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「取り残されたものたちへ」

これは、団塊の世代である自らに対するメッセージであり、もともとは、同じタイトルで、ブログに何回かに分けて載せた原稿です。2020年、ある文集(書籍になっている)をつくる際にまとめることになり、その中に『序』をつけて掲載したものです。


【投稿するにあたって】 令和二年春     中村 隆一郎

「取り残されたものたちへ」と「呉智英『吉本隆明という〈共同幻想〉』」が面白い」の二つは、僕のブログ「私の演劇時評」にそれぞれ二〇一九年と二〇一三年にアップロードしたものです。

この文集を本にする企画が提案されたその場に僕も同席していましたが、学生時代は、「ホンの隅っこで独立愚連隊をやっていただけで、そういう身分ではない」(「取り残されたものたちへ」の中でそのように述べました。)と思ったので、制作の手伝いにまわることにしてきました。弘前でのことと現在を結びつけて何かを書ける気がしなかったというのが本音だったように思います。
あれから何年か経って、ようやく締めきりと言う時期を迎えたいま、掲載済みのものでもいいからついでに君のも入れようと編集長が誘ってくれたので、枯れ木も山の賑わい、余白の埋め草にでもなればと思い、選んだものです。

選んだ理由を説明しておこうと思います。

「取り残されたものたちへ」は同じ時期に三回にわたって投稿したものですが、そのうち二つはこの文集に関わる内容になっています。
また、呉智英さんの本の感想は、七年前に掲載した長いもので、ブログという文の性格上、普段の出来事や感情も混じってやや雑然としていますが、我々の世代の多くが、時代から取り残されていると思ったことを指摘しているという点で前者と共通しています。

吉本隆明は、若かった僕らの世代の意識形成に大きな影響を与えた思想家でした。彼は、かつて軍国少年であった過去をあまり言わなかったけれど、人生の前に立ちはだかる「国家」というものに対峙した若い日の体験をてこに「戦後」をどう生きるか考えた人でした。その際、おそらくマルクス思想を一種の補助線に「国家」の正体を見極めようとしたのだと思います。

しかし、「戦後」は、国民を統制しなければならない外敵もなく、個人と対峙する「国家」も憲法によって消滅していました。
にもかかわらず、「戦後」という議論をリードした多くがこの世代の人々だったために、「国家」は「共同幻想」という語に象徴されるように極めて情緒的で曖昧な概念で捉えられ、あるいはマルクス思想によって、人民を支配する、いつかは揚棄されるべき権力装置とされ、周知のようにサヨクとウヨクが長きにわたって出口のない不毛な議論を繰り返してきました。
この影響をもろに受けたのが、我々の世代だということが言えます。

この間は、「国家」が、幻想だろうと情緒だろうと実際にはあまり問題がなかった。東西冷戦の時代、境界線として極めて強く機能し、意識されたのは一つだけで、とりわけ、高度成長を続けるこの時期に、我が国には「国家」とは何かを考える必然性は幸いなことにほとんどなかったからです。

九十年代に入って、ソ連邦の崩壊により、たがが外れたように、各国が自国のナショナリズムについて意識せざるを得なくなりました。我が国はすべての国境が海岸線であるため、これに鈍感だったともいえますが、東欧や中東、北アフリカにおける紛争や、アジアにおける中国の台頭などを見れば明らかなように、地球上は複雑な国境線によってモザイク状に分れていて、我が国もまたその中の一つである、というのが現実だったのです。

安彦さんは、この文集制作の「呼び掛け(諸兄へ)」の中で、冷戦終結について「出来ていなかつたのは、事態を受け入れる心の準備だけ」だったと書いていますが、あるいは、そのように過酷であった現実に出会って、途方に暮れていた我々世代の心性を代表していたのかも知れません。

同世代の批評家である加藤典洋さんは、なくなる少し前に、この事態を憂慮し、世界を平和思想で一つにまとめ上げるために我が国が、国連で指導的な役割を担うべきだと考えました。そのために自衛隊の一部を国連軍として差し出してもよいと主張しましたが、いかにも憲法論議を中心に据えた「戦後」的議論にかかわってきたひとの理想だったという気がします。

しかし、「国家」の起源に、フロイト的エロースないしリビドーの論理を持ち込むとか国連に過大な期待を寄せるとか、そうした考えは、「国家」というものの本質を見誤っているといわざるを得ない、そう思って書いたのがここに掲げた二つの文章でした。
ここからは、少し急いで説明します。

呉智英さんの本の感想の中に、やはり同世代の社会学者、橋爪大三郎さんの文を引用した箇所があります。
「ヘーゲルの弁証法は、まず意識からはじまります。対象意識があり、自己意識が生まれ、欲望の主体となって市民になる。そこでは、みんな、自分のことしか考えない。しかし、そういう市民が集まると市民同士の利害が矛盾し、その矛盾から、意識はさらに高次の段階に進んで——ここではホッブスに似ていますが——国家というものが出てきます。国家も、やはり意識のかたち、その高次なかたちなのです。・・・・・・」(「永遠の吉本隆明」)

ヘーゲルの前にドイツにはカントがいます。フランスにはデカルトがいてジャン・ジャック・ルソーがいました。
一九世紀に誕生した「近代国家」には、これら西欧の人々が、神という難敵と戦いながら「個人」の「自由および平等」という価値を至上のものとして確立するにいたる思想的営為が注ぎ込まれているという事実を忘れてはならない。それが、二つの文を通して、ぼくのいいたかったことです。

あえていえば、「国家」とは、デモクラシーを実現する装置であり、それを運営するシステムです。
しかし、その思想的根拠となる「一般意思」(ジャン・ジャック・ルソー)を形成する市民の相互承認は、残念ながら国民の外には及んでいないというのが現実です。昨今のEUをみても域内の相互承認さえむずかしいというこの原理の限界がわかります。

ここで、僕はアヘン戦争を伝え聞いた幕末の人々と、大急ぎで「近代国家」の意義とそのシステムを学び、からくも実現した明治人たちの心性に思いいたります。
その頃に比べて遥かに狭く、複雑になった地球のなかで、どのように身を処していくべきか考える時に、僕らの世代が無力であると見えるのは残念でなりません。

このあいだ、聞いた話です。
ニュージーランドの若い女性議員(二五才)が、議会で環境問題について演説をしていたとき、後ろから「三十年後のことは分からない」という意味のやじが飛びました。議員は、「オーケー、ブーマー」と事もなげに受け流したというのです。
この「オーケー、ブーマー」とは、「はい、はい、言っとけ!」くらいの意味で、世界的に通用している言葉だそうです。つまり、若者はベビーブーマーであるやじの主を「あなた方は相手にならない。ひっこんでて。」と鼻であしらったのです。
我々世代は、「無力」どころか、いつの間にか疎んじられ、あてにもされない存在になっていたのではないか。

再び、本の感想から引用して終わりにします。
加藤典洋さんの発言の中に、こういうのがありました。
「・・・面白いことに戦後からポストモダンへと枠組みが変わる中でも、生き延びたものがあります。それは、一つは資本主義の否定で、もう一つは国家に対する否定です。この二つが戦後のマルクス主義、そしてある意味ではそれに批判的だったポストモダンの中でも、不思議な形で、否定の対象として命脈を保ってきた。」

若かったあの時代に魅了された「革命」という言葉の内実は、この二つの否定でした。しかし、時代のテーマはもはやそんなところにはないのです。
いまでも「革命」という見果てぬ夢を抱き続けているとしたら、これほどむなしいことはないのではないか。

二つの文を選んだのは、そう思ったからでした。

おわり


加藤典洋「戦後入門」の無残


先日、このブログで「いま、若者たちの間で、団塊の世代は『時代に取り残されたもの』と囁かれている。」その代表例として、加藤典洋がこれまでの自身の集大成ともいうべき著書「戦後入門」(筑摩新書1146、2015年)で、自衛隊を国連に差し出すという提案をしていることをあげ、その時代認識のズレに愕然としたと書いた。

実は、今年(2018年)の七月に見た蓬莱竜太の自伝的作品「消えていくなら朝」(新国立劇場)の劇評を途中まで書いて、やめてしまっているのだが(近頃、根気が続かなくなった)、その中に登場する蓬莱の父親がちょうど僕らくらいの年代で、彼に言わせると団塊世代にありがちな、昔の自分にこだわるあまり「時代に取り残された男」と言うことになるらしい。

ずいぶん前から僕もそう思っていたからいい機会だと思って、そのことを劇評に盛り込もうと思っていたところだった。つまり、頭を切り換えないとつまらない人生になるよ!(といっても、今さら無駄か?)といいたいのだが、「消えていくなら朝」はカルト教信者の母親の凄まじい家庭破壊力から逃れた劇作家が20年ぶりに帰郷する話で父親の影は薄い。主題は時代に取り残されている父親とはまったく違うところにあって、これを入れるとピンぼけ批評になってしまうからどうしようか思案していた。

そんな時に、加藤典洋がとんでもないことをいっているのに気がついて、これこそ「時代に取り残された」団塊世代の典型と、べつに取り上げることにしたのである。

九〇年代に加藤と、湾岸戦争に反対する文化人との間で日本国憲法をめぐって論争があったことは、前回紹介した。
2015年の「戦後入門」は、世界大戦以来の歴史的背景からひもといて、戦後日本国憲法についてどんな議論があったかを網羅し、さらにこれからどうすべきか自身の見解を述べた大作である。

加藤の立場は「前書きに」こうある。

「戦争に敗れてから七十年も経って、なお戦後七十年と言うことが問題になるのは、その『戦後』が終わっていないからで、その明らかな証拠が、いま、沖縄の米軍基地を主権者である私たちが、自分たちの意向通りに動かせない事実として、わたしたちの前にある。
だから「日本の戦後について、それがどこからはじまり、どういう言う問題をはらみ、この戦後という空間から脱するのにどうすることが必要なのかについて、全方位的に考える事が重要である。」

つまり、加藤は「対米従属」と言うことを「戦後」ととらえており、戦後を終わらせるとは、米国の支配から完全に我が国の主権を回復させることにあると考えている。そのためには日本国憲法の精神である世界恒久平和を希求するという高邁な理想の実現をめざす国として世界の尊敬を集め、それをもってどこにも従属しない真の国家として自立する、というのである。その一環として自衛隊を国連の指揮下に差し出すというのが、簡単に言えばこの本の結論である。

むろん大賛成と思う人がいても不思議ではない。
例えば日本共産党の綱領の大半の項目は対米従属からの自立であり、半分は国家というものの棄揚(アウフヘーベン)を目途とするというものである。国家として自立したいものの、実現したらそれを廃棄するというのだから実は何をしたいのかよく分からない。自衛隊は憲法違反とするが、しかし、対米従属が嫌だという点では加藤とも右翼とも共通する認識だろう。よけいなお世話かもしれないが、日本共産党はこういう矛盾をこそ止揚すべきではないか。

加藤は、聖書にあるユダヤ人のバビロン捕囚が長引いたことで、ユダヤ人がバビロニア化した事例を取り上げ、このまま我が国の対米従属が続けば日本人のアメリカ化は避けられないと嘆く。あたかも純粋日本人なるものが存在していて、これがアメリカ化すれば純粋日本文化にとって困るとでも言いたいようだ。
人、モノ、金、情報がグローバルに行き交う時代に、こういうもの言いが、とてつもなく馬鹿馬鹿しいことに気づいていないのには呆れるほかない。

いうまでもなく、誰かに従属しているという状態は耐えがたいものである。なぜかを説明するのは省くが、人は誰でも自由であるべきだ。しかし、現実には様々なものに束縛されて生きている。自由とは、それが阻碍されて初めて意識されるものといってよい。重要なのは、それが何によって阻碍されているか、そして、それを取り除く方法はあるか、それが問われねばならないと言うことだ。

戦後が終わっていない動かぬ証拠として、沖縄の米軍基地を主権者である我が国の意向通りに動かせない事実をあげ、これが対米従属だという。
しかし、米国が主権者たる日本の意向に反して、勝手に基地を置き、それを運営しているという事実はない。米国との間には安全保障の基本条約以下細目に渡って契約が交わされており、基地のある土地は日本国のものであり、沖縄の地権者に対して地代も払われている。
基地を貸している相手が外国の軍隊だということは、機密に触れることがあり、両国間の地位協定など、厄介な問題は存在するが、双方に不都合なことがあれば、契約である以上話し合いで解決できるとしたものだ。

加藤が言っているのは、直近のことで、おそらく普天間基地の辺野古移転のことを指しているのだろうが、この問題を指して対米従属というのはどうもあたらない。
普天間は、住宅地の真ん中にあって、世界一危険な基地と言われ実際に事故が何度もあったのだが、ここが住宅地になったのは、基地が出来たあとそのまわりの空き地が宅地開発された結果であった。

それはともかく、この危険除去のために、日米協議の上、辺野古移転に決まり、沖縄県も賛成したことは周知である。問題をややこしくしたのは鳩山由紀夫だったが、政府が米国との間で移転の再交渉をすることはなかった。したがって、辺野古移転は日米双方了解済みの既定路線である。つまり、米国が、我が国の主権を無視してこれをごり押ししたと言うことではない。

「戦後」は、戦争に無条件降伏したという厳然たる事実から出発した。その後、主権を回復して何十年も経ったが、確かに占領下で決まったことがそのまま残っている場合もないわけではない。しかし、だからといって、現在の米国を相手に交渉してこの関係を改革できる道が閉ざされているわけではない。
江戸時代に結んだ不平等条約を改訂するために陸奥宗光らが費やした年月とロビー活動を思えば、この道を対米従属という言葉で短兵急に切って捨てるようなことは出来ない。

それにしても不思議なのは、加藤が指摘するような、誰かに従属しているという耐えがたい状況を日本人が戦後何十年も続けてこられるものなのかと言うことである。
加藤は、フィリピンが米軍基地を撤廃させられたのに、我が国政府はなぜ出来ないかというが、その理由ははっきりしている。非常に簡単に言えば、米軍に基地を提供していることは、プラスマイナスあっても、あるいはそれが対米従属であろうがなかろうが、最終的に国益にかなうと考えてきたからだ。

つまり、歴代我が国政府は加藤の意に反して、戦後のこの体制を是としてきたのだが、この意思決定は、我が国が民主主義国家である以上国民の意思だといってよい。加藤がこれを否定したいのは理解出来る。日本共産党も、かつてあった社会党もその他革新政党と呼ばれるたくさんの政治勢力も同じようなことを主張し、いまも言っているにもかかわらず、国民はそれを選択してこなかった。

なぜこういう政治状況を無視し、屁の突っ張りにもならなかった革新政党と同質の主張が出来るのかと言えば、それは加藤が自分は政治家ではなくて文芸評論家だと自覚しているせいだ。
文芸評論家とは主としてフィクションを扱うものである。

彼の『敗戦後論』を読んだときからの疑問というか違和感は、日本国憲法の成立過程、つまり「戦後」の出発点が「汚れ」「ねじれている」といって、それが、あたかも自分が経験したことのように、憲法を押しつけられた経験者の衣装を身にまとって見せる、ところであった。川村湊が、どうしたらこういう芸当ができるか不思議だと言った。

今度の『戦後入門』では、そのことを正直に書いている。

「これまで、自分のものを考える価値の基準を、戦争の死者の場所に置いてきた。戦前の価値の源泉が天皇だとすれば、戦後のそれは戦争の死者たちだと考えたからだ。しかし、戦争の死者というおもりを外して、いまを生きる普通の人の考え方、価値観を基本に考えないと現実的ではないのではないか。戦争を経験していない自分が経験した年長の人々と同じ所にいつまでもいるわけにいかない。そこで戦争がなくてもしっかりものを考えられるようにシフトチェンジすることにした。」

いやぁ、気づいてくれて良かったね。それにしても、自分が戦争を経験したもののようにふるまっていたとは。つまり、彼の論は借り物の土台の上に建てられたフィクションのような構築物だったのである。

つづいて、そのチェンジした立場から憲法九条については、こんな言い方になったという。
「まず九条の高邁な理念、理想的な側面は、非現実的と言われようと捨てられないと感じる。しかし、それは、戦争と切り離し、理念としてかけがえのないものでなければならない。」

九条と戦争を切り離したら、残るのは『世界の恒久平和』を祈念するというコンセプトだけになるはずだ。確かに理念としてかけがえのないものではある。
自分は戦争を経験しなかったのに、経験したふりしたので戦争に言及する資格はない。したがって、戦争を前提にしない、いわば絶対平和を願う理念については発言権があるとでもいいたいのか。
こうして、いよいよ絶対平和などと言う現実にはあり得ないようなフィクションの世界へ飛翔するのである。
そのフィクションを実現するために、自衛隊というウルトラ現実をあたかもそのフィクションの世界へ送りだそうというのが加藤の新しい提案なのである。

加藤が、国連に自衛隊を預けるという、当の国連とは何か?
近代国家は、国土と国民と法によって成り立っている。その根拠はジャン・ジャック・ルソーのいわゆる一般意思に仮託された国民の相互承認である。従って、主権者である国民は国家にその運営と法の執行を委ね、それに従う。法を犯したものは、当然定められた刑罰を受けねばならない。

では国連はどうか?
近代国家における一般意思と同じものが、つまり構成員の相互承認が一気にそこへ仮託されるような一般意思が国際社会の中で成立するかと言えば、それは現状不可能である。なぜなら、近代国家は必ず周辺をつくる事で成立しているからである。
国連は、一つの近代国家のように警察権や裁判権などの権能をもっていないため、取り締まることも裁判にかけることも獄につなぐことも出来ない。各国の利害調整を図る以上の権能を持っていないのである。
これを変えようとしても、例えば現状、人口14億人の中国と34万人のアイスランドが同じ1票の投票権であるが、中国とインドが一人1票を主張しはじめたら国連はこの二つの国によって支配されてしまう。どうやって調整するのか気が遠くなるというものだ。

国際連合にあたかも近代国家のような権能を与えることが出来ると考えるのは、およそナンセンスなのである。

一体、加藤典洋はこの七十年の間、何を考えて生きてきたのか。
戦後生まれでありながら、つまり戦前を経験しなければ『戦後』はあり得ないのに『戦後』とは何かと言うことにこだわり続けた。
それは自分の実感に基づかない、戦争経験者が語る議論のテーブルに背伸びしてついていたということになる。

格闘しなければならなかったのは、「戦後」ではなくて、『いま』であり『いまから先』であったはずなのに。

加藤にとって時間は、あの日からとまっていたのである。

僕は加藤と同世代だが、進駐軍の思い出が少しだけある。
たぶん、四、五才ごろのことだった。僕の家は従業員百二、三〇人が働く木材加工の工場をやっていたのだが、ある日の午後、大勢の職工たちが家の前に出ているのに気がついた。五十m程先に進駐軍のジープがとまっていて、カーキ色の軍服を着たGIハットの兵隊が四、五人たむろしているのが見えた。
あとで母親に聞いた話では、ジープが向かいの家の塀にぶつかって少し壊れたので弁償したいが留守だったため、どうしようか留まっていたらしい。職工の一人が「School Teacher」と応えていたのに田舎の町工場のことなのに驚いたと母がいっていたが、確かに向かいは校長先生の家であった。翌日もう一度やって来て謝罪と弁償を済ませたこともあとで聞いた。

これが米国というものの初めての経験で、悪い印象ではなかった。

いずれにせよ対米従属を言うのは簡単である。
しかし、主権を侵されているわけでもないのにそのように見えるのには理由があるだろう。それを様々な角度から検証して、問題をひとつひとつ取り除いていくということをしない限り、物事は実際にはじまらないし、変えることもできないものである。

(根気が無くなった。書き足りないがこの辺でひとまず、やめておく。)

加藤は、戦後で時間が止まったが、今度は冷戦終結で時間が止まった事例を紹介しよう。


安彦良和「革命とサブカル」の空虚


前回は、加藤典洋は「戦後」にとらわれるあまり、絶対平和などというフィクションの世界へ迷い込んで、時代からおおいに取り残されたことをいった。それはこの世代が自分の過去に縛られ、現実の変化と向き合うことをしなかった結果の、いまとなってはなんとも無残な姿であった。

今度取り上げるのは「革命とサブカル」(安彦良和、言視社、2018年)である。
ただし、今回はごく一部に言及するだけで、全体の批評は差し控えている。

実はこの本の成立過程を少しばかり知っているので、こういうものを書くのにはいささか複雑なものがあるのだが、ある必要があってあえて書くことにした。

この本の「はじめに」の中にこういう記述がある。

「数年前、病死した同学年の活動家氏を追悼して、有志が文集を出すと言うことになった。
その時、「追悼」というかたちに僕は違和感を持った。「追悼」、というだけで良いのかという、座りの悪い思いだった。
追悼、ではあの時代の巨きな意味が流されてしまう。人生を終えていく者に、よけいなざわめきはいらないという気持ちが、当然送る側の身には宿るからだ。しかし、それではあの時代の意味は聞こえない。
『諸兄へ』という所収の文章を僕が書いたのはそういう事情からだった。」

つまり、 この『諸兄へ』という文章は、追悼というだけでは満足できなかったので、あらためて、自分たちの思いを綴った「回想」を本としてだそうと、追悼文集に参加した者を含む学生時代の友人たちに呼びかけたものである。

実は、僕はくだんの「追悼の文集」を出そうと誘った有志の中の一人だった。
従って、「回想」を書こうと呼びかけられた一人ということになる。ただ、学生時代は運動といってもホンの端っこで独立愚連隊をやっていただけで、書くのもおこがましい身分であった。だから最初からギブアップし、「追悼の文集」でもそうしたように編集ソフトで制作だけ手伝う事にしたのである。

(この後、この本の成立に関係することなので2011年にデジタル出版された「追悼の文集」について説明しておきたかったのだが、関係者の了解を得ていないので、割愛することにする。)

ことわっておかねばならないが、この文は『諸兄へ』という呼び掛けの内容を検討するだけのもので、他のことは一切関係が無い。

まず、『諸兄へ』の全文を紹介しておこう。

諸兄ヘ
安彦良和

今年、二〇一四年の夏も過ぎた。
夏は戦争の語られる季節である。今年の短い夏も例外ではなかった。年老いた戦中派たちは、まるで往く夏を惜しむように彼等の戦争体験を語り、彼等の生きた時代を語り、語り部としての一夏を終ろうとしている。

もちろん、戦中派は夏にのみ昔日を語っているわけではない。それがあたかも夏の風物詩であるかのようなのはメディアがそう仕立てあげるからだ。が、そうであるにせよ、彼等世代の声を聴く季節はやはり夏がふさわしい。例えば、この文を書いている今日、九月十五日の新聞は李香蘭の死を告げている。老いた語り部達の年齢層に見合う九十四才という歳で、彼女は夏に死んだ。感慨を覚えざるを得ない。

いつたい、戦中派達はいつごろから時代体験を語りだしたのだろう。
戦中派、といえば我々の父・母の世代である。当然、我々とは濃い接触があつたし、父母ならずとも、子供時分から我々の周りには、戦争期をくぐってきた大人達が多勢いた。しかし、我々は果して彼等から大量の体験情報が発せられるのを聞いてきただろうか。

そうだつた、とは言えない。圧倒的な数の体験者たちと、過去のどのような時代をも圧倒する、まさに、世界と国家との存亡を左右するような過酷な時代情況を考えるならば、彼等世代の子供であつた我々が見聞きしてきた情報は信じがたいほどに少量だったと言い得るのではないか。

間違いなく、我々の父母は、戦中派は寡黙だったのだ。その寡黙な殻を破って、もはや少数になって老いた体験者たちが多弁になっている。老いてやっと今、語り部の任をかつて出ようとしている。僕にはそう思える。
時を経て、歴史や体験が「風化する」とされる俗言を僕は好まない。むしろ、一定以上の時を経てこそ体験は発酵し、酒や、味噌・醤油のようにして「歴史」になるのではないか。そう思っている。

近い例を引く。
三年前の災害は記憶に新しいが、新しいなりに早くも「風化」が懸念されている。確かに記憶の鮮度は相当に落ちたが、それは「風化」とは違うものだ。外傷の痛みが失せて傷口にかさぶたが出来るようなもので、それは人間の持つ、謂わば自衛本能の一種の顕れではないのか。

逆に、話題の『吉田調書』の一端などから、大津波の惹き起したあの原発事故が、実は「東日本の壊滅」をも招きかねない規模のものであつたことを、今、我々は知り得ている。知り得て、あらためて体験の重大さにおののくのである。「歴史」とは、そのようにして生き残り、選択され、重みを増した事々の堆積物を言うのではないか。

再び、体験者や当事者達が間もなく消え行こうとしている「戦争」に話を戻す。
我々世代はかつて『戦争を知らない子供達』と呼ばれ、そう自称もした。が、そのことにひけ目を感じてはいなかつた。我々の生まれる直前に終結し、従って我々が直接には知らない「戦争」は父母の世代や、それよりさらに以前の祖父母の世代が犯した間違いの産物であり、それにかかわりを持たない自分達は父母や、祖父母たちよりも純な優越性をすら持っている一一―そう思っていたのではないか。

「戦争を知らない子供達サ」という無邪気な自称と開き直りには、そういう自惚れがこめられていた。そういう「子供達」の一人であつた僕自身にも、はっきりそういう自惚れがあつた。父母とは違う、祖父母のように蒙味でもない。そういう、今にして思えば思いあがった確信のもとに、僕は思春期を終えて「社会的に生きる」青春期を選んだ。諸兄も多くそのようであつたのではないか。

なんのことはない。戦後、わずか二十数年という経年では戦後史は熟成し得る筈もなかったのだ。それだけの話だ。
父母は依然として口をつぐむか、余りにも巨きかつた体験の重さに呆然としており、戦後という時代の層は、いまだ時代と呼べる厚みを獲得していなかった。しかし、我々は戦争以前という忌まわしい過去と幸いにも切れている自分たちの時代をいかにも過信していた。『戦後民主主義』という旧左翼的にリベラルな物言いに生理的な違和感は覚えつつも、やはり自分達には旧い世代を凌駕し得る能力があると思い込んでいた、のではないか。
そういう思い込みの是非を問おうとは思わない。元来若気とは思いあがりと表裏一体だし、青臭さを気にし過ぎているような若者は若者ですらないからだ。

だが、当時そういう若者であつた我々も、それから四十数年を生きた。薄かつた戦後史にも厚みが加わり、ようやくそれは歴史と呼びうる質量に達し、熟成に似た経年変化を示しつつあるように思える。

我々もまた、語るべきことを語り始めるべきではないのか。いや、それよりも以前に、語るべきなにものを我々が持っているか、そのことについて考え、来し方をふり返ってみる時が来ているのではないか。そう思って僕は数年前から或る提案をし、今こうして、甚だ遅きに失したような文章を書いている。

思えば、我々の世代も寡黙だった。
我々に名づけられた様々な世代名の中から『全共闘世代』というひとつを取り出して今後自称するなら、それに対応し、先行した「六十年安保世代」に比しても、我々はほとんど何らの発言もせずにここまで来たと言っていい。この沈黙は何を意味するのか。

もちろん、無邪気な若者を相手に「オジサンも昔は一」などと他愛のない与太話をする必要はない。そういう「告白」を好み、既に散々口を汚してきたような人たちは、もともとこれを書いている相手として念頭にない。

僕なりの結論を言ってしまうなら、『全共闘世代』の沈黙を、僕は概ね肯定的に考えている。それは、我々の体験の空疎さではなく、むしろ、重さ、巨きさの証しだと考えている。
もちろん、先に述べた父母の世代、『戦中派世代』の体験の実体的な重さには、それは比すべくもない。実体的、ということでいえば、戦中派に続く所謂『焼け跡・闇市派』の体験の重さにも、それは遠く及ばないだろう。何しろ我々は空腹を記憶していない。空襲の恐怖も、死と隣り合わせの引き揚げ体験もない。それらの痛切な体験を持たぬことを、『戦争を知らない』という居直りで以って「引け目なし」と清算したのが、先に言ったように我々世代のアイデンティティそのものであるからだ。

父母や小父、小母の世代を『戦中派』として区別し、兄や姉達の世代を『60年安保世代』として「もう古いのだ」と切って捨てた我々は、では何を見、何を希み、何を目指して生きていこうとしていたのか。そして、そういう志向がその後、どういう事情でどうなったのか。僕は僕自身の人生の中で、切れ切れにではあれそれを僕なりに考えてきた。僕が今これを書きつつ念頭に置いている諸兄も、それは同様であると思う。

諸兄と僕の人生は弘前での四年間でのみ交わる。60余年の人生のうちでの、わずか四年間、である。しかし、僕はそれを短い、限定されたものとは思わない。すでに我々の世代の呼び名を『全共闘世代』として選びとつた時点で、僕は同世代のイメージの核に、数十人の弘前の群像を据えてしまっている。「諸兄」とは、その中の、僕ごときの提案に対して聞く耳を持ってくれる人を指している。

更に私的な結論を云う。
諸兄と僕の人生が交わった弘前での四年間と、それに前後する「あの時代」は巨大な時代だった。弘前には無論空襲もなく、飢餓もなく、殺し合いも激しい争いもなかったが、世界には戦争があり、「革命」があり、史上空前といっていい全世界的な若者運動があった。

そうした大きなうねりとの一体感こそが、言ってしまえば『60年安保闘争』との根本的な違いとして無条件に我々が是認した要素だった。しかし、巨大な時代の、巨大なうねりの中に位置づけたにしては、我々の運動と呼べるものはなんと小さなものだったことか。

個別『弘大闘争』なるもののみをイメージして言っているのではない。我々をも翻弄した東大闘争や全国全共闘運動、ベトナム反戦運動や成田。三沢闘争の反基地闘争、青砥。植垣氏をはじめとする数名を巻き込んだ『連合赤軍事件』等々、あの時代の、諸々の運動や事件のすべてを統合したとしても、過ぎた20世紀で最大の事件は何だったかと問われれば、僕は『ロシア革命』だったと答える。それでは二番目の事件は?と問われれば『ソ連邦の崩壊』と答える。
はたして「巨大な時代」は、当時すでに予感することが可能だった大変化を20数年後に全世界にもたらす。言うまでもない。社会主義側の完全敗北による冷戦終結、である。

過ぎた二十世紀で最大の事件は何だったかと問われれば、僕は『ロシア革命』だったと答える。それでは二番目の事件は?と問われれば『ソ連邦の崩壊』と答える。
先の『革命』の方は見間できなかったが、のちの大事件『崩壊』の様は世界中にテレビ配信され、僕もそれを連日お茶の間のテレビで観た。

意外、ではなかつた。『ベルリンの壁崩壊』でさえ予想外ではなかつた。「巨きな時代」の中での「小さな闘争」を通じて、既に一つの時代の終わりは予想出来ていたからだ。出来ていなかつたのは、事態を受け入れる心の準備だけで、その準備も、弘前を出て上京した当時の空っぽの寂寞感を思えばなんということもなかつた。

私見に走りすぎたかもしれない。が、僕は諸兄の反論や異論を期待しつつ敢えて結論めいた発言をしている。要するに、諸兄を挑発している。
寡黙であつた諸兄に発語を促したいからだ。現役世代から徐々に降りつつあるとはいえまだまだ若い我々が「老いた語り部」を気取る必要はない。が、しかし、「語りJは一朝一夕でなるものでもない。二〇年後、三〇年後の検証や取捨選択のためにも、今、この時点での語りは、多種多様、かつ広範であった方がいい。
人は皆一回きりの人生を生きるしかない。しかも、その生きる時期や場所を、誰も、長い歴史や広い世界の中から好きに選び取ることはできない。ならばその一回きりの人生の後処理をおろそかにしてはなるまい。ふり返り、位置づけ、時代とともに検証してみてはどうか。
僣越を承知で、敢えて諸兄に問うものである。

< 2014年 9月15日>

この文の大半は、安彦良和の大げさに言えば歴史観である。
しかも、それはあまり重要ではない。

ある出来事は、一定の時間が経たないとその意味するところはわからないものだということを繰り返し述べている。
「時を経て、歴史や体験が「風化する」とされる俗言を僕は好まない。」「体験は発酵し、酒や、味噌・醤油のようにして「歴史」になる」などという俗諺にも感情的で問題はあるが、殆ど意味の無い戦前と戦後の世代間の違いをいうなど、同じことを全体の四分の三も費やして執拗にくりかえす必要があったのだろうか。

この点、一言だけ言っておくが、歴史とは記憶と記録である。記憶は一代限りで消えていくものだ。これを比喩的に言って、風化という。風化させない方法は物語として伝承するしかない。最も重要なのは「記録」することである。デモクラシーを維持し守護する根幹はアーカイブにある。これは、主としてソーシャルサイエンスに分類される歴史。
百歩譲って、発酵して酒や味噌や醤油になる歴史があるとすれば、それは歴史小説や叙事詩のようなヒューマンアーツに属する歴史と言うことだろう。

またこうも言える。
出来事は時が経つにつれ、その周辺が視野に入り、周辺との関係が明らかになるかどうかは別にして、次第にそのパースペクティブの中に収まっていくものだ。歴史は過去に遡行すればするほど視野が広がるが、細部は見えなくなっていくものでもある。

この文の前半は、そのようにして、自分が経験したことの意味を問い、いまとの関係を確認しようと言う呼び掛けだと受け止めることができる。

そして次に、個人的な心境を語る。
安彦良和にとって、そのパースペクティブに収まっている風景はロシア革命とソ連の崩壊だという。

「過ぎた20世紀で最大の事件は何だったかと問われれば、僕は『ロシア革命』だったと答える。それでは二番目の事件は?と問われれば『ソ連邦の崩壊』と答える。」

加藤典洋は、自分の経験したこともない「戦前」を土台に、いわば砂上の楼閣を築いたが、「戦前」よりも遥かに縁遠い「ロシア革命」を自己の思想の原点とするのは一種異様な風景とも言える。

この「巨きな時代」は、当時あった戦争や「革命」、史上空前の全世界的な若者運動や諸々の運動や事件のすべてを包含する大きさだったという。
「巨きな時代」は、あるいはポストモダン思想が「大きな物語」が有効だった時代といったことを指しているのかも知れない。
そのことと「弘前での四年間と、それに前後する「あの時代」は巨大な時代だった。」というフレーズがどういう関係なのか少し論理的にあやしいところもあるが、とりあえず彼にとってソ連の崩壊は直近の大事件だったことが分かる。

ただし、これは二十年も前から予測が出来たことだという。

ところが、次のフレーズはこの文の中でも最も不思議な記述として目にとまる。

「出来ていなかつたのは、事態を受け入れる心の準備だけで、その準備も、弘前を出て上京した当時の空っぽの寂寞感を思えばなんということもなかつた。」

予測したら、予測通りになった場合にどう対処するかをあらかじめ考えるのはごく普通の態度ではないか。これは予測通りになったらうろたえていることを意味している。
あるいは「社会主義側の完全敗北」を認めたくないということなのか。
ここでは「心の準備」がどういうことか、うかがい知ることは出来ない。

しかし、そんなことよりも、「大事件」と強調しているソ連の崩壊に較べて「弘前を出て上京した当時の空っぽの寂寞感」のほうが、自分の経験としてはるかに強く心に残っているというのである。

恐ろしく感情の量の多い饒舌な文章であるが、そんな中にたったひとこと、ここに本音がこぼれていたのである。
彼は、「空っぽの寂寞感」を弘前に置いてきてしまったのだ。
あの時代は、自分にとって何であったのか?
自分がしたことは何であったのか?

あのときの自分を知るものたちとの「聞き書き」をはじめたのは、その空っぽの寂寞感を「あの時代の(あったはずの)巨きな意味」で埋め合わせようとするものだったのである。
一方、ソ連崩壊後すでに三十年になるが、それについての言及はない。あたかも時間がそこで止まっているかのように見えるのである。
安彦には、二つの空虚があるらしい。

さて、これは「寡黙であつた諸兄に発語を促したいから」書いたものである。
しかし、「二〇年後、三〇年後の検証や取捨選択のためにも」とか「ふり返り、位置づけ、時代とともに検証」とか、この文を読んで何を書けば「回想」文集にふさわしい「回想」になるのかは、結構むずかしい。

そこで、かくいう呼び掛け人自身が自分の人生を語ろうとするとき、欠かせないと思われることはどんなものになるか、項目にしてみよう。

1,「ロシア革命」を知ったのはいつだったか。それについてどう思ったか。
2.その根拠であるマルクス主義のどこに魅了されたのか。
3.学生運動にはどういうきっかけとスタンスでかかわったか。
4.それはどんな結果に終わり、その総括をするとすれば?
5.社会人になって、政治的なことへの関心はどうなったか。
6.ソ連邦の崩壊に際して「事態を受け入れる準備がなかった」とはどういうことか。
7.そのとき、マルクス―レーニン主義(そのイデオロギー)についてどう思ったか。
8.ソ連崩壊後の世界をどう受け止め、何をめざしていくべきと考えたか。

おおよそこのようなことについて押さえることになるだろう。

「革命とサブカル」がその応えであるというには、それができあがったいきさつを知っているものとしてはかなり酷なことだといっておこう。
しかし、ソ連崩壊の後にやって来たのは「サブカル」の時代だといっているように見えるのは、あまりに安易でいただけない。

最後にもう一度ことわっておかねばならないが、これは、「革命とサブカル」の批評ではない。「回想」本が出来るようにと思って、よけいなお世話をした。

いっぱい書いていっぱい削ったから、何が何だか分からなくなったけれど、とりあえずアップしよう。
文句があったら書き込みでもメールでもしてくれ!

2019年1月29日 (火)


民青の呪縛 安彦良和「革命とサブカル」をめぐって


前回は、「革命とサブカル」(安彦良和、言視社、2018年)出版のきっかけになった『回想文集』制作の呼び掛け、『諸兄へ』の内容について検討し、本の批評よりも文集の完成を願って、その構成やレベルあわせなど編集作業のためになればと思って走り書きをした。

その際『諸兄へ』の中で示された安彦良和の心の中に二つの空虚があるらしいと指摘しておいた。

この空虚の在りようについて、いかにもこの世代に共通の「時代に取り残された」精神構造が見えると思ったので、 最近若い世代が書いた「サピエンス全史」(ユヴァル・ノア・ハラリ)などを参照しながら三つ目の指摘というか提言(よけいなことかもしれないが)をしようと考えた。

彼は、ソ連崩壊を何年も前から予測していたが、その事態が九十年代初頭に現実のものになると「・・・出来ていなかつたのは、事態を受け入れる心の準備だけで、その準備も、弘前を出て上京した当時の空っぽの寂寞感を思えばなんということもなかつた。」と書いている。

つまり、ソ連崩壊についてどう受け止めればいいのか分からなかったという空白の部分と学生時代に経験した「空っぽの寂寞感」という空虚である。
ソ連崩壊についてはともかく、後者に対する思いは狂おしいまでに切実である。
『諸兄へ』の中で彼はこう書いている。

「病死した同学年の活動家氏の遺稿集、追悼文集を出したときに、追悼だけでいいのかと言う座りの悪い思いをした。追悼、ではあの時代の巨きな意味が流されてしまう。あの時代の意味は聞こえない。」

彼は「あの時代」には(流されてしまいそうな、聞こえなくなりそうな)「巨きな意味」があったと思っている。
しかし、その「意味」とは何だと自問したとき、どうやらそこには「空っぽの寂寞感」という「巨きな空虚」だけが見つかったのである。

彼は、「空っぽの寂寞感」を弘前に置いてきてしまったのだ。
あの時代は、自分にとって何であったのか?
自分がしたことは何であったのか?

あのときの自分を知るものたちとの「聞き書き」をはじめたのは、その空っぽの寂寞感を「あの時代の(あったはずの)巨きな意味」で埋め合わせようとするものだったのである。

果たして、この聞き書きの旅で、その「巨きな意味」は見つかったのか?

インタビュアーである安彦には、それが何か分かるかも知れないという漠とした目的はあったであろう。
彼の建てた前提は、こうである。
ある出来事は、一定の時間が経たないとその意味するところはわからない。その出来事を「現在」から見ると、それは「何らかの因果関係」を持ちながら「いま」につながっているはずである。なぜならそれが「歴史」というものであり、人生はその中に位置づけられるのだから。
つまり、「あの時代にあった(はずの)巨きな意味」を了解できれば、「いま」がどういう時代か、自分がどこにいるか、何よりも自分の人生とはなんだったのか分かるかも知れない、と言う思いである。

この聞き書きの旅で、何が分かったかは、安彦にあらためて聞くしかないだろう。編集者にその気があれば、ロングインタビューもいいかもしれない。

僕としては、個別の聞き書きについてそれぞれに多様な人生模様が垣間見えるといった感想はあるが、この稿は、それに言及することが目的ではない。(一言だけいうなら、インタビュー記事としては蟻塚亮二のが、最も面白く出来ていた。)

あえていうなら、安彦の思いと聞き書きの相手との間にある微妙なズレがいったいどこからやってくるのか、そのことを明示しようと思っている。

とりあえず、全体的な印象を言えば、聞き書の相手は、安彦の意図に気づいてない訳でないことはわかっている。ただ、いかんせん四十年という年月は、それぞれの人生をまったく違うところに運んでしまっていた。
工藤敏幸は、「過去は置いてきた」といい、西田洋文は「あれは個人的なことだった」ととまどいながら応えている。

安彦は「出来事は、一定の時間が経たないとその意味するところはわからない。」といったが、四十年という歳月は、その「一定の時間」には、おそらくそれぞれの人生にとって十分すぎるほど長かったのである。つまり、当時は見えていなかったものが、今ではすでに了解可能なものになっているのだが、しかし、安彦は「この『巨きな時代』は、当時あった戦争や『革命』、史上空前の全世界的な若者運動や諸々の運動や事件のすべてを包含する大きさだった」といって、そこに格別に「巨きな意味」を求めるのである。

「当時あった戦争」とはベトナム戦争のことであろう。
この戦争には世界中で反対運動が起こり、我が国でも政党から市民運動まで長い間米国の軍事介入に抗議が続いた。むろん、こうしたアピールが米国に届き、政策決定に影響を及ぼすことを期待してのことであったが、この世界中で費やされたのべ何百万いや何千万人ものエネルギーは、驚くほどのこともないが、全くの無意味、無駄であった。
この広汎な長期にわたる抗議の声を米国政府が一顧だにしなかったことは明らかである。
1971年に国防長官マクナマラが辞表を出したとき、米国はすでに二万七千の戦死者を出していた。統計学の専門家として第二次大戦を戦った冷徹な政治家は、南ヴェトナムがこの戦争に勝利することはないという確信を抱いたのである。米国は直ちに収束に向けて手を打つべきだったが、テキサスのカウボーイ、ジョンソンは意地になって北爆を開始、勝つことのない戦争の負ける方法を探るために、さらに三万の戦死者と五年の歳月を費やしてしまったのである。

これらの事実は2004年のドキュメンタリー、最近の映画「ペンタゴン文書」で描かれたものによったが、まことに出来事というものは、一定の時を経ないとその意味は見えないものである。当時「ベ平連」に参加したものは、安彦のように、「それでもあれには巨きな意味があったはずだ」と思えるのだろうか。
そのヴェトナムはいま西側からの投資を受け、経済成長率で中国を抜く発展を遂げている。

僕が海外に行き始めた八十年代半ばにはまだ、成田空港三キロメートル手前に検問所があった。バスや自家用車を止めて荷物検査をするためである。それほど、当時この空港は攻撃される危険があったということだ。

羽田に変わる国際空港を首都圏につくるにあたって、数軒の農家が土地を譲らずこの地権者に革新政党や労働組合、新左翼学生が加わって激しい建設反対運動がおきた。いわゆる三里塚闘争である。これも多数の死者を出しながら長く続いた闘争であったが、部分開港からしだいに沈静化して、いまでは国際空港の地位をかつて奪った羽田と争うに至り、そうした過去の影すら見えるところはない。

政治の傲慢さは問題だったが、公共のためにわずかに「譲る」という気持ちがあれば、あれだけの「無駄な」エネルギーを消費することはなかったのではないかと、いまにして思えるのだが、「三里塚」に参加したという日角健一は、いまでも成田空港を目の前にして、その存在を爆破したいほど苦々しく思うのであろうか。

六十年安保闘争を率いたブント全学連は昭和十年代の生まれの、東大、東北大、京大、など旧帝国大学系の学生が多くを占めていた。首相、岸信介が自衛隊出動まで考えるほど連日の激しい示威行動だったが、強行採決、自然成立の後はまるで潮が引いたように静かになった。この選良たちは「アカシアの雨に打たれて死んでしまいたい」とばかりにどこかへ雲散霧消してしまったのである。後にその中心にいた西部邁は「当時、安保条約の条項なぞ読んだこともなかった」といっている。

大学改革の運動は、僕の知る限り、六十年代半ば、欧州のある古い大学で一人の女子学生が取得単位のことで教授に抗議したことを嚆矢とする。それをきっかけに学生の抵抗はまず欧州全体に、そして米国、日本へと広がったのである。

この背景には、第二次大戦後の平和への期待によって世界中で起きたベビーブームがあった。「一族で初めての大学生」(鹿島茂の言)が多数生まれ、高等教育の大衆化がはじまると当然のように旧態依然たる大学の権威主義や形式主義は批難の的になった。
私立大学の授業料値上げ反対や大学経営者の不正糾弾、東大医学部医局問題など学内の改革に向けた学生の運動はそれなりの成果を見せたが、後半、新左翼各派の草刈り場になって突出した一部は暴力革命をめざすものへと過激化した。
まもなく政治的イシュウがなくなり、空前の経済成長ということもあって学生運動は沈静化していく。

「連合赤軍」については聞き書きの中で関係者が詳細に語っているからここでいうことはない。
あえていうなら、情勢分析も目的も戦略もない児戯に等しい「革命ごっこ」の代償がいかに高くついたか、ため息が出るばかりである。
当時、警視庁広報課長だった國松孝次はあさま山荘事件をふり返って「警察官は撃たれても犯人の学生は無傷で逮捕という方針」だったことを若干の悔しさをにじませて語った。世界とは異なるいかにも日本的な対応であったが、つまり彼らは自らが望んだ「革命家」とはほど遠い『子供』とみられていたのである。

「全世界的な若者運動」の一つに米国の公民権運動があった。人種差別に反対する黒人たちを全米の、最終的には世界中の学生や著名人が参集して支援した運動である。それを率いたキング牧師は暗殺されるが、長い戦いをへて公民権を認める法律が成立する。ただし、この問題が法と理性で解決できるものでなかったことはその後を見れば明らかである。

英国の劇作家、サー・デヴィット・ヘアは僕らと同じ年齢である。戯曲「Breath of life 女の肖像」(新国立劇場、劇評)に登場した女性は、若い頃英国人の留学生としてこの運動に参加し、カリフォルニア大学バークレー校では、おそらくコミュニズムの影響下で世界の変革を夢み、フラワーチルドレンやヒッピーとも接触している。

劇評の終わりに僕は、次のように書いた。

「・・・・・・僕は、翻訳を試みながらこの戯曲に通奏低音のようにして聞こえてくるある音が、それは時々ボケタ古い映像をともなっているのだが、気になっていた。

燃えているスクールバス・・・・・・警官の振り回す棍棒に逃げ惑う群衆・・・・・・その向こうから次第に大きく聞こえてくる演説の声・・・ I have a dream that one day this nation will rise up and・・・・・・
学生が叫んでいる・・・ハンドマイクの声・・・・・・B52爆撃機の姿・・・ナパーム弾が炸裂するジャングル・・・・・・
戦争反対!闘争勝利!というシュプレヒコール・・・・・・火炎瓶と放水車の衝突・・・・・・
100%永遠でなければ価値がない。
100%手に入れられずば、それはいらない・・・・・・
100%勝利するまでは、絶対にやめない・・・・・・
100%骨の髄まで革命戦士ならずば、与えられるのは死、死、死。遺体の山。

マデリンは、「わたしたちの世代の死亡通知」と言った。
我々は、ベトナムに抗議していると思っていたが、それは我々が自らの未来に抗議していたようなものだ。五年の抗議、黙従の三十年。我々のことを「豊かさと繁栄を連れてきた世代」と後世の歴史家は書くだろう。
あの時代の熱情は何処へ行ってしまったのだろう。そして世界は、事実それとは無関係に変容を続けていくのである。

サー・デヴィット・ヘアが生まれたのは、ポール・ゴーギャン(1848年~1903年)生誕の100年後である。不肖僕も同じ世代だ。

(これは、Life being what it is, one dreams of revenge.      Gauguin
人は、生きながらえてなお復讐を夢見るものだ。 ゴーギャン  〔中村訳〕
という、この戯曲につけられたエピグラフに由来する。)

「我々は、昨日は20世紀にいたが、今日は21世紀にいる。だが、われわれが互いに22世紀を見ないことは確かである。
我々は無理にでも長らえて復讐を夢みるが、せいぜい夢みるだけのことだ。しかし、その夢もどこかへ飛んでいってしまう。例の「ハト、ハト飛んだ」の遊戯のように・・・・・・」(ゴーギャン” Avent et Après”より ただし、ゴーギャンのフレーズを百年ずらした。 )
この劇は、デヴィット・ヘアの『Breath of life 生命の息吹』には違いないが、そのうらに、彼と僕らの長く深い『ため息』が隠されていたのである。」

「五年の抗議、黙従の三十年」とは、いいかえれば「変革を夢見て行動した日々とそれを封じて生きた長い年月」をいうのであろう。しかし、われわれは、世間的には「豊かな時代を連れてきた世代」と見られている。後世の歴史家は、そのようにとらえるに違いない、事実、当時の先進諸国のなかでも特に我が国経済は、この世代の壮年期の中核期間を含んで、九十年代初頭のバブル崩壊まで空前の好景気を続けるのである。

安彦がいう「追悼では、あの時代の巨きな意味が流されてしまう。あの時代の意味は聞こえない。」という言葉は、おそらくこのことを指している。
つまり、「われわれが目指したものは『変革』であり、『豊かさ』ではない。変革を夢見て行動した日々にこそ真実があり、いまここにあるのは偽りの豊かさなのだ。『世界の変革』こそ、いまもなお生き続けているはずの『巨きな意味』の源泉であり、「黙従の30年」とは「偽りの」豊かさに耐えてきた年月ではなかったのか。」という問いである。

「病死した活動家氏」の追悼だけでおわるのでは、「わたしたちの世代の死亡通知」を天下に告知するようなものではないか?
そう思って、彼は『諸兄へ』で、『世界の変革』に意味はあったのだと言う発語を同世代のものたちに促したのである。「『革命』とサブカル」というタイトルを今頃になっても、つまりあえて『革命』を持ち出し、なお平然と冠した理由であろう。

思春期というものは、社会性に目覚める時期である。これから船出する社会というものはどんなものか。いま目の前にある出来事をどう考えればいいのか。社会のとらえ方、様々な思想や幅広い情報の中で何と出会い、何を選び取るかは一生を決めかねない重大事である。

全共闘運動に関わった学生の考え方は様々だが、一つの共通項があった。それは、「反日共」である。日本共産党は相容れない仇敵である。ところが、日共によってはじめて、われわれの生きる社会が矛盾に満ちていることを気づかされ、共感を持ったものは意外に多い。

民主青年同盟は、世界中の共産党が抱えている党員への登竜門で、ここが十代の対象をオルグ(組織化=活動に引き込む)するのだが、当時共産主義への入り口は、ほぼここ一つであった。民青のメンバーは日本共産党の指導の下、その綱領と政策を学習し忠実に従わねばならない。
「革命とサブカル」の聞き書きには、安彦をはじめ青砥、植垣など民青をやめたものが多数登場する。
つまり、この社会の矛盾を解決するためには変革=革命が必要だとする思想に出会い、それに魅了され、それが唯一の真理と思った。しかし、その後日本共産党の方針に反対あるいは違和感を覚え、別のやり方でそれをめざすために離反したのである。

安彦の「置いてきた寂寥感」の正体は、自らの思想の原点にあるこの「革命」である。
世界は変革されねばならない。資本と労働の階級対立を解消し、平等で自由な社会を実現するためであり、それが歴史的必然であるのは、史的唯物論が「科学」だからである。(聞き書きの中に、マルクス思想が科学だという安彦の発言が散見される。)

この思春期に自分の心に根付いた確信は、「社会主義側の完全敗北による冷戦終結」にもかかわらず、「しかし、マルクスは正しい」といういわばマルクス原理主義となって、いまなお有効だと思われているのである。

以下に引用する「聞き書き」のある部分に「ソ連邦」の敗北はその発端であるボルシュイズムにあったという発言などをみれば、革命はいまでも再度やり直されるべき社会科学的命題だといわんばかりなのはそれを思わせる。そうではないかも知れないという疑念がどこかにありながらそれを捨てきれない。それ以外の思考方法を知らないからだ。

人が何をどう考えようと自由だが、マルクスが生きた十九世紀半ばに解決されねばならなかった問題のほとんどは、いまではほぼ克服されている。(あとでとりあげる「サピエンス全史」でも述べられているが、飢えや戦争よりもいまや甘い「砂糖」(糖尿病)が死因の一位である。)むしろ、いま人類は、これから迎える成長なき時代(利潤を生み出すフロンティア喪失の時代)を生きる、これまで経験したことのない新たな生き方を模索する必要に迫られている。

「マルクスは正しい」という原理主義、すなわち「宗教」を捨てるのは容易には出来るものではない。が、しかし、それに身を預けていてもむなしいだけではないか。

革命が、宗教か否かで議論する場面が「聞き書き」の中に現れる。
普通、立ち会いの編集者は、出席者の議論を方向付けるとか発言を促すとか黒子の役に徹して自身の意見を表明するなどないものだが、この部分は、「編集部」が出席者に議論を挑むというこの種の対談にはあまりみられないかたちで進行する。ここで「編集部」といっているのは杉山尚次のことだと思われるが、杉山は明らかに出席者たちとは対立している。しかも、話の流れを自分に引き寄せていて、それが意図的だったかどうかはわからないが文脈が乱れて少し異様に映る。編集者としてはちょっとした瑕疵になったが、「マルクス信仰」を引き出したのは怪我の功名であった。

「革命とサブカル」P89より

安彦 この間のインタビューの印象的な最後の言葉が、「共産党が悪いんですよ」。いいフレーズで終わったなと思って、それで締めにしているんだけど、考えてみれば、ずいぶん投げやりなフレーズなんだよね。
青砥 つまり自分たちは失敗した。その失敗の元凶は何処にあるかというと、自分たちの資質の問題もあるけれど、唯一の左翼としての共産党がしっかりしてくれなかったから、俺らがこんなことをしなきゃ行けなかったんじゃないか、そう言う気持ちは、ちょっとあるよ。
安彦 どこから期待外れになったのかな?
青砥 根を深く掘れば、やっぱりロシア革命からはじまったと言うことが、そもそもダメなんだろうね。ロシア革命自体は必然的で、時代の希望ではあったけどな。
安彦 そこは一致するね。だから俺はボルシュビキ(ロシア革命時、レーニンが率いていた革命党、共産党)はだめ。レーニンから駄目になったと思う。
青砥 ボルシュビズムが駄目なんだって、僕は思います。ボルシュビズムのどこが駄目なのか、いろいろ考えるけど、この前中澤はいいことを言った。デモクラシーは人類の財産だ、と。それはそう思う。いろんなフェーズがあるけどな。
安彦 そもそもトロツキーはボルシュビキじゃないでしょ。もともとは。それでよかった。
―(編集部)前衛が領導していく先は、理想の共産社会を実現するんだってビジョンがあるわけですね。その段取りは、政治権力を握って、独裁的になるけれどもプロレタリアートの権力をつくって、そこで社会関係を全部改革する仕組みを作り、しかる後国家を死滅させる、共産社会に移行するというようなシェーマがあるわけです。その過程で、「分かっている人」が「分かっていないやつ」を教えていくってことになりますよね。その構造って、ほとんど宗教にならないですか?
中澤 それは宗教という社会的な一部の構造と、社会全体を構成する生産諸関係等の中で起こってくる社会革命との違いがまずあるね。革命は国民国家的にも世界的にもすべての階級階層を巻き込むから、そのプロセスは数百万数千万の政治的力で、実例の力で説得し、教えていくことになる。宗教ではない。
―でも「信じる力」といいかえたって、あまり変わらない。
青砥 そこは悩ましいところ何だよ。宗教と違うのは、革命は社会関係を変えれば人間は成長して、それに応じた新しい人間関係をつくるのが基本だよね。宗教はそうじゃない。宗教は、要するに教えがあって、魂の救済があれば、それでみんな幸せになるという考えでしょ。社会関係なんて関係ないんです。
―ただ、目覚めていない人間をして、組織化していくわけじゃないですか、宗教は。
中澤 組織化していくのは、それはそうです。社会主義はこの概念に含まれている解放のエネルギー、人間解放の問題を軸に組織化してゆく。
オルグする側、される側、いずれも人間の交通形態としてある。オルグする側はもちろん主体的な意識的な活動であり、人間性をかけたたたかいでもある。オルグされる側もそこで人間としての立脚点を要求される。この人間の問題こそが、社会―資本主義経済諸関係の中で非人間化され。阻碍されていたことからの自己回復の戦いとなっていく出発点になる。だから宗教ではない。
―その構造は同じじゃないですか?
安彦 それは現世利益の宗教は特にそうだね。
青砥 社会主義の運動の中で目覚めてないのをオルグするというのは必要だけど、もっと大事なのは、社会環境を変えていくということだ。
中澤 社会環境を変えるというのは、目覚めていない人たちに何をもたらすかってこと。金であったり物質的なものを含めて、すべてをもたらす。そういう意味で、実例の力。
青砥 権力奪取の過程ではいろいろあるんですよ。で、社会環境を変えたら、人間の意識は自動的に成長して良くなるのか?マルクス主義はそれについて、楽観的じゃないですか。その楽観主義に、俺は足をすくわれた。いまはそうじゃないと思っている。いままでそうじゃないと思った哲学者は何人もいる。サルトルなんかも、その一人だと思う。ルカーチなんかも、そうだと思う。でも誰一人として、それの解答を出せてない。だから社会環境を変える運動と、社会環境を変えたら実際にその人間が成長していくのかと言うことのについては、何も関係ないといった方がいいと思う。
安彦 社会主義について、あるいは共産主義について、マルクスは非常に理想主義的に提示していた。
青砥 もともとコミュニズムというのは、あるいはコミューン主義というのはプルードン主義(フランスに思想家プルードンのアナーキズム的な思想)でも考えていた。でもプルードン主義が失敗したから、共産党、前衛党をつくってやんなきゃ行けない、そのために経済分析もしなきゃ行けないって言う、そう言う考えでしょ、基本的には。
中澤 プルードン主義に対する反発。
青砥 だからプルードン主義で世の中が変われば、こんないいことはない。でもそれは無理だと。
安彦 マルクスは、貧困には根本的な理由があることを、『経済学批判』でやったわけです。それは科学なんですよ。そこに前衛党なんて概念はない。それをレーニンが持ち込んだわけだから。そこから「外部注入」とか戦略論とか、人為的な要素が入ってくる。そうするとそれはもう科学じゃないわけだ。「思想」がどんどん方法論化していく。

三人三様、編集部の杉山を入れれば四人と言うことになるが、いまや「革命」ということに対してそれぞれ微妙な距離をとって向き合っていることが分かる。
杉山の言い分は、前衛が領導するという共産党のあり方は、宗教の勧誘活動とおなじで、マルクス信仰の内部へ囲い込もうとするだけのものではないかと言うことだが、それに対して中澤は革命原理が正しいことを実証することによって社会全体を説得できるという。
青砥は、社会環境を変えれば、人間も成長し変わると考えるのは楽観的で、むしろ人間の内面に注目すべきだと今は考えているといって、マルクスとは距離を取っているように見える。
これに対して安彦だが、マルクスの思想は科学であり、実践論で間違いを犯したというある種典型的なマルクス原理主義を表明しているところは注目に値する。つまり、「革命」という実践には留保を与え、原理は有効としているのである。

いずれにしても杉山は宗教だといい、一方は原理の正しさを「科学」だからとしている。しかし、マルクスの唱えた原理ははたして「科学」といえるのだろうか。

ユヴァル・ノア・ハラリは1978年生まれの若い学者である。
彼のユニークな視点は、われわれ人間を動物の進化の過程で現れたいわば霊長類のひとつの亜種「サピエンス」であり、並行的に存在したネアンデルタール人が三万年前に絶滅したあと地球をおよそ七万年にわたって支配している存在、と捉えているところである。
つまり、他の動物に比べて異様に発達した脳が特徴的で、集団を形成して生活する動物がわれわれ人類なのだ。
彼のベストセラー「サピエンス全史」に以下のような記述が見つかる。

「人間の崇拝

 過去三〇〇年間は、宗教がしだいに重要性を失っていく、世俗主義の高まりの時代として描かれることが多い。もし、有神論の宗教のことをいっているのなら、それはおおむね正しい。だが、自然法則の宗教も考慮に入れれば、近代は強烈な宗教的熱情や前例のない宣教活動、史上最も残虐な戦争の時代と言うことになる。近代には、自由主義や共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムといった、自然法則の新宗教が多数台頭してきた。これらの主義は宗教と呼ばれることを好まず、自らをイデオロギーと称する。だが、これはただの言葉の綾にすぎない。もし宗教が、超人間的な信奉に基づく人間の規範や価値観の体系であるとすれば、ソヴィエト連邦の共産主義は、イスラム教と比べて何ら遜色のない宗教だった。
 イスラム教はもちろん共産主義とは違う。イスラム教は、世界を支配している超人間的な秩序を、万能の造物主である神の命令と見なすのに対して、ソ連の共産主義は、神の存在を信じていなかったからだ。だが、仏教も神々を軽視するが、たいてい宗教に分類される。仏教徒と同様、共産主義者も人間の行動を導くべきものとして、自然の不変の法則という超人間的秩序を信じている。仏教徒はその自然の法則がゴータマ・シッダールタによって発見されたと信じているのに対して、共産主義者はその法則がカール・マルクスやフリードリッヒ・エンゲルス、ウラジミール・イリイチ・レーニンによって発見されたと信じていた。両者の類似性はこれにとどまらない。共産主義にも他の宗教と同じで、プロレタリアートの必然的勝利でまもなく階級闘争の歴史は幕を閉じると預言するマルクスの『資本論』のような、聖典や預言の書がある。共産主義にも、五月一日や十月革命の記念日のような祝祭日があった。マルクス理論に精通した神学者がいたし、ソ連軍のどの部隊にも、コミッサールと呼ばれる従軍牧師がいて、将兵の敬虔さに目を光らせていた。共産主義にも殉教者や聖戦、トロッキズムのような異端説もあった。ソ連の共産主義は狂信的で宣教を行う宗教だった。敬虔な共産主義者は、キリスト教徒や仏教徒に離れず、自分の命を犠牲にしても、マルクスとレーニンの福音を広めるのが当然と思われていた。」(「サピエンス全史」下、P32)

これでは、一見ソ連の共産主義は外形的に宗教と同じと皮肉られているように見えるが、批判の核心は「共産主義者も人間の行動を導くべきものとして、自然の不変の法則という超人間的秩序を信じている。」という部分である。

「信じている」ことを外から「それは、真実でない」と否定するのは簡単だが、それは本人にとっては、ただ単に悪魔が耳元で囁いている声にすぎない。信仰を捨てる道は、信じてきた論理体系=人間的秩序が何らかの欠陥をもっている、あるいはすでに無効であるなどという内なる声に導かれて得心する他にない。マルクス主義は「科学」である(から真実)、と信じている以上、それが「科学」でないことを自ら証明することはむずかしい。

しかし、今日「科学」といえるものは、「相対性原理」や「量子力学」のような言語も地域も宗教も思想も超えた万人が肯定せざるを得ない数式で表される原理以外にない。たとえマルクスが、人間の歴史を階級闘争と見なし、資本と労働の階級対立はやがて革命的に解消され、共産社会が実現するといったとしても、それを数式で表すことは出来ない。いや、卓越したマルクス主義数学者がその「科学」を数式に表現できたとしても、それはあまりに変数が多いゆえに数学的に意味をなさないものになるはずだ。なぜなら、歴史というものは、われわれの人生がそうであるように偶然に満ちているものであり、未来もまた偶然によってできあがっていないとは言えないからである。

安彦は、「聞き書き」の中で「マルクスは、貧困には根本的な理由があることを、『経済学批判』でやったわけです。それは科学なんですよ。」と発言しているが、これは、信仰からまだ抜けきらないでいることを表している。
それに対して青砥は、やはり「聞き書き」の中で次のようにのべており、マルクス信仰から抜け出したことを示唆している。

「社会環境を変えたら、人間の意識は自動的に成長して良くなるのか?マルクス主義はそれについて、楽観的じゃないですか。その楽観主義に、俺は足をすくわれた。いまはそうじゃないと思っている。いままでそうじゃないと思った哲学者は何人もいる。サルトルなんかも、その一人だと思う。ルカーチなんかも、そうだと思う。」

安彦が、青砥の翻意の過程に興味を示さなかったのは、信仰から抜け出せないでいるのだから仕方ないが、杉山尚次がこれを見逃したのは編集者として痛恨の失態ではなかったか?
杉山は、自ら「マルクス主義=宗教論」を仕掛けておいて、その結論を導く場所について無自覚であった。
つまり、「それは宗教ではないか?」という問いは「あなた方はマルクス信仰に冒されている。従って、普通の市民として生きていくには、そこから脱する必要がある。どのようなプロセスで信仰から抜け出すことができるか、それが問題だ。」という考えを内在させている。
その応えの有力な方法の一つは、「某はこのようにして、信仰を捨てたという事例」を示すことであろう。
杉山は、青砥がどのように「足をすくわれ」て、「いまはそうじゃない」と考えるにいたったのかを追求し語らせることによって、自らが仕掛けた問いに対する答えの場所を示すことが出来たはずであった。

もっとも、安彦がこのことにまるで気づいていないのでは、踏み込みが足りなかった杉山を責める訳にもいかない。

僕は、先のブログで「学生時代は運動といってもホンの端っこで独立愚連隊をやっていただけで、書くのもおこがましい身分であった。」と書いたことについて、ほんの少しばかり述べて終わりにしようと思う。

僕が高校生の頃、六歳上の姉は、まもなく初の最年少、女性市会議員になりそれからおよそ三十年続けた日本共産党員であった。そのため社会問題研究会(実は民青)から入会は当然と言わんばかりの執拗な勧誘を受けた。

その頃、社会主義に関心がなかったわけではないが、むしろ僕には「自分とは何か」と言うことが問題で、自分のまつろわない性格もあって、彼らと接触することはなかった。最も親和性を感じたのは、大江健三郎を通じて出会ったフランスの実存主義で、高校の三年のうちに、ジャン・ポール・サルトルは主観主義的にすぎると結論づけて、大学の哲学科でモーリス・メルロー・ポンティの共同主観性をやろうと決めていた。

学生運動に関わったのは、権威に対する異議申し立てであって、革命を目指したわけではなかったが、唯物史観は否定出来ないものと感じていた。

マルクス主義がおかしいと実感しはじめたのは、僕がマーケティングの仕事をしていたときのことだった。需要を創造し続ける技術によって資本の矛盾は解決されるのであった。マルクスの射程は現代にまで及んでいなかったというこのあたりの考えは、別にまとめた(「ボトルウォーターの輸出が疲弊経済を救う」)ので、ここでは言及しない。

学生の頃、たまに青砥が僕のアパートにやってくることがあった。彼は本棚に背中を預けてこたつに入った。何を話したかまるで覚えていないが、はっきりと言えることがある。あの本棚には、人文書院のサルトル全集の何冊かとジョルジュ・ルカーチ「歴史と階級意識」が入っていた。

杉山尚次は、全国に数え切れないほどいるはずの「安彦良和」たちのために青砥幹夫のロングインタビューをするべきだろう。青砥の苦悩の軌跡を世に問う責任が杉山にあるといっておく。
青砥が受けてくれるという見込みはないが・・・・・・。


これで「取り残されたものたちへ」は終わります。
中に登場する人々に掲載の了承を取っていませんが。すでに書籍化されている原稿なので許されると考えました。

先日、植垣君がなくなったという知らせがありました。我々は、すでにそう言う歳になっており、取り残されたと思いながらもこの世の行く末が気に掛かるという境地にあります。これを老境と言わずしてなんと言おう。