記憶のリブート 第十一話
美希は恒雄の記憶をなくして一人暮らしをしている。
転職もして、営業の仕事に就いた。
週末はキャリアアップセミナーに通い、難関資格を取得した。
過去のSNSを見る限り、恋愛依存症で恋やパートナーに振り回されっぱなしだった。しかも男運も悪い。
美希は、これからは仕事を生きがいにして生きていくと決心した。
親を早くになくし、兄弟もいない。いざというときに頼れる人はいないが、順風満帆な今はそんなことはお構いなしだった。今目の前にあるプロジェクトを成功させる方がよっぽど楽しく、充実していた。
ある日、カフェである男に声をかけられた。
「美希さん、美希さん」振り向くと男が歯茎を見せて笑った。「元気してた? ずっと連絡取れずに心配してたよ」
「失礼ですが、どなたですか?」
「美希さん?恒雄だよ。いや、忘れたってことないよね?」
「恒雄…さん? ごめんなさい、人違いだと思います」
美希は冷静を装いながらも、味わったことのない胸の高揚を感じていた。
「ちょっといい?」
その男は美希の前の席に座った。
「え、あの、困ります。その、仕事中で」
「大事なことなんだ。話したらすぐ帰るから聞いて。美希さんと僕は1年半前まで付き合ってたんだ。それが急に消えちゃったんだ。連絡も取れないし、心配したよ。そりゃ、僕も悪かったよ。AIのののかちゃんにぞっこんになって周りが見えなくなってた。だがらごめん、やり直そう」
「あの、だから、人違いじゃないですか」美希はそう言いながら恒雄という男から目を離せなかった。ニキビ跡のある頬とメガネの奥の一重でちょっと三白眼な目。歯並びだけはキレイなこの男に美希は吸い寄せられていくのを必死に堪えていた。
「美希さん、勘弁して。もうののかちゃんとは別れたから戻ってきれくれないか。そうだ、左手の薬指に火傷跡があったね」
美希はサッと左手を隠した。
「左手、見せて」
美希が恐る恐る手を出すと、左手の薬指の傷を調べた。
「ほら、あった」
「これ、覚えてない?」
「火傷。ああ、猫飼ってて、カップラーメンこぼした時の」
「そこは覚えてんだ。その猫、僕と一緒に住んでた時の猫のマーくん」
恒雄はスマホを見せた。
確かに三毛猫のマー君の写真だった。
「マー君、懐かしい」
「ほら、思い出してきた? 美希さんと一緒に撮った写真もあるよ」
美希は怖くなった。
目の前の知らない男が自分のことを知っている。写真を見たらもう引き返せない。
「こめんなさい、失礼します」
美希は小走りでカフェを出た。
「待って」
「そういえば、詩織から聞いたけど、手術したって。大丈夫だった? ずっと心配してたんだよ。その後遺症か何かで僕の記憶なくしちゃったの?」
美希はハッとした。
過去の男を忘れるために手術を受けたんだった。
この男のことを忘れようとしたのか。
「もう恋なんかしないで1人で生きていくと決めたの」
「そんな。僕は美希さんのことずっと好きです」「美希さんのもの、全部残してあるから、いつでも戻ってきてくださいね」
「これ、僕の連絡先。あとこっちが住所。立退命令でも出なければずっとここにいるから」
恒雄は泣いてるのか笑っているのかわからない細い目で去っていった。
美希の心はドキュンドキュンと矢で射られっぱなしだった。どうしてこんな男に。でも、また会いたい。
こんな気持ち初めてだった。
仕事が手につかない。
その日の12時に思い切ってメールしてみた。
美希:先ほどは失礼な態度でごめんなさい。もう一度お会いしてお話ししたいです
すぐに返信が来た。
恒雄:美希さんも色々とあったんだと思います。急に詰め寄ってすみませんでした。今週の土曜日どうですか?
美希:大丈夫です
恒雄:今日あったカフェで
(第十二話に続く)