で働くとやるしかないという気持ちになって覚悟が決まるあの現象。あれは環境的に仕方がないというので人は悩まずに作業に取り組むことができるのだ。それと同じで自分主体のやりたいことが見つからない人は、やらなければいけない目標を据えなければいけないほどそもそも困っていない。
やりたいことが見つからないあなたはまず劣等感や経済力に余地がある。困っていない。それは悪いことなのだろうか。なにかから目を背けるために努力しなければいけない人間がいる中で、あなたは本当にやりたいことを見つけて努力しなければいけないほど不満があるのだろうか。そんな自分探しとやらに時間を使うぐらいなら、今いる友達とピエトロにでも行ってパスタを食べたり、雑談に耽ったりすることの方がよっぽど有意義なのではないか。