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萱野稔人「国家とはなにか」を読んで考えたこと

冒頭の記述は、こうである。

「国家というのは、いかにもとらえがたいもののように見える。」

我々老人にとって「国家」が捉えがたいものに見えると言う感覚は、いかにも理解しがたいものに思える。

というのも、戦後、繰り返してきた不毛な議論の中核にあったのは、結局この「国家」および「国家と個人」との関係をめぐる見解の相違だったからだ。

かなりおおざっぱに言えば、まず、天皇とその臣民で構成される共同体こそ日本国家であり、その中で個人は国家のために殉じるべきであるとする考え方は、幼児に教育勅語を暗唱させる幼稚園が存在することに驚いたむきもあるが、しかし、いまでもこれに心を寄せる国会議員はじめ支持者が少なからずいることは確かである。
それに対して、主権は個人である国民にあるとする日本国憲法こそ国家の根拠だとする考え方で、これはいわゆる民主的な護憲派と言われる一群の人々に代表される。
これらに対してマルクス主義者の見解は、国家というものは 資本主義を維持する中心装置として、いずれは克服または止揚されるべきものになる。

コンセンサスが見いだせないという意味では「いかにもとらえがたい」ものといってもいいが、そういう近代化以来の「国家とはなにか」という議論がまるでなかったかのように、この若者にとっては「あっけらかん」と「国家」はとらえがたいのである。

この本は、かなり前に新進気鋭の哲学学者が現れたという噂を耳にして、長い間気になっていたが、ついこの間ラッキーなことに通りがかった古本屋の前の平台の上で見つけて手に入れたものだ。

以前、「国家」について我々のそれまでの認識をあらためるべきだと書いたことがあって、最近それを人に説明する必要が生じたので、ついでに、若い人はどう考えているのか確かめておこうと思い、本棚から取りだしたのだ。

まずその感想からはじめよう。
次に、別の本の感想も加えて、あらためて僕の「国家とはなにか」を考えてみたいと思う。
とりあえず先へ進もう。

「国家と呼ばれる対象が、目の前に転がっているわけではない。目に見えるものとしてあるのは、せいぜい政府の建物とか、国家を象徴する旗とか、地図の上に書かれた国境線とか、そういったものだ。国家そのものの概念があるわけではない。」
著者は、国家とはなにか?国家などいうものが何故存在しているのか。そもそも国家というものが存在しているのはどういうことなのか、それを考えたいといっている。

ここで僕などは思ってしまうのだが、そうはいっても、すでに国家が存在している以上はその存在理由を追及すべきではないか、そこから帰納法的に「国家」が何故存在するに至ったかが明らかになるのでは?と思うが、それでは答えにならないらしい。そういう経験科学的アプローチでは「国家」そのものをとらえることが出来ない。国家を概念的に考察し、その根本にまで遡って、統一的な視座から理論化することがこの本のめざすところという。

ただし、不思議なことだが、何故彼が「国家」について考察する必要性を痛感したかについては一言も触れられていない。例えば、「国家」に痛烈にいじめられた経験をあきらかにするとか、あるいは戦前・戦後的「国家」論に終止符を打つとか、あるいはマルクス主義の国家観に有効な反論を唱えるなんてことはないのである。

動機は不明ながら「国家とはなにかをトータルに把握しようとするならば、そこにはやはり「概念(たぶんその後の文脈から仏語の”Conception”のことだろう)」の働きが不可欠だ、という。

その根拠は、ドゥルーズ=ガタリにあるという。

「概念に携わるのはまさに哲学の仕事であり哲学とは概念の創造にほかならない。より厳密に言うなら、哲学は、概念を創造することを本領とする学問分野である。・・・・・・
哲学とは、いくつかの概念を形成したり、考案したり、製作したりする技術である」(ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ『哲学とはなにか』財津理訳、河出書房新社10頁)

なるほど、哲学は「概念を創造する」ことだから「国家とはなにか」をテーマに自分が概念を創造するのは一つの哲学行為だ、と言うのである。

つまり、ドゥルーズ=ガタリが、こうした方法の保証人になっているといいたいのであろう。あるいは概念を『創造』するのは哲学者だけが出来る特権だというのか、いずれにしても、ここでは「哲学とは・・・・・・技術である。」という認識が土台になっていることを宣言しているのである。

そしてまた唐突になんの根拠も引用もなしにこう続けられる。

「国家についていえば、しばしば次のように問われてきた。それは実体なのか、それとも人々の間にうち立てられる関係なのか、と。
しかし、国家は実体でもなければ関係でもない。ではなんなのか。さしあたってこう言っておこう。国家は一つの運動である、暴力にかかわる運動である、と。」

こういう言い方をされると、思わず反論が頭に浮かぶ。
「運動」と言う概念が「実体」でないなら、では、何なのか? 暴力はふるうものとふるわれるものとの「関係」が前提ではないのか?
そんな「哲学的な」半畳を入れたくもなる。

いくらドゥルーズ=ガタリ先生が、哲学は概念を扱う職人みたいなものといわれたからといって、こう、杜撰なもの言いになっては如何と思うのだが。

ところで「哲学は概念を扱う学問」なのは、とりあえず、否定できない事実である。だが、しかし、ドゥルーズ=ガタリが書いている『哲学とは、いくつかの概念を形成したり、考案したり、製作したりする技術である』という言葉はかなりの程度、違和感を覚えるものだ。その承服しかねる感覚がどういうことか、「国家とはなにか」の本論に入る前に、寄り道になるが、いくつか確認しておこうと思う・・・・・・。

違和感というのは、もしも哲学がある種の概念を製作する技術だいうのなら、哲学とは、画家や彫刻家や音楽家、小説家その他大勢の表現者の表象=芸術作品と同じようなものになりはしないか、ということである。(ドゥルーズ=ガタリは、事実そのようなものとの近似性を認めている。)

デカルトの製作した概念≪コギト≫、ライプニッツの製作した概念≪モナド≫、ベルクソンの≪持続≫、古くはアリストテレスの≪実体≫は、あるいは・・・・・・の概念は、広く鑑賞に耐えうる芸術作品として認められ、その価値と普遍性は確保できていると言う具合である。そのような静態的な作品として、例えばヘーゲルの創成した『概念』の体系は美しい、などと、哲学を鑑賞する態度があっても一向にかまわないが、たとえ哲学者と芸術家の営為はおなじだといっても、しかし、哲学はそのような場所、美術館や博物館に鎮座してペダンティック趣味の観客を待っているわけではない。
哲学が生み出す概念には、人々を突き動かし、現実に働きかけて世界の仕組みを変えうるという芸術作品を遙かに超えた現実的な力がある。
なぜか?
人には、そのようなものとして期待できるのが哲学以外にないからである。
人は何故哲学を求めるのか、と言う問いにいいかえてもいい。

それには、どうにでも応えられそうだが、とりあえずドゥルーズ=ガタリの周辺で目につくミシェル・フーコーから引用しよう。

「啓蒙とはなにか?」(カント)という問いを発したとき、カントが言わんとしたのは、「たった今進行しつつあることは何なのか、我々の身に何が起ころうとしているのか、この世界、この時代、我々が生きているまさにこの瞬間は、一体何であるのか?」と言うことであった。我々は何者なのか・・・・・・歴史の特定の瞬間において。(フーコー、「主体と権力」)
また、ポール・ゴーギャンが、タヒチで描いた大作につけたタイトル、≪我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか≫ を例に挙げてもいい。生涯不遇であったにもかかわらず、この腹の足しにもならない主題が、まもなく異郷で終焉を迎える画家の心の重要な場所を占めていたのである。

また、ついこの間、トマ・ピケティの高級レストランの一皿分の値段もする、食べたら大してうまくもなかった大冊があれほどの勢いで売れたのも、いま黄昏を迎えているはずの資本主義が、やがてどんな暗い夜とまたどんな輝かしい夜明けを迎えるべきなのか知りたかった人々が想像以上の数存在したからに他ならない。

哲学は、こうしたいつの時代にも誰にでも生じる、ある根源的な問いに答えを求めようとする人の営為であり、数学や物理学、他の芸術と違って、それが言葉でなされるために概念的にならざるを得ないのである。

しかし、こんなあたりまえのことをドゥルーズ=ガタリが知らないはずはない。

一体、何故彼ら二人は、人が生きることの本源的な問いに哲学の動因があることを差し置いて、『概念を創作する技術』などという「手段」が哲学の本領だというのだろうか。

想像するに、二つのことが考えられる。
まず一つは、ギリシャからはじまる哲学の歴史が、ここに至って、やるべきことをやり尽くしたと感じていることである。
ポストモダンを貫く一つの気分、「大きな物語の終焉」とは、おおまかにいえば、ある言説の普遍性は誰も保証できないし、その言説すらも絶えず再―構築を迫られ、結果、正しいことはなくなり、人は常に決断から逃走し続ける他ないということを意味した。これが我が国バブル時代の風潮とシンクロしたことに記憶のあるムキもいるに違いない。
哲学など何の役に立つものか? 
つまり、「哲学? あんなものはただの屁理屈に過ぎない。」
ということで、目的を見失った以上、その手段だけを磨くはめになった。
なんのために「国家」の概念を構築するかはもはやどうでもよくて、「国家」の概念を構築する技を磨くと言う思弁の職人になることが哲学に残された役割になってしまったのだ。

もうひとつは、『概念を創作する技術』が他にもあって、それと哲学の扱う「概念」を峻別し、哲学の役割と領域を確保する必要があった、と言うことである。

僕が感じた「違和感」というのは、実はもうひとつあって、『概念=Conception』と言う言葉が「哲学」と並列に表現されていることにあった。『概念=Conception』は、哲学にとって重要な部分であるが、それは一つの静態的な枠組み(つまり、○○の概念規定など)を表現しているに過ぎない。概念は哲学の部分であるが、思想の運動としての全体がその中に矮小化されるべきものではない。つまり、ベルクソンの<持続>は結果として概念なのであって、それを導き出し構築する思想の運動にこそ哲学の本質的価値があるのであって、『哲学』とコンセプトが併記されることには、実に居心地が悪い思いがするのである。

ここで、僕は、はじめて『概念=Conception』を「コンセプト」と表記したが、この二つは外来語のカタカナ表記とその翻訳だからそこになんの問題もない。ところが、この「コンセプト」と言う言葉は、コピーライターやアートディレクターはじめカタカナ職業が大繁盛したバブルのころから、哲学とは関係のない実業の世界で使われてきたものだ。つまり、「コンセプト」はむしろ商品やサービスを販売する技術に関係するマーケティング(僕が人生の大半をかかわってきた)用語であった。

なんと、ドゥルーズ=ガタリは、このことを気にしていたのである。

「国家とはなにか」の著者が引用した部分のあとに、ドゥルーズ=ガタリが感じている資本主義の侵食に曝される哲学への危機感が存分に表現されている。

「・・・・・・さらにわたしたちの時代に近くなると、哲学は多くの新しい対抗者と交差するようになった。何よりもまず哲学に取って代わろうとした人間諸科学であり、とりわけ社会学であった。ところが哲学は、概念を創造するという己の使命を次第に理解出来なくなり、<普遍>の中に逃避してしまったので、何が問われるべきか、もはやよく分からなくなっていたのである。・・・・・・次に対抗者になるのは、科学認識論(Épistémologie)の番であった。そればかりでなく、言語学に、あるいは精神分析にさえ番が回り―――さらには論理分析にも番が回ってきたのである。
最期には、情報科学、マーケティング、デザイン、広告など、コミュニケーションのすべての分野が、「概念=コンセプト」という言葉そのものを奪い取って、『それは、われわれの問題だ、創造的人間とはわれわれのことだ、われわれこそコンセプトゥール(Concepteur=概念立案者)だ!』と言いだし、恥辱はどん底ににまで達したのである。」

この呪詛のような文脈は、さらに続く。

「われわれが概念をわれわれのコンピュータにインプットしてやる。情報と創造性、概念と企業、そうした問題に関してはすでに詳しい文献目録がある・・・・・・。マーケティングは、(もちろん哲学の場合とは異なる)概念(コンセプト)と出来事(イベント、催し)とのある種の関係の理念を保持することにはなった。しかし、その場合、見よ、概念は、(歴史、科学、芸術、セックス、実際的用途などに関する)産物や製品の紹介の総体に成り下がってしまい、出来事は、そうした様々な紹介を演出する展示会や、その展示会で発生すると見なされている「アイディア交換」に成り下がってしまったのである。
出来事は展示会でしかなく、概念は売ることの出来る製品でしかない。<批判>をセールスプロモーションに置き換える一般的な運動は、哲学に悪影響を及ぼさずにおかなかった。一束の麺類の模造(シミュラークル)あるいはそのシミュレーションが、真の概念になってしまい、製品や商品や芸術作品の紹介者―展示者が、哲学者や概念的人物や芸術家になってしまったのである。」(「哲学とはなにか」財津理訳、P19 )

シミュレーションとシミュラークルは、われわれの消費社会ではあらゆる商品が情報メディアのネットワーク上で意味を漂白され記号と化し、その結果、現実との関係が逆転して、現実世界自体が記号化されてしまったという認識である。これは周知のようにジャン・ボードリアールの「製作した概念」であるが、ここにさりげなく取り上げているのは、おそらくその象徴である「ハイパーリアル」な世界を半ば肯定しながら、この一種のニヒリズムと対抗していこうとする姿勢がうかがえる。
何故ニヒリズムかといえば、労働者が自然に働きかけて生産する商品が単なる模造であるという、この思想はマルクスの労働疎外論を(デリダの口まねをして言えば)「脱―構築」してしまうからである。
それでなくても、マーケティングにおけるコンセプトが、新しい需要を際限なくつくり出し永遠に成長を続けるのでは、資本主義は終わらないことを意味しているではないか。

「国家とはなにか」の著者が引用した「哲学は概念を創作する技術」と言うドゥーズ=ガタリの言葉には、現代社会における哲学の意味と役割をもう一度哲学固有の場所に復権させるという決意がこめられていたのである。

とはいえ、商品や芸術作品の紹介者が、哲学者や芸術家になってしまったからといって、彼ら Concepteur が現代の哲学的課題を解決できるわけではない。哲学的課題とは、「概念=コンセプト」を創作するなどと言う「たわごと」とは実は無縁である。
たとえ資本主義は永遠だろうが、それがまき散らす害毒まで永遠だというのでは地球上で安眠できる人間などいなくなるのは必定である。
「何故分配はうまくいかないのか」という課題一つ取ってみても、経済学者の誰がその答えを用意してくれるだろうか。それどころではない。今日、経済学を専攻するものの40%は、経済学に欺されないためにそれを学ぶと言う冗談が真顔で飛び交う時代である。また社会学者は見事な社会分析から病状を推量してみせてはくれるが、処方箋を書こうとまではしないものだ。
哲学には、だれもなにも期待してないからと言って、隠れてごそごそ「概念」を創っている場合ではないのではないかと僕などには思えるのである。

ドゥルーズ=ガタリの「哲学とはなにか」が扱うものは、最終的には知覚と脳の関係にまで及んでいるが、これ以上うんざりするほどのおしゃべり好きなフランス人につきあうのは本題から離れるのでここでやめる。

ただ、脳の話をするのであれば、これほど脳科学が発展し、脳科学者を自称する頭の良さそうな男女が増えた時代に「なぜ女の哲学者はいないのか?」という哲学史最大の謎に、この方面の知見を生かした「哲学」があったほうがなにかと社会の役に立つのではないかと密かに思っている。
この問題に取り組んだのは、僕の知る限り、偏屈を自称する中島義道ひとりだが、偏屈ゆえにどうも顰蹙を買って無視されているようなのは頗る残念である。

本題に戻ろう。著者にとって、「国家とはなにか。」と言うテーマは、「国家のコンセプトを創ること」においてのみ重要なのだということを確認した。つまり、著者は、マーケティング屋が「ある商品のコンセプトは○○だ。」と定義するような仕方で、国家のコンセプトを創造しようとしている「だけ」なのだ。

そして、いきなりその手がかりを提示する。

著者は「国家をどのように定義すべきか。」を考える上でまず参考になるのはマックス・ヴェーバーの仕事だという。

「近代国家の社会学的な定義は、結局は、国家を含めたすべての政治団体に固有な・特殊の手段、つまり物理的暴力の行使に着目してはじめて可能になる。」(「職業としての政治」ウェーバー)

ヴェーバーの社会学では「近代国家」に特徴的なものは「物理的暴力の行使」だという。
「国家とは、ある一定の領域の内部で――この「領域」という点が特徴なのだが――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。」(同書)

はじめから著者が「国家」はとらえがたく「概念」でとらえると盛んにいっているのは、実は、このマックス・ヴェーバーの説を取りだしてこれに検討を加えたかったからなのだ。
それなら分かる。
なにしろ、マックス・ヴェーバーと言う人は、現象つまり対象の属性あるいは表層をふるい落としてその本質に迫るという社会学的な方法論を確立しようとしていたわけだから「近代国家」の本質とはなにかを考える理由も動機もあったのだ。

西欧において近代資本主義が発達した理由を「概念」的に考え、その「本質」部分にカルバン派のプロテスタンティズムの禁欲的で勤勉な合理主義があったことを解き明かして、学問の方法論に新境地を開いたことは広く知られているが、それには顕在化しつつあった疎外の問題に臨むオルタナティブ(マルクス主義とは別の倫理的契機の関与)を用意するという意味があった。

ただし、我が国の初期資本主義の発展に何らかの宗教倫理が関わっているとはいえないように、それを資本主義の真理だとするには無理がある。それは一定の地域の経済活動や社会的事象のある側面を強調して、(あまりにもあざやかな手つきで)説明して見せたに過ぎない。この手法は、国家とは何かというテーマにも及ぶ。

二十世紀初頭の欧州の状況を見ると、ヴェーバーが、近代国家における「政治団体」や「職業政治家」「官僚」など国家を運営する機関について言及せざるを得なかった理由が明らかである。

1914年、サラエボ事件に端を発して欧州全体を巻き込んだ戦争は周知の通り史上最悪の殺戮と破壊と、絶望をもたらした。ヴェーバーのドイツは敗戦国として多大の賠償を背負い込むことになり、1917年のロシア帝国崩壊後の東欧の混乱にもにも巻き込まれ、ブレスト=リトフスク条約に見られるように、条約が守られる保証もなければ国家そのものが継続するかどうかも不明という政治的大混乱の時代を迎えていた。

近代国家の枠組みである憲法ができあがっていれば、「正当」な「権力=ドイツ語でゲヴァルト(暴力)」が何処に属しているか法律や裁判所が判定することが出来る。
ところが、そういう枠組み自体が崩壊し「暴力」装置を備えた様々な集団が「権力」を争っている状態にあってはどの集団が「暴力」への正当性をもっているのか分からない。当時のドイツ国内は、議会制民主主義こそが正当な権力形態だと主張する集団と、党組織と労働組合を基盤とする社会主義(革命をめざしている)こそが正当な権力形態だと主張する集団が実力で衝突していたほか、後にナチスとなる右翼系の集団(クーデターを計画)も台頭していた。

つまり、こうした状況では、より強力な暴力=ゲヴァルトによって相手を圧倒した側が、自ら獲得した「権力=ゲヴァルト」を正当化するために、自分に都合のいい「正当性」の基準を作り、それに従うことを他の集団に要求することになる。
近代国家という枠組みはあっても、実質は国家の内外でいわば戦国時代のような主導権争いがあり、そこには常に言論を超えた「暴力」への志向が存在し、しばしばそれは戦争へと発展した。
ヴェーバーが当時の「国家」の本質部分に、自己に「正当性」を与える「暴力」という契機を見いだしたのも無理からぬ状況だったということができよう。

こうしてヴェーバーは「ある一定の領域において、正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。」と国家を定義したのである。

暴力は社会の到る所に存在する。マフィアも日本の暴力団も暴力を行使する集団だ。しかし、それらの間で唯一暴力行使の独占を要求する集団が国家の中枢を形成し、他の集団を暴力の下に制する、それが国家だというのである。つまり、国家とは、他を圧倒する暴力によって自らの暴力を合法化し、それを一定の領域の人間に認めさせ、それを認める人々とでつくる共同体だと考えたのだ。

ところが、著者は、この認識では不十分だとして、もっと徹底的に議論を深化させる。
国家の暴力は「一定の領域内」で成立するのではなく、他の共同体にもその承認を要求することがある(国家間戦争)ことから「暴力の独占」そのものが「国家」の本質だとするのである。

さらに、その「暴力」は国家が自らの正当性を認証させるために脅しとして使う、つまり権力を行使する「手段」ではなく「暴力」そのものが国家の目的になると考え、国家とは「暴力」を中枢に抱える運動体だと議論を発展させるのである。

著者にとって「国家とは人間共同体がもつ政治機構である」というわれわれが通常理解している基本原理は建前に過ぎない。暴力を独占するものが他のものを「暴力」で支配していると言う構図が国家のほんとうの姿なのである。

一端ヴェーバーの定義を受け入れてから、古今の言説、アーレント批判やフーコーその他の議論を多数援用して説明するその徹底ぶりは、一冊の半分を使うほどに国家と暴力の関係を示して間然するところがない。

このような認識から、実際に現実世界をながめた場合、思い当たる節はあって、説得力は十分あるといってよい。

昭和八年二月二十日、東京築地警察の取調室で拷問を受けていた青年に国家とは何か、と訊ねたら、おそらく「国家とは暴力そのものである」と応えたに違いない。青年は殺されるが、下手人の毛利基や山県為三らはその罪で告発されることはなかった。国家は間違いなく合法的に人を殺せる機関あるいは装置あるいは権力であり、その意味では暴力を独占していたし、いま、その構図が変わったなどと安心していられる場合でもない。国家は、民に対していつでも牙をむくものなのだ。

大日本帝国は、治安維持法に基づいて共産主義者を弾圧したが、共産主義のソ連や中共、その他の東欧諸国、加えてポルポトなどが主導権争いで殺したのは膨大な数に上り、国家は確実に暴力を行使し、恐怖で人々を支配してきた。
また、ナチスがやったことやボスニア紛争のさ中に起きた虐殺をみれば、支配し統治する対象を消滅させると言う意味で、暴力が統治の手段ではなく、暴力自体が国家の目的になることさえあるともいえる。

こうして、国家は暴力を独占するものが暴力によって共同体を支配する一つの運動体だと結論づける著者の議論は、極論めいてはいるが否定すべきところはみつからない。これは「国家」のコンセプトを規定、いやもとい、製作すると言う意味において一つの見識だといってよい。

しかし、だからどうだというのか?

この「国家=暴力装置」というヴェーバーを徹底進化させた新論=コンセプトが製作されたからと言って、いまある「国家」の何が影響を受け、何が変わるというのか?
せいぜいマルクス主義における国家の止揚などは無意味だと言うくらいのものかも知れない。
これが一体、ホッブスの「万人による万人の闘争」=普遍闘争の概念、あるいはルソーの言う「自然状態」とまったく違うものというのであろうか。

ホッブスやルソーの近代国家を基礎づける政治原理こそ、まさに暴力が渦巻く、この万人の闘争状態あるいは自然状態を克服する方法論だったのではないか。
つまり、国家の概念を製作するという著者の営為は、単に、「近代国家論」成立の手前まで議論を戻したことになるのではないか。

人間の社会にはたしかに常に暴力が充ち満ちている。
動物の社会をみれば、その原理的な存在様態は、ある程度理解は出来る。
動物よりは多少ましな人間が、これを緩和するための知恵をめぐらしたのが「近代国家」であり、もしも「国家とはなにか」という哲学的な問いがあるとすれば、それは、概念を製作することではなく、まさに「近代国家」とは何かと問うことに他ならない。


近代国家の政治原理は、ルソーの「社会契約」その中の「一般意思」にその基礎がある。

著者が「国家とはなにか」というテーゼに答えを用意するべきはそこだったのである。

ただし、ルソーの「一般意思」は摩訶不思議な概念でもある。

各人の自然権を、一挙に一般意志を代表する政治権力へ委譲することによってのみそれは可能となる。またこの『原始契約』の想定だけが、実力を伴う政治権限、つまり政治権力の『正当性』を根拠づける。それが「一般意思」の概念である。

現実に存在するかどうかはともかく、それが存在することを前提として「近代国家」は原理的に成立している、そういうものが「一般意思」である。

この17世紀のルソーの「一般意思」を今に至ってようやくバージョンアップさせようという若い哲学者が現れた。


続いて、「一般意思2.0」を書いた東浩紀の仕事について紹介しながら哲学の可能性について考えてみたい。

つづく。

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上で、つづくと書いたが、時間が経って、考え直したので、そのことを以下に書いておくことにする。



9月に書いた『国家とはなにか』(萱野稔人)を読んで考えたこと」には続きがあるように書いてしまったが、あれからずいぶん間が開いてしまった。
ただ、もともと、あの論旨は飛躍しすぎでアップするのが不本意でもあった。と言うのも、本の批評になっていない上に、唐突にルソーから東浩紀の「一般意思2.0」を引っ張り出そうというのではいかにも乱暴に過ぎる。ドゥルーズ・ガタリの『哲学とはなにか』を引用して、あの『アンチ・オイディプス』の著者の意外に素朴で単純な一面を揶揄しているときだけ満足だったが、あとのことはほとんど上の空だった。
言い訳がましいが、半年以上前に加入した「囲碁・将棋チャネル」でしょっちゅう早碁棋戦を見ているなかで、書いたものだから、心ここにあらずで相当にせっかちなもの言いになってしまった。反省するコトしきりである。(いまや、囲碁番組は欠かせない習慣になっている。)

「一般意思2.0」に言及する前に、確かめておこうと彼のたぶん最初の論文「存在論的、郵便的」に目を通した。途中から恐ろしくややこしい論議になって読解するのに難儀したが、最終的にはジャック・デリダの「差異と反復」に同意しているわけではないことが分かって、さすが東のことだと思った。「差異と反復」ではただ袋小路に入り込むしかないではないか。デリダを取り上げるのは時代の趨勢ではあったが、その選択眼の勘の悪さは、指摘しておいてもいいだろう。ただし、ややこしい議論というのは、元になったデリダの書き方で、それに引きづられたのはやむを得ない。ドゥールーズとガタリもそうだが、むずかしく書けば有り難がると言う風潮は困ったもので、それもポストモダン思想の流行が沈静化すると同時におさまった。ついでに、「ものを考える」ということが世の中から消えてしまったような静けさで、聞こえてくるのは、先の見えない時代を前に周章狼狽しているささやきだけである。

「一般意思2.0」は、ルソーのそれをバージョンアップといっても、それほど厳密な議論をしているわけではない。が、考えるヒントにはなると思った。
ルソーの「一般意思」は摩訶不思議な概念で、たとえば、国民投票の結果を「一般意思」とは言えないと言うのだから、果たして実体があるのかどうか。しかし、ともかくそんなことは問えないのである。
東はパソコンを持ち歩く世代らしく、これを「ビッグデータ」が実体あらしめるものにするかも知れないと発想したのだ。なるほどAIを利用することで様々な問題解決の糸口くらいは見つけられる、かもしれない。
あたりまえと言えば言えるが面白い着想だと思って、「その2」で紹介しようと思ったのだ。

ところが、それも日が経つにつれて怪しくなった。
よく考えると「AI」も実は得体の知れないものではないか?
確かに、機器の進歩にはめざましいものがある。
プロの囲碁棋士にコンピュタ―が勝つには百年かかると言われていたが、ついこの間グーグルが開発したソフトが世界最強の棋士に勝った。四百年前からこれまでに残っている棋譜を機械に読み込んで、必勝パターンを計算するがそれでは時間がかかりすぎるので、ショートカットする方法を編み出して、時間を短縮した。将棋はもっと前にプロ棋士を抜いていて、この世界だけでも想像以上のスピードでAIは人間の能力に近づいていることが実感できる。2045年にはAIが人間の知能を追い越し、その先がどうなるかが「45年問題」と言って人間にとって新たな課題になっているらしい。

この間、新国立劇場「プライムたちの夜」(11/24)を見たが、これはAIロボットすなわちアンドロイドの話であった。
このときの僕のツイッター。
――夕べ、新国立劇場「プライムたちの夜」を見た。AIやアンドロイドは、所詮人間の慰みもの、おもちゃに過ぎないことを証明した馬鹿に甘い米国の戯曲。こんな高価な「おもちゃ」を持ったり高額な精神分析医にかかれない貧乏人の方がよほど幸福だと再認識させる。

「プライムたちの夜」(宮田慶子演出)。戯曲の「薄さ」に輪をかけた退屈な舞台。役者はそれぞれ頑張っていたが、なすすべもないと言った有様。もっとアンドロイドの薄気味悪さが強調されたら舞台に緊張感がただよってきたはず。演出が甘い。浅丘るり子は意外にうまい役者だった。香寿たつきの変わり身は見事。――

専門家に言わせると、現在のアンドロイドの知能は六歳程度らしいが、劇を見ていて、AI=機械に「感情」はあるのかとふと疑問に思った。ツイッターでいっている「薄気味悪さ」とは感情表現のことだが、感情は果たしてデータの集積と類推で外化出来る類のものか本源的な検証が必要ではないかと直感している。例えばさしあたりフロイト的な心理学を参照しながら感情表現を組み立てたとして、そんなものをまともに相手にはしたくないものだ。最近流行の脳科学にしても、感情を同じ位相でとらえたという話は聞いたことがない。

そもそも、AIがコンピュータ制御である以上、背後にプログラムあるいはアルゴリズムと言った言語、分節化した論理=疑似言語が存在する。それはどのようなコンセプトの元に書かれているのかが問われねばならないだろう。東も「翻訳機械が何故そのような翻訳をしたか説明できない」とかいって、AIの根本的な信憑性の問題を指摘しているようだが、「ビッグデータ」から取り出す「一般意思」の信頼性はともかく、トランプのようなあるいは金正恩のような政治家がおとなしくその結果に従うかは保証の限りではなかろう。
「45年問題」とスローガンばかりが先走りしていて、本当のところは明るみに出されていないのは「45年問題」の問題である。

いまさら「『国家とはなにか』(萱野稔人)を読んで考えたこと」に言及するのも妙な話とは思うが、あの構成は以下のようでなければならなかった。

*萱野は最初になんの前提もなく、「国家は実体でもなければ関係でもない。さしあたって、国家は一つの運動である、暴力にかかわる運動である」と定義した。これは有名な「国家とは暴力装置である」というマックス・ヴェーバーの議論に全面的に依拠している。

*「国家」をめぐる議論をこれほど単純な「概念」に仕立てるのは勝手だが、結局のところ、これでは暴力を行使するものと行使されるもののの二項対立がいつまで経っても解消されない。行使される側にいる圧倒的多数のわれわれにとって、この「暴力」にどう立ち向かうのかあるいはどう制御するかは「国家は暴力装置だ」という「概念」をうち立てるよりもはるかに重要な議論である。

*つまり、萱野の議論は、万人が万人の敵、自然状態の人間と先人たちが言ったあの時点へ戻したことと同じなのだ。

*そこで、いきなり「一般意思2.0」へ行くのではなく、一度カントからヘーゲルを参照すべきであった。「国家とはなにか」と問うならば、むしろ近代的な国家や法や道徳の論理が生まれ出る過程をこそを論じるべきだった。

そんなことが気になっていたが「その2」を書く気にもなれず、早碁を見る日々を過ごしていた。
そうして、あの、新国立劇場「プライムたちの夜」を見た日。早めに着いたのでオペラシティの本屋に立ち寄った。そこで、出版されたばかりの竹田青嗣 「欲望論」全二巻を発見したのだ。
二冊買ったら9,000円。高いし、持ち帰るには重い。そこで、持っていた図書カードに少し足して「欲望論 第一巻『意味の原理論』」を購入した。
翌日から読み出したらこれがとまらなくなった。まるで推理小説でも読むような勢いで700ページを一気に読んでしまった。
やったあ!
早くフランス語に翻訳してやったらいい。

木田元先生が「ハイデガーは人が悪い」と言っていた意味がよく分かるし、また、「反哲学史」は、反西欧哲学史のことだというのがここではそれが増幅されて確認できる。
竹田青嗣 、40年の集大成。これは、特にポストモダン思想に傾倒した比較的若いものたちにきっと読んでもらいたい一冊だ。
いま、「欲望論 第二巻『価値の原理論』」に取りかかっている。