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劇評「コペンハーゲン」(01年07年再演)作:マイケル・フレイン

映画『オッペンハイマー』は、米国が原爆をつくった話しだが、この芝居は、核分裂の話題が欧州にあって、その実現が可能かどうか、科学者の腹の探り合いを描いたものだ。一種の推理小説的魅力を持った戯曲で、マイケル・フレインの傑作である。

僕は、これを01年と07年、二回見ている。
二つの劇評を並べて掲げるのは、この芝居の面白さを伝えたい一心からである。

劇評「コペンハーゲン」2001年新国立劇場

島次郎の装置が秀逸である。円形の舞台の周りを、土星のつばの様に、前方にやや傾斜した、幅一メートルほどの「輪」がぐるりと囲んでいる。これは部屋の中と外の庭または散歩道を表しているのだが、同時に原子核とその周りを回る電子の軌道、すなわち全体として原子の構造を表現している。量子論のボーアとその妻、共同研究者のハイゼンベルクの三人が登場する「場」として象徴的である。

さらに、ハイゼンベルクがコペンハーゲンのボーアのもとを訪ねた理由が判然としないため、時々話が堂々めぐりになるという物語の進行を視覚的に表してもいる。

この装置は単なる背景ではない。明らかに俳優の身体とともに、芝居に参加している。その抽象性のおかげで観客は、想像の幅を広げることができ、ノーベル賞科学者二人の会話も難解ながらそれなりに納得がいくものになった。

この装置は、最初、美術の島が“硬質な原子力発電所”のイメージを提案したが,演出の鵜山は“古い小学校の教室の温もりを感じさせるボーア研究所”という正反対の設定を念頭に置いていたようだ。(パンフレットより)島らしい発想であり、鵜山の演出意図も理解できる。その後どういう経緯でここまでポリシュアップされたのかはわからないが、この明らかな飛躍によって、芝居の完成度を確実に高めることができた。演劇が多数のアーティストのコラボレートで成り立っていることの証拠でもある。

それにしても、「コペンハーゲン」とは何と魅力的なタイトルだろう。ヨーロッパの辺境といえばデンマークに失礼だが、ユーラシア大陸の我が辺境からみてもなおエキゾティックで、秘密めいた雰囲気を感じる街の名である。1941年10月のある日、そこで何があったのか?冒頭、既に亡くなっている人間たちが、その日を思い出して語り始める、という意表をつく設定によって、僕たちは、すんなりとこのなぞ解きの話の中に入ってしまう。

マイケル・フレインは、難しい量子力学の用語〈主要な解説はパンフレットに記載されている〉を正確に使いながら、観客がそれについての知識がなくても、十分に理解できる物語を注意深くつむぎだした。しかも、そこにはいくつもの問題提起が重なっていて、それらに思いをはせる知的な楽しみも感じさせてくれるのである。

1920年代にコペンハーゲン大学で量子論を唱えるボーアのもとへ集まった若い研究者のうちの一人、ハイゼンベルグは、ドイツへ帰ってナチに協力する科学者となっていた。1941年10月には、デンマークは既にドイツに占領され、ユダヤ人科学者たちを助けたボーアにもナチの手は迫っていた。このころ、アインシュタインの相対性理論、ボーアらの量子力学を根拠として、核分裂エネルギーを利用した高性能爆弾の可能性が指摘され、両陣営とも強い関心を寄せていた。しかし、理論的にはできても、実際に製造し実用化するのは困難である。

こうした時代状況のもとに、ハイゼンベルグがボーアのもとを訪れる、というのがこの芝居の設定である。ハイゼンベルグは、科学者として原子爆弾製造についてボーアの意見を聞こうとしているのだが、ボーアは彼の真意を計りかねている。 ハイゼンベルグは、このときのことを回想録「部分と全体」のなかで言及している。(パンフレットに抜粋が掲載されている。)これによると、要約しすぎかもしれないが、彼は、ボーアに一言だけ「開発は膨大な金と長い時間がかかる。」といって欲しかったように僕には思える。

当然マイケル・フレインは、このことを知っていた。一方のボーアにこの訪問を回顧した記録があるかどうか僕にはわからないが、劇作家は、少なくともハイゼンベルグの気持ちを知りながら、せりふは奥歯に物の挟まったような遠回しな言い方を、計算ずくで書くことができた、と思う。無論ボーアの対応は、おのずから「真意を計りかねている」態度に決まってくるというわけである。したがって、この芝居は、最初に考えたように、訪問の謎を作家が推理して解き明かし、観客がそれによってカタルシスを得るという構造にはなっていない。

ではなぜ、この難解とも思える会話劇が魅力的なのだろうか?

20年代の自由な空気のもとで同じ研究テーマを論じて、ノーベル賞という成果をあげた科学者が、いまや対立する国家陣営に別れて、腹の探り合いまでしなければならないという運命の皮肉、その悲劇性(それを強調するためにも登場人物として妻マルグレーテが必要だった。)、それがこの芝居のベースになっていると思う。

そして、原子爆弾!この科学者にとって、もっとも深刻な問題を巡って、41年当時どんな議論が可能だったのか?そして、実際に製造され、使われたことに対する科学者の責任!を、その製造原理を提供したものとしてどのように受け止めたのか? そして量子論である。 アイザック・ニュートンが「プリンキピア」で表した原理は、原子物理の世界には通用しない。これは、衝撃的であった。物理学を超えていっさいの現象の根本原理と思われていたものが、絶対ではなくなったのである。 特に不確定性原理は、Observe するものとObserve される対象の相関的なあり方を指摘して、存在の絶対性、規定性を否定する。つまり観察しようとすれば、対象は観察するものの影響を受けて、もともとの状態から変化するのである。これは哲学における「主観性」、「存在」の考え方にも影を落とすほど、思惟することの枠組みを変えた。

マイケル・フレインは、この会話劇を通じて、不確定性原理の実験を行った?のではないだろうか、と僕は考えている。上演台本がないからいちいち指摘することはできないが、そのぐらいの芸を仕込める才能だと思う。つまり。真意に迫ろうとすれば、逃げ、引けばまた追うといった駆け引きが、不確定性の陰喩になっている、というのは考えすぎだろうか?

さて、俳優陣はどうか? 江守徹は、ウォーミングアップを十分こなしてリングに上がったボクサーのように、始めからテンションを上げて登場する俳優である。量子力学の難解な用語は、その意味を理解していなければ空々しく聞こえてしまうものだが、専門家を招いてかなり学習したようで、当たり前だが、不自然さはなかった。 ハイゼンベルグの今井朋彦は、スロースターターと言えばいいのか、最初の元気のなさが気にかかった。ドイツの原子物理学を背負っているという自信がもう少し表現されたほうがいい。文学座の先輩に食われそうだった。 新井純は貫録である。しかし、普通の主婦にしては、少し表情が暗すぎるのではないか?

僕は、この芝居が的確なキャスティングを得たと思っていない。ハイゼンベルグをもっとアクの強い、存在感のある役者で、マルグレーテを知的な優しさを備えた女優でやったら、また別の味わいが出るのではないかと考えている。

劇評「コペンハーゲン」2007年新国立劇場

前回の劇評で、
まず、第一に舞台装置に感激したことを書いている。真ん中の円をドーナツ状の少し傾いだ円が囲んでいて原子の構造モデルのようであり、原子炉のようでもあり、テーマである量子力学の世界を端的に表現していると思った。今回も同じ造作を使っている。


鵜山仁は、1920年代初頭にコペンハーゲンのニールス・ボーアのもとへ集まった世界の俊才たちが、理論物理の議論を交わした木造の教室をイメージしていたらしい。今回、島次郎の発想がいかに素晴らしかったか再確認した。

シアタートーク(3/7午後5時)で分かった事だが、鵜山仁はスタッフの提案にあまり抵抗しないタイプの演出家らしい。

衣裳のスーツに所々しみがついていたり、汚れていたのは初演の時と同じだが、これは緒方規矩子の提案だったという。つまり、戦時下という事や三人がすでに亡くなっているという意味を表現したかった(のではないか)といっている。

また、照明のプランについても、舞台を後ろから見ていると服部 基が何を考えていたかわかって、なるほどと納得した事があるともいっていた。栗山民也ならこういういい方はしない。おそらく徹底した議論の結果を舞台に表現する、つまり演出家の意向が隅々に行き渡っていてそれが何故かは自分で説明出来るという態度になるはずだ。佐藤信や串田和美のように、装置・美術は自分でやるという演出家もいる。それに比べると鵜山仁は、スタッフを信頼している、あるいはスタッフを指名する事がすべてだといえばいいのか、もっともあっさりとこだわりのないタイプの演出家であるらしい。こういうものは、いい悪いではない、「タイプ」の問題であるだけだ。


さて、この芝居は初演の英国においてはいうに及ばず、米国でのトニー賞授賞をはじめ、少し遅れて上

演された我が国においても数々の賞に輝いた名作である。

量子力学の難解な理論や物理学用語の応酬が続く長いせりふ劇にもかかわらず、極めて幅広い支持を集めたのは、なんといっても謎解きで牽引する物語の面白さであった。

1941年9月の終わり、ドイツの物理学者ハイゼンベルクはナチ占領下のコペンハーゲンにいる恩師ニールス・ボーアのもとを訪ねている。何故、何のために?あの輝かしい20年代の核物理学の、量子力学の黎明期を指導者と研究者として送った二人は、今や第三帝国に協力する大学教授と、ナチに監視されるユダヤ系の科学者として対立する立場にあった。


そしてこの時期、原子爆弾の開発という重要な課題をドイツ、連合国ともに抱えていて、二人はその実現の鍵を握っていたのである。しかも、ユダヤ人の強制収容所送りはデンマークでも始まろうとしており、ボーアにもその危険がせまっていた。

円形の舞台を高い壁が取り囲んでいて、やや下手寄りに大きめの窓のような矩形の空間が開いている。その四角く切り取られた空間の後ろに一方の壁が回り込んで、奥の暗闇がどこかへつながっているように見える。


「あの日何故ハイゼンベルクはコペンハーゲンにやってきたのか?」


明かりがはいると、ボーア(村井国夫)と妻のマルグレーテ(新井純)が、若き日の天才ハイゼンベルク(今井明彦)との交流について語っている。彼らはすでにこの世にはいない。ボーアの相補性理論からハイゼンベルクの不確定性原理、それらを補完するさまざまな共同研究は、1927年、ハイゼンベルクがデンマークを去った後も続いていた。ビジネスでいうなら会長と社長、ファミリービジネスなら父と子のように。やがて、ナチが政権につくと、それもままならず二人のあいだは次第に疎遠になっていた。


そして、あの日を境に二人の友情は終わったと、マルグレーテが言う。散歩から帰ったニールスがあれほど腹を立てたのを見た事がなかったほどだと妻がいうと、ボーアは「いや私は冷静だった」ときりかえす。

ハイゼンベルクは、自分のコペンハーゲン行きについては、これまで何度も説明してきたが、その理由をだれも理解していないという。説明すればするほど自分自身にとっても曖昧に、不確定性が深まっていった。我々はすでに亡くなっていて、だれに迷惑をかける事も、だれを傷つける事もない、いま、あの日をもう一度試して見る事が出来るなら有り難い、とハイゼンベルクはいう。


「記憶とは、不思議な日記のようなものだ」とボーア。「ページを開くと、気の利いた見出しやまとまった書きつけが現れては消えていく。・・・ページを通してその頃の日々へ飛び込んでいく。・・・頭の中で、過去が現在になる。」

このせりふの末尾に重なって、ピューという甲高い汽笛の音とともに舞台は暗くなる。あの矩形に開いた空間から大量の水蒸気が噴き出すと、ドッドッと機関車の力強い音、それが次第に遠ざかっていく。逆光の白い煙の中からコペンハーゲン駅頭に立つハイゼンベルクが現れる。あの原子模型のような舞台の中に螺旋状の暗闇から矩形の窓を通して打ち込まれた一個の中性子のように・・・。こうして回想のなかの回想劇は始まるのである。


プロローグの素早く問題の核心へ誘い込む明晰性といい、本論への劇的な場面の切り替えといい、鵜山仁は実に鮮やかな演出手法を見せてくれた。


僕は初演を見た後、ボーアにしてもハイゼンベルクにしても戦後長く生きたのだから、1941年のこの日、何が話されたのか、何があったのか明らかにするチャンスがあったはずだと思った。たしかに盗聴器が仕掛けられたボーアの家を避けて、ふたりは散歩に出たのだったからマルグレーテにもその内容は分からなかった。当人同士にしか話せないことでも時間が経てばどこかから漏れてくる。


しかし、あとでハイゼンベルクのエッセー「部分と全体」を拾い読みしたが、それらしいところには出会わなかった。マイケル・フレインに従えば、ボーアに、この日の事に言及したものはなにも残されていない。さまざまな人々がそれを推定し、作者もそれを参照したが、ハイゼンベルクのせりふにある通り「だれもなにも理解していない」ということらしい。ただし、マルグレーテはこの日ハイゼンベルクを家に招じ入れる事に反対しており、政治に言及しない事を厳重に約束させて、いやいや承知したことがわかっている。彼女は後に公然とハイゼンベルクの傲慢さを批難し、彼への敵意があった事を明らかにしている。彼女もまたユダヤ人であった。(Dr.watermanの指摘で訂正)

原子核の回りを回転する電子の雲の中からその正確な位置を割り出すことは出来ないように、二人から繰り出される仮説は新たな仮説を生み、核心に迫ろうとするが、真相は再び闇の中に消えるのである。量子力学が、なにも原子の内側の出来事に限定されているだけでなく、人間の営みにも機能しているという比喩は、なるほどと知的な興奮を呼ぶものであった。


話は自分たちが切り開いた理論物理学の目覚ましい深化のあとをたどり、実験物理のオットー・ハーンとリーゼ・マイトナーが1938年に発見した原子核分裂に至る。

彼らは、ウランの原子核に中性子を一個足して、別の原子を作り出そうとしていた。重い原子核は陽子、中性子の数が多く構造上不安定(陽子はプラスの電気を帯びているために互いに斥力が働いている)である。そこへ中性子を加えようとしたら、原子核は二つに分裂してクリプトンとバリウムになってしまったのだ。この時、高速の中性子と高いエネルギーが放出されるのが確認された。原爆の基本原理が発見されたのだ。

果たして原子爆弾は製造可能なのか?その方法は?研究は、どの国がどの程度まで進んでいるのか?1941年はオットー・ハーンらが核分裂を発見してから僅か三年後である。


そのころ日本では、ボーア研究所から帰った理研の仁科芳雄が海軍の要請を受けて、サイクロトロンを使って実験を繰り返し、貴重なウラン鉱石から僅かに含まれるウラン235を分離抽出する作業を続けていた。しかし、いつ完成するという見通しが立たないままヒロシマ・ナガサキで打ちのめされ、終戦を迎えるのである。

そもそも、この1941年の訪問が何故問題かといえば、かつて師弟関係の、当時は敵対する陣営に分かれていた核物理の科学者がそこで何を話したかは、重要な歴史の証言に成り得るからだ。という事は、彼らの生前には、複雑に利害が交錯する関係者や関係国が多くて、発言も回想も直ちに騒ぎを起こしてしまう恐れがあった。

ハイゼンベルクは、科学者として敗戦の弁明をせざるを得なかったが、そのなかでも、この会見の核心部分について触れてはいない。そしてボーアはいっさいの発言を封じている。


第一幕のなかで、ハイゼンベルクは「一物理学者に原子力エネルギーの実践的活用を研究する道徳上の権

利はあるか」とボーアに問いかけたとある。ボーアは原爆について言及していると思ったらしく、それにはなにも応えなかった。しかし、ハイゼンベルクは原子炉の事を指していたつもりだった。原子炉でより核分裂しやすいプルトニウムが生成することについて話したかったのだが、ボーアはなにも覚えていなかった。頭の中で原爆が炸裂したのだ。

彼らは第二幕で、再びあの会見を最初からやり直そうとする。核心の部分、最深奥部に話はさしかかる。

その時点から時が進んで、彼らが何故ドイツは原子爆弾を手にできなかったかについて話す場面がある。


原爆に必要なウラン235の臨界質量をハイゼンベルクが実際よりも多く見積もっていた誤りをボーアが「拡散方程式」を解かなかったためと指摘すると、平然とそれは知っていたという。ハイゼンベルクは、実はオットー・ハーンに原子爆弾の製造理論を話していたというのだが、肝心の臨界質量を実現不能と思われる高い数値と考えていた。しかもそれは僅かな間違いだったと強弁する。そう思い込む事によってハイゼンベルク自身が意図的に原爆の製造を困難にしようとしたかのような印象をうける。


つまり、あの日ハイゼンベルクが計算を誤っていたことに気付いたボーアが、それを指摘「しなかった」ことは、ナチに原爆を渡さないということよりも、ハイゼンベルクへの好意だったのではないかというのである。一方、ハイゼンベルクは、それをボーアが指摘「しなかった」ことに感謝し、この会見のいわば成果ではなかったかと思っている。

ドイツの敗戦が濃厚になった頃、北海に面した片田舎に疎開したハイゼンベルクたちがやっていたのは、小さな原子炉の模型のようなものを使って細々と実験していたこと、しかも肝心の制御棒も放射能を遮る装置もなしに、である。ボーアにいわせると、メルトダウンという事さえ知らなかったのではないか?と散々であるが、ハイゼンベルクは結果としてドイツが原爆を持たなかった事を誇りに思っているといった。

果たして真相はそのとおりだったのか?それもまた不確定性の闇の中に消えていく。

ボーアは、1943年の夏のある夜、レジスタンスに導かれ、釣り船に乗ってエーレスンド海峡を渡った。対岸のスウェーデンに亡命したのだ。この時、ヒトラーの命令が下って収容所送りにされる筈だったデンマークの8千人のユダヤ人が一斉に街から消えた。教会や、病院や、田舎の小屋に身を隠したのであった。

ゲオルグ・ダックウィッツ、ドイツ大使館の船舶輸送担当者で、彼は命令が出たその日のうちに避難の指示を出すと、ストックホルムに亡命者の受け入れを要請し、二艘の大型船で大半のユダヤ人を逃がし

たのである。

ハイゼンベルクは、このダックウィッツのことを41年のときにボーアに話していると劇では描いている。おそらく、いざとなったらこの男に連絡するようにいったのだろう。43年の時はすでに関係がなくなっていたというが、ボーアの亡命に手を貸そうとしていた事はどうやら事実のようだ。41年の訪問のもう一つの理由が浮かび上がってくる。


マルグレーテの見解は辛辣である。ハイゼンベルクが若い時分から大学教授の椅子を狙う野心家で、今やドイツでもっとも若い教授、最先端の科学を担う第一人者として成功している姿を見せたかったのに違いないという。しかも、ドイツに、第三帝国に協力する科学者として。

そういう面があったかどうかは分からないが、敗戦前夜のハイゼンベルクにそんな余裕はみじんもない。


いよいよとなって、ハイゼンベルクは捕まる前に家族に会おうとして交通手段のなくなったドイツを自転車で横断する。昼は空襲を避けて茂みに隠れ、夜の道を走る。あちこちで、やけになった親衛隊が脱走兵狩りをしている。

ある夜、一人のゲシュタポに呼び止められ、ピストルを突きつけられた。自分で書いた移動証明書は暗くて見えない。「脱走兵め!」という声がもれた。必死でポケットにあった「ラッキーストライク」を渡して難を逃れたが、生き残れたのはホンの偶然だったと述懐する。

「廃虚と化し、陵辱された、わが愛する祖国」


ハイゼンベルクは何度もつぶやく。

しかし僕には、この言葉は広島と長崎に重なる。

米国がロスアラモスであと三ヶ月早く原子爆弾を開発していたら・・・。亡命したユダヤ人科学者たちが、ドイツが手を上げる前に原子爆弾を完成させていたら・・・。ドイツのどこかの街が実際に焼き払われ、「陵辱され、廃虚と化して」いただろうか?

ボーアは、プルトニウム型原子爆弾の起爆装置にヒントを与えた。多かれ少なかれ、あのコペンハーゲンに集まった量子力学の俊才たちは、一瞬にして大量の人類を焼き殺す最終兵器を生み出す事に手を貸した。

あの日問い掛けようとした「一物理学者に原子力エネルギーの実践的活用を研究する道徳上の権利があるか」について、終幕近く、ハイゼンベルクは「量子倫理学」ともいうべきものが必要になるのではないかといっている。

何れにせよ、ヒロシマ・ナガサキは、ボーアやアインシュタインをはじめそれにかかわった多くの科学者の心の傷となった。

物語は、不確定性の霧の中に迷い込むようにして終わりを告げる。

村井国夫のニールス・ボーアは江守徹に負けず劣らず適役だった。

マルグレーテの新井純は、前回は全体に暗く、その役回りも曖昧ではっきりしなかったが、今度はそれと正反対に演じた、と思った。それほど印象が変った。ボーアとハイゼンベルクの「衝突」をオブザーブする観察者としての役回りが、この劇には欠かせなかった事がよく分かった。

今井明彦も一段と解釈が進んでいるように感じた。今回の方が格段に出来がよかった。


劇評を書くに当たって、あれも書いておきたい、これにも言及したいと思いあふれて、話が重複したり、あちこち行ってしまっていることを恐れている。


それは、とりもなおさず相補性理論と不確定性原理に寄り添って書かれたこの物語の強い磁場に影響されたせいに他ならない。


01年


題名:「コペンハーゲン」

観劇日:01/11/9       

劇場:新国立劇場   

主催:新国立劇場   

期間:2001/10/26~11/18/      

作:マイケル・フレイン       

翻訳:平川大作     

演出:鵜山仁          

美術:島次郎             

照明:服部基            

衣装:緒方規矩子            

音楽:高橋巌 

出演者:新井純  江守徹  今井明彦

07年

タイトル:コペンハーゲン(再演)

観劇日:2007年3月2日

劇場:新国立劇場

主催:Company

期間:2007年3月1日~3月18日

作:マイケル・フレイン

原作/翻訳:平川大作

演出:鵜山 仁

美術:島 次郎

照明:服部 基

衣装:緒方規矩子

音楽:高橋 巖

出演:村井国夫  新井 純  今井朋彦