佐々木孝丸と「代々木大山公園」のこと


写真は、滝澤修が居酒屋で一緒に飲んでいるときに撮ったもの。


佐々木孝丸のこと

「起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し 醒めよ我が同胞(はらから) 暁(あかつき)は来ぬ 暴虐の鎖 断つ日 旗は血に燃えて 海を隔てつ我等 腕(かいな)結びゆく
いざ闘わん いざ 奮い立て いざ あぁ インターナショナル 我等がもの (くりかえし)」
できあがったばかりの訳詞に節を付けて、大正期の若者たちが、はじめて、それも密かに声に出したのは、「代々木大山公園」近くの藪の中だったと、翻訳した俳優、佐々木孝丸が書いている。(あとで、本人の記述を紹介しよう。ちなみに写真は、滝沢修が飲み屋で撮ったスナップ)

この間「警告ラーメン屋の話」の中で、佐々木孝丸の自伝「風雪新劇志」を探していたが、結局、目星を付けていた神保町の古本屋では売れてしまって、目に出来なかったと書いた。
鹿島茂の「昭和怪優伝」の中で佐々木孝丸が取り上げられていたのを懐かしく思い、とりわけその経歴に驚いて詳しく知りたいと思うようになったからだ。
どうしても読みたいと思って、あれから、登録している都内やいま住んでいる市の図書館を調べたが、俳優の自伝は、どうせ代筆だろうとかファンでもなければ関心もなかろうとあまり重要視されないのか、しかも昭和三十年代発行の古い本だからどこにも見つからない。

諦めかけていたところ、どうせないに決まっている、ダメ元だと思って神奈川県立図書館の蔵書検索をしたら、なんと、あった!
この図書館は、見かけは地味だが、以前、どこにもおいてなかった戯曲を見つけ出したところで、神奈川県広しと言えどもたった一館しかないのに収集図書には意外性がある。ところが、ここに行くには桜木町の駅からえっちらおっちら相当な高低差の山登りをしなければならないから、おっくうだ。だから、利用者も少ないのではないかと勝手な読みをしているが、どっこいここは穴場である。
(一体に、この横浜とか川崎という町は、被疑者に取調室からの逃亡を易々と許してしまう失態に見るように、官公庁の建物に金をかけないのは見上げたものだが、その分官僚的・権威主義的で「公僕」が住民サービスをしようとする気配などさらさら見えてこないところだ。多摩川を隔てると、こうも違うものかと東京都との落差に唖然とさせられる日々である。)

それで、ようやく借りだして読んだが、これはただの自伝ではなかった。島村抱月や松井須磨子、川上貞奴など新劇の黎明期の後を受け、大正から昭和にかけて、発展していく日本の演劇史そのものであるばかりか、左翼運動史、あるいは出版文壇史でもあった。

佐々木孝丸の出演作や履歴については「昭和怪優伝」で、上手くまとめられているからそちらを読んでいただいた方が早い。また、ナップとかプロップの戦前の左翼芸術運動の現場が活写されていて、これは鹿島茂の興味の対象からずれている分、僕が書き留めておく意味はあると思うが、そんなものに関心がある人は今時いるものか、とも思うので、紹介したいエピソードは多々あっても、面白がってくれる人が果たしているだろうか。

ただ、佐々木が生を受けてものごころつく頃から世に出て行く時代、その中の人々の交わりが、いかにもこころやさしく情熱的であったかを少しばかりうらやましい気持ちとともに書き留めておいてもいいだろうと思った。日露戦争が終わり、日本人が自信を深めつつあった頃、それから長い戦争に入っていく昭和初年までの十数年あまり、日本近代史に束の間訪れた青嵐の風が佐々木孝丸の周辺にも渦巻いていたのである。

何はともあれ、佐々木孝丸が、演劇の世界へ入ったきっかけがなかなかユニークなので、鹿島茂の「怪優伝」と重複は怖れず、それだけは取り急ぎ紹介しておこうと思う。

佐々木孝丸は、明治三十一年(1898年)北海道釧路の奥にある監獄の教誨師をしていた真宗の僧侶の三男として生まれた。(ここで鹿島茂は、なんと彼は19世紀の人だったのだ、と驚いている)七才になった日露戦争のさ中に、父親が讃岐の寺を継ぐことになって故郷へ戻った。十一代続いた世襲の寺であったが、檀家も少なく家は豊かではなかった。高等小学校を出ると、上の学校に行くのは許されず、京都の本山にやられて、新門跡附きのお小姓のようなことをやりながら宗門の夜学に通った。

そのままいけば、本山の役僧ぐらいなところで一生を終わることになっていたかも知れないが、慣れるにつれて「生き仏さま」たち一族の乱脈きわまる生活ぶりに愛想が尽き、一年そこそこで四国に逃げ帰った。
隣村の叔父の寺に手伝いにやらされて、そこの一人娘のいとこと一緒になって寺を継ぐと決められた自分の将来に承服できず、いとこに惹かれる気はあったが、ジレンマに陥って、毎日やけくそでお経をあげていた。

そんななか、大正二年(1913年)村の郵便局で「通信生募集」のポスターを見た。トン・ツー・トンの電信係である。修行期間は六ヶ月で、その間一切官費、卒業後は通信事務員として採用、判任官、高等官への立身の道がひらかれている。即座に決心し、親には内緒で高松へ出てこっそり試験を受けた。まもなく合格通知が来て、父親に打ち明けると、渋々承知してくれた。
高等小学一年生(今の五年生に相当)の時に実母を亡くして、翌年継母を迎えていたことが、早く家を離れたかった理由のひとつであったらしい。

研修所は神戸にあった。そこを優秀な成績で卒業すると、すぐに神戸の本局に通信事務員として、日給三十四銭で採用された。このとき、佐々木はまだ現在の中学生くらいの年齢である。しかし、この給金では、生活するのが精一杯で、 官練受験を目指す同僚と三人で自炊をはじめる。
官練というのは、逓信官吏練習所のことで、旧制中学卒業者も入学可能な専門学校(旧制の高等商業や高等工業などにあたり、現在は国立大学)と同等レベルの教育機関で、そこから高等文官試験(いまで言うキャリア官僚試験)に多数の合格者を輩出したことで知られるエリート養成校である。

数学や物理の本にしがみついたはいいが、独学でやらねばならない上に、豊富な参考書を揃えるだけの余裕がないので、市立図書館へ通うことにした。この図書館通いが少年に転機をもたらした。いつしか受験勉強はそっちのけで、小説ばかり読むようになっていたのである。硯友社系統の作家たちからはじまって藤村、花袋、秋声、白鳥、独歩と手当たり次第だったが、そのうちに文学とは何か系統立てて理解しなければと反省、広告で知った「大日本文学会」が発行している「文章講習録」を取り寄せて勉強した。それには毎月会員の投書が掲載された小冊子が出ていて、その投稿がきっかけで神戸在住の会員グループが出来、「神戸文学会」と名付けて、夜な夜な誰かの家に集まって文学談義に夢中になった。そのうちに同人雑誌を発行しようと言うことに発展する。むろん、回覧雑誌であるが、それに毎回投稿し、そのころになると、内心ではいっぱし文章を書いて身を立てようと宗旨替えしていたのである。
この神戸時代に、佐々木孝丸は、地方公演にやってきた島村抱月一行と会い、松井須磨子の「サロメ」などを観劇している。おそらくこれが、新劇に接した最初ではないかと思われる。

その頃のある夜のこと、「キンノスケ タダ イマシス』ナツメ」という電文を受信、文学好きの仲間に触れまわって配達係に渡すのを数分遅らせてしまったことがあった。

三年間の勤務(義務だった)を終えて、大正六年初め、二十歳の時に上京した。
「大日本文学会」で講師をしていた読売新聞記者が、電信出身だったことを知っていたので、取りあえず相談してみようと思い、約束も何もないまま訪ねると幸い会ってくれた。このときの出会いがまもなく秋田雨雀と親しく交わるきっかけになり、次々と人脈がひらけていった端緒になるのであった。
「電信局にでも勤めながら焦らず語学をやって、みっちり基礎を作るんだね」というアドバイスに納得して、仕事を探してみると、どこも欠員だらけで、すぐに見つかった。赤坂のアメリカ大使館の向かいにある二等局で、主に外国電信を扱っていた。語学を習得しようという目的には願ってもない職場である。

最初「アテネ・フランセ」へ通うつもりであったが、勤務時間がやりくりできなかったので、個人教授のもとへ通った。一週一回で一時間二円、日給四十六銭の身には、月八円の月謝はいかにも痛い。一日一食で過ごしたが、二ヶ月ばかりですっかり身体が弱った。上司にわけを聞かれたので事情を話すと、それならばと言うので、ありがたいことに勤務時間を調整してくれることになった。「アテネ・フランセ」は、一週三回で月謝は二円だったから「まったく蘇生の思い」であった。

何故フランス語だったかというのは、「文章講習録」で田山花袋が、自然主義文学は英訳ではなくて直接フランス語で読まなければその神髄を味わうことが出来ないと書いていたことに教えられたからだ。
このフランス語をやったことが、翻訳で身を立て、「種まく人」の同人になり、そこから社会主義文芸運動へ身を投ずるきっかけになったのだ。

佐々木は、しばしば戯曲を創作しては秋田雨雀に見せており、もともと演劇に関心はあったが、秋田から有島武郎らとの講演旅行の旅先で、戯曲の朗読会に立ちあったことを聞いて、自分たちもやろうと提案し、新宿中村屋の相馬黒光のもとに有志が集まって定期的にそれを催していた。とはいえ、実際の舞台活動には至らず、 このときはまだ、俳優、演出家、佐々木孝丸は誕生していない。

「種まく人」は、大正十年(1921年)、小牧近江が、出身地である秋田の土崎小学校時代の同級生である、今野賢三、金子洋文などとともに土崎港で立ち上げた雑誌で、彼らが佐々木と会ったころは、三冊出したところで保証金(当時は、政治問題を取り扱う雑誌を出すときには保証金を積まねばならなかった)が払えず、休刊していた。

土崎は、佐竹藩時代の重要な藩港にして北前船の寄港地である。戦時中の昭和十六年に、秋田市に編入されているが、もともと古い起源を持つ港町である。
僕は四十年前、秋田に駐在する営業マンだったころ、この町で遠洋航路の船に食料品などを収める問屋に何度か訪問したことがあった。むろん、商売専門だから大正時代にこんな物語があったとは気づいていない。

小牧近江の経歴がユニークである。明治二十七年生まれだから佐々木より四歳年長 。東京の暁星中学を中退して、明治四十三年(1910年)土崎の有力者にして代議士だった父親の洋行についてフランスに渡り、そのままパリ大学法学部に入学、苦学して大正七年(1918年)に卒業した。その間、ロマン・ロランに傾倒、小説家アンリ・バルビュスの提唱する反戦運動=クラルテ運動に参加した。大正八年帰国。「種まく人」は、クラルテ運動の種を日本でまくという趣旨に基づいて、ロシア革命救援、非軍国主義、国際主義などを基調とする論文、特集記事を掲載、なおかつ「行動と批判」をスローガンに掲げる雑誌である。
このスローガンにある「行動」のひとつがなんと演劇活動だったのである。

中村屋サロンの中で、フランス(仏語)にゆかりのあるものが集まってつくった「フランス同好会(Amis de France)」で、佐々木は、初めて小牧近江と村松正俊に会っている。村松は、東大の美学を出た博学、新進気鋭の評論家で、三人は同好会が主催する「ヴェルレーヌ二十五年祭」の準備のために連れ立って行動していたが、そのときはまだ他人行儀のところがあった。
このイベントの中で、ヴェルレーヌの劇詩(二人の対話劇)の朗読会をやることになり、佐々木は自分で翻訳した詩の相手役に当時まだ十五、六歳の少女にすぎなかったが、関係者の間で評判の高かった水谷八重子を選んだという。天才はこの頃からすでに注目されていたのである。このとき佐々木は初めて洋服というものを身につけたといっている。小牧が貸してくれたものだった。ということは、トンツー時代も和服でやっていたのか。

大正十年の第二回メーデーは、芝浦から上野までデモ行進が行われた。佐々木はこれに秋田雨雀、橋浦泰雄(画家で民俗学者)らと参加したが、上野の山下まで来たときにデモ隊と警官隊が衝突、危うく捕まりそうになったのを振り切って、山の上に逃れてくると、そこに小牧と村松を発見して驚いた。
というのも、二人とも高踏的で貴族趣味の青年紳士で、デモ隊のような汗臭い俗世界に出てくるような人柄ではないと思っていたからだ。
誘われるまま、青山にあった小牧の家に行き、夕飯をごちそうになりながら話をすると、自分のような「感情的社会主義者」と違って、確固たる信念と理論を持った「筋金入り」であることが分かった。

「そういう人にありがちな嵩にかかって理屈をおっかぶせてくるような態度はみじんもなく、幾分東北訛りのある言葉で、磊落にくつろいで話し相手になってくれたので、あらためて、畏敬の念を抱いたのであった。」
そして、小牧から休刊中の「種まく人」を東京で再刊しようとしていると打ち明けられ、村松とともに誘われると、一も二もなく快諾した。
この当時、小牧近江は外務省の情報局に勤めていて、その役所の一室が再刊の企画本部のようになった。なんと、小牧は役人だったのである。この時代はまだ、公務員が社会主義的論調の雑誌を主宰してもおとがめがなかったらしい。

同人は、小牧、金子、今野をはじめ村松、佐々木、松本弘二、山田亮、柳瀬正夢の八人。雑誌社を「種まき社」と名付けた。
特別寄稿グループに、秋田雨雀、有島武郎、アンリ・バリュビス、馬場狐蝶、エドワード・カーペンター、ワシリー・エロシェンコ、江口渙、アナトール・フランス、長谷川如是閑、平林初之輔、神近市子………そうそうたる陣容である。

創刊号の保証金は高利貸しから借りて済ませた。ところが、印刷も出来、製本も上がった段階で、印刷屋に払う金がない。工面したが明日発売という段になって、二百円ばかり足りない。「えい、あたって砕けろ」とばかり、夜半に中村屋を訪ねて借金を申し込んだ。
売上金はすでに銀行に預けてあり、明日か明後日に来てくれと言われたが、そこのところをなんとかとねばった。すると、なんと相馬愛蔵は、明朝わたす従業員の給料がとってあるからそれを融通しようと二百円ポンと貸してくれた。
今どきの事業家にこんな人物がいるだろうか?あるいは、大正という時代がそうさせたのか?
あとで話そうと思っている現代の事業家には、相馬愛蔵や黒光、梅屋庄吉など社会運動を支援した人々の爪の垢でも煎じて飲めと言いたい。

創刊号は、案の定発売禁止になった。
電通広告部を介して、翌朝新聞広告を予定していたのだが、万事頭の回転が速い小牧は急いで電通に駆け込むと、「種まく人・創刊号」という題字だけ残して、目次を削ったあとに、「発売禁止!次号すぐ出る!」と大きな活字で組み直してもらい、配信した。同時に、市内の本屋をかけずり回って、まだ押収されていない雑誌をできるだけ回収してくる。
この結果、広告を見た人々から「是非一部送ってくれ」という注文が直接「種まき社」に殺到するという珍現象を呈したのであった。

小牧近江の頭の回転というのはこれだけに留まらない。
創刊号の表紙に赤紙の鉢巻きを着けて、それに「世界主義文芸雑誌」というサブタイトルを入れて、外の雑誌とは明らかに視覚的な差別化をねらった。今では当たり前になった、このいわゆる本の「腰巻き」というやり方は、大正時代「種まく人」をもって嚆矢とするらしい。

ところで、村松正俊の父親もまた、小牧の父親と同じく犬飼木堂率いる国民党所属の代議士であった。「種まく人」に二人が入れ込んだことは、単なる偶然ではなかったのではないかと佐々木はいっている。
「というのは、今の小粒な政治家には容易に見られないような、いわゆる清貧に甘んじ、『敢然として義に赴く』といった耿々(こうこう)たる気概(たとえそれが多分に『東洋豪傑』風なものであったとしても)を二人とも、多かれ少なかれ、『浪人政客』の父親から、気質として受け継いでいたに違いないからである。」

この時代を担っていた人たちが「義に赴く気概」を持っていたことを知ると、現代の「小粒な」政治家も事業家も単なる「金の亡者」に見えてくると言うことを言いたいがためにあえて引用した。

まもなく、「種まき社」は講演と 同人総出で出演する演劇を一つにしたイベントを企画し、秋田雨雀などの助言を得て長い稽古に及ぶが、いざ開催の当日になって、当局から禁止をくらって実現できなかった。

それからしばらくして、大正十二年の春早々、耳寄りな話が舞い込んだ。中村屋が麹町平河町で、さる大名屋敷を買ったが、そこに大きな土蔵があり、相馬夫妻がその土蔵を何か文化的なことに利用したいと例の朗読会「土の会」のメンバーに持ちかけたのである。
その結果、土蔵を改造して小劇場とし、その際、「土の会」を朗読から劇団に発展させて、そこで定期公演をするということになったのだが、佐々木もその劇団づくりに誘われ、参加することになった。
この土蔵劇場は、小劇場運動の先駆となるという意味で、劇団名を「先駆座」と名付けることになった。
それこそ佐々木孝丸が、本格的な演劇活動へのめり込むきっかけであった。

ところで、上京してしばらくは秋田雨雀の家の近所にあった駄菓子屋の二階に住んで、親しく交わっていたが、手狭になったため、代々木の一軒家に引っ越しをしている。

「新しく借りた代々木の家は大山公園に近い三角橋のほとりで、庭なども相当に広く、門構えの、ひとり暮らしには勿体ないちょっとした中流むきの借家であった。」

ここに、「種まき社」の同人が集まり自ずから活動の拠点となっていった。特に妻が出産のために帰郷している間は、村松が自宅からわざわざやってきて原稿書きに使うやら、小牧ら秋田・土崎出身の連中が住み着いて、その姉妹をまかないに呼ぶなどしたものだから、しょっつる貝焼きはじめ郷土料理と秋田弁が飛び交う、さながら代々木梁山泊の様相を呈したといっている。

最初に掲げた「インターナショナル」の翻訳は、この代々木の家に住んでいるときにできたものである。
そのいきさつを書いている部分を引用しよう。

「……今日、労働者のデモや集会でおなじみの「インタナショナル」は、大正十一年の秋に、代々木の去る農家の藪の中で歌われたのが第一声だったわけで、そのときのいきさつを書き記していこう。
この歌は、もともと1871年「インタナショナル・ロンドン大会」やパリ・コミューンのあった年に、フランスの民衆詩人アルベール・ポティエが「労働者インタナショナル」に献じた詩をドゥジェイテルが作曲したもので、それが、革命後のロシアでは「国歌」のようなものになり、また、各国語に訳されて、労働者間の共通の歌になっていたものであった
種まき社では、この年十一月のロシア革命記念日を期して、日本語版「インタ」を大々的に歌いまくろうという案を立て、その歌詞の翻訳をわたしがやることになった。
「暴力論」で有名なジョルジュ・ソレル編集の「社会主義辞典」に歌詞と楽譜が載っていたので、わたしはそれから翻訳することにした。
……歌詞の翻訳ができあがると、我々は、友好団体の「前衛社」「無産階級社」「曉民会」などに檄を飛ばして、代々木大山公園近くの農家に集まってもらい、ここの藪の中で歌の練習をやった。

……ところで、わたしの翻訳が原詩につきすぎた逐次訳であった上に、一つの音符に一つのシラブルを当てはめていくという、歌曲の翻訳としては、はなはだ拙いやり方をしたのが原因だったのだろう、歌ってみると、どことなく間延びがして力強さに欠けるところがあった。……昭和の初めになってから、佐野碩とわたしと二人で、も一度全部改訳、というよりも最後のリフレインを除く外、原詩にこだわるところなく歌詞を作り直した。それが、現在歌われている「インタ」である。」

翌年の九月、近所に借り直した家で、旅から戻って疲れた身を休めていると昼時分になって、地面がぐらぐらっときた。慌てて家の外に飛び出ると、外にいた幼い娘(のちに千秋実夫人)が玄関の柱にしがみついて家に入ろうとする。こういう場合はかえって家の中は危ない。しかし、身を守ろうとする本能はとっさにこんな反応をするものだと大正の震災の思い出とともに妙に感心して記している。

この震災で代々木は大して被害はなかった。
しかし、下町は火が出て十万人余の死者をだしたことは周知の通りだが、混乱の中で起きた「亀戸事件」の全容をはじめて明らかにしたことは、詳細に足で取材して「種まき雑記」に書いた金子洋文の功績であった。

「余談になるが、伊藤圀夫君の家は千駄ヶ谷にあった。外をあるいていて朝鮮人と間違えられ、あわや自警団の竹槍で突き刺されようとするところを、その自警団に混じっていた酒屋の御用聞きのあんちゃんが「あ、この人は伊藤さんの坊っちゃんだ」と証明してくれたので、危うく一命をとりとめた。それで、圀さんは、翌大正十三年に築地小劇場が出来てこれに参加したとき、センダガヤでコレアンと間違えられながら命拾いをしたというので、芸名を「千田是也」と名乗ることになったという話。」

大山公園のこと

さて、佐々木が引っ越した「代々木大山公園」の三角橋にほど近い一軒家、というのが実は、僕が二十年住んでいた笹塚の家から近い、いわば散歩コースにあった。そこで「インターナショナル」がはじめて歌われた場所、佐々木孝丸が暮らした家、それがどのあたりにあったかに、僕は俄に興味を持った。
今、笹塚に住んでいたら早速行ってみるところだったが、あいにく二年前に引っ越してしまった。

「代々木大山公園」は、小田急線「代々木上原」の駅から笹塚―幡ヶ谷方面に登っていく坂道の途中にある。僕は車で通り過ぎるだけだから、中に入ったことはない。道路から見える手前には樹木が多く遊具などもあるが、奥には野球場が二面もあるという広大なものらしい。隣は江戸時代からある代々幡の斎場に接している。

この坂道を登り切ると、暗渠になっている玉川上水を小さな橋で渡る。と、すぐに東京消防庁の訓練施設に突きあたるT字路になっている。その橋の名前はすぐに思い出せなかったが、代々木方面から登ってくる複数の道と交差している玉川上水には、その分だけ橋がある。
「三角橋」はどこかで聞いたことがあったが、その橋の中の一つに違いないと思っていた。なにしろ「代々木大山公園からほど近い橋」と言えば、川は玉川上水しか頭に浮かばなかったからだ。

ところが、この玉川上水にかかっている橋を笹塚から幡ヶ谷、新宿近くまでたどってみても「三角橋」の名は現れない。
はて、この三角橋は、どこにあるのか?いまでもあるのか?

さあ、そこからが、この話の第二節になっていくのだが、ちょうど時間になりました。この続きはまた来週のお楽しみ……

佐々木孝丸が、雑司ヶ谷の秋田雨雀の家の近所から代々木に引っ越したのは「種まき社」同人となったころだから大正十年のことだったと思う。

「新しく借りた代々木の家は大山公園に近い三角橋のほとりで、庭なども相当に広く、門構えの、ひとり暮らしには勿体ないちょっとした中流むきの借家であった。」(佐々木孝丸「風雪新劇志」)

この「大山公園」が、二年前まで僕が二十年ほど暮らした笹塚の家から近い散歩コースになっていたために、「その借家がどのあたりにあったのか俄に興味を持った」と書いた。何しろ、あの「インターナショナル」が、翌大正十一年の秋、日本ではじめて歌われた「農家の藪」があった場所である。これが、四十五年前の学生が知っていたらみんなで石碑でも建てに行ったところかも知れないのだ。

その大山公園は、小田急線代々木上原の駅から北の方角、幡ヶ谷方面に登っていく坂道の途中にある。登り切ったところはt字路になって東京消防庁の訓練施設(消防学校の一部)に突き当たる。道は突き当たる手前を小さな橋で渡るのだが、川は暗渠になっているから、このT字路の信号機に「常盤橋」という看板が見えてもそこに橋があったか気づかないかもしれない。

川というのは玉川上水のことである。
暗渠の上はずーっと緑道になって、幡ヶ谷ー初台方面にのびている。

はて、「三角橋」はどのあたりにあるのかしら?と思ってざっと調べてみたが、玉川上水をたどってみても見つからない。

「三角橋のほとり」という以上は、川がなければならない。では、大山公園の付近に玉川上水以外の川が流れているのか?
あのあたりをくまなく歩いたわけではないから外に川があるのかも知れないと思って、目を皿のようにして地図を見たが、大山公園のあたりに玉川上水の外、川など見つからない。
これはおかしいと思って、「もとい」とばかり、笹塚から詳細に玉川上水を追いかけて見ることにした。

玉川上水は、代田橋方面から笹塚駅の南に向かって、家の軒先が触れるような住宅地の間を流れてくる。途中、開渠になっているところがあって、人ひとりようやく通れる小道から金網越しに覗くと錦鯉が悠然と泳いでいるのが見える。結構な水量と透明な流れにはこの川は今も生きているというちょっとした感動を覚えるものだ。

駅近くに来るとさすがに暗渠になっていて、これが南口に突き当たらんばかりに近づいたとたん、北東に向かっていた流れを俄にV字ターンとばかり、真南へ変える。変えてすぐに、京王線と平行して通っている一方通行路にかかった橋、これを「第三号橋」というらしいが、その下を出たところで再び開渠となる。

ここから百七十メートルばかり、雑草の生えた土手の間をか細い流れが南に向かっている。土手に桜の木が何本かあって、春になると一時花やかになるが、すぐに草が生い茂りとても「さらさら行く小川」(あの童謡はこのあたりの風景を歌ったものらしい、と近所の誰かが言っていた。)という風情ではない。駅の手前では錦鯉が泳いでいるというのに、どういうわけかここまで来る間に流れはずいぶんやせ細ってしまう。

金網で仕切られている土手の両側に道はあるが、西側の小道は途中から車が通れないほど狭くなっていて、僕の住んだ家はその先にあった。駅から歩いてせいぜい五分程度である。桜が終わってしばらくすると土手の草を刈る機械のきーんと言う音が聞こえて、緑色の生臭いにおいが漂ってくる。雑草の生命力は相当なもので、放っておけば、川面が見えないどころか、下手をすると小動物が住み着いてジャングル状態になりかねない勢いである。
この音とにおいが漂ってくると、ああ、今年ももうすぐ夏だなあと言う感慨がわいたものだ。
家の前の道を南に向かうとまもなくT字路に突き当たる。その左に、昔は結構な門構えの屋敷があって、古い木造家屋の屋根とうっそうとした庭木の人気のない様子が塀越しに見えた。聞けば、持ち主はどこぞの大名につながる家系の裔らしく、老婦人がひとり住んでいるという噂はあったが、その近くに僕が住み始めてまもなく機械が入ってあっという間に取り壊されてしまった。
川と隣接している跡地には、八階建ての立派なマンションが建って、分譲がはじまったと思ったらすぐに完売してしまった。何しろ駅から近いのが取り柄である。

T字路からこのマンションを左に見て少し東に進むと「笹塚橋」を渡る。駅近くの「第三号橋」から開渠というのは、この「笹塚橋」から二、三十メートルほど先までである。「笹塚橋」に立って下流をながめると、流れは鉄格子で仕切られた暗闇のむこうに消えている。
右側の一角が階段になって土手の下におりることができるのだが、入り口の鉄柵には鍵がかかっている。この部分を地図で見ると、ちょうどこの階段にあたる右側三分の一程度が、不思議なことに水が流れていることになっている。つまり地図によると、階段がなく、その少し先まで開渠ということになっているのだ。そのため、左側の暗渠に入る流れと、地図で見る右の流れが二筋あるように見える。 何故、グーグルマップがこうなっているのかはわからないが、右の階段のコンクリートが比較的新しいところを見ると、最近になって、この二手に分かれる流れの一方を階段でふさいだのかも知れない。

すぐ近所に暮らしていたのに、そんなことにはまったく関心がなかったから、この橋を通るたびに、ただ、薄暗い暗渠の入り口をどんよりとした印象で見ていただけだった。

玉川上水は「笹塚橋」をくぐったとたん、渋谷区笹塚一丁目から世田谷区北沢五丁目へと地番を変える。つまり「笹塚橋」を渡る狭い一方通行路が区の境界線になっているのである。
そこから上水の西側は、金網の近くまで住宅が迫ってきていて、人ひとりが通れる小道がついているだけだ。東側も金網で仕切られているが、車の往来はできる狭い道路になっている。(この道は午後三時から七時までの間、僕の家に帰る唯一の迂回路になる)玉川上水の上は、蓋をした分だけまわりより一段高くなって、植栽も目立たず、殺風景な印象の土におおわれた通路である。ただ、夏になると上水と平行して通る北五商店街から中野通方面に抜ける橋のたもとに、櫓がかかり、商店街主催(だろうと推察するが)の盆踊りがあったりして多少賑やかになる。ただし、この商店街自身が商店街を名乗るにはおこがましいほど店数もなく、あたりは人影も少ない、いたって地味なところだ。

この橋は、世田谷区と渋谷区を結ぶ重要な橋なのに、何故かどこを探しても名称がない。名無しの橋である。
上水はさらに南下して井の頭通り方面に向かう。西側はびっしりと住宅が並び、上水を東西に横切る橋はどこにも見あたらない。名無しの橋から先「玉川上水第二緑道」の東側は狭くなって歩道が伸びているだけである。やがて、広大な特別養護老人ホームの裏をまわって進むと緑道は不意に中野通に出てこれを東に向けて渡る。つまり玉川上水は、井の頭通りの大山交差点方面へ抜けると見せかけて、その手前を今度は北東方面にUターンするのである。

最近、二十年以上も通っている歯医者に行く用が出来て久しぶりに笹塚に行ったついでにここを歩いてみた。余談だが、二十年かかって、僕の歯の大半を抜いてくれた(頼んだわけじゃないが)歯医者だから今さら変える気にもならない。愛想はないが電車賃が気にならないほど腕はたしかで、昔百万もかけて入れた金属を、なんじゃこれは!とこともなげにべりべりはがし、どこかにやってしまったが、そのあと費用は驚くほど安いから文句は言えない。
それで、第二緑道を歩くと、両側は車が通らないから静かで何となくのんびりした気分になる。ちょうど特別養護老人ホームの裏手にあたるところに看板が出ていて、トイレは老人ホームの中にあるからそこでやってくれと書いてある。
のんびりついでに用を足したくなっていたので、その老人ホームとやらがどんなところか覗いてやろうという好奇心満々で裏口の大きな自動扉を開けて入った。こういうところは金持ちの終の棲家だから、防犯はしっかりしているはずだと思っていたが、とおりすがりのものがトイレを借りに入っても、誰も関心を持たないらしい。

それにしても、実にゆったりとした設計で、運動のマシンが様々揃っている空間があったり、職員のいるスペースにも余裕が感じられる。居住施設は二階にあるのだろう、昼寝の時間だったからかも知れないが、老人の姿はほとんど見えなかった。こんなところで何不自由なく老後をすごせたらなんぼか楽だろう、なあんて全然思わなかった。こういうところは、老人だらけで不愉快なだけだ。親の面倒を見たくない子供にとっては、願ってもない施設だろう。

もとい。
第二緑道の出口、中野通から幡ヶ谷方面に向かう道の交差点に「五条橋」とあるのは、そこに玉川上水を渡る橋があるからだ。ただし、橋らしきものは見あたらず、中野通りを渡ったところに石の柱が二本立っているのは「北沢橋」のなごりで、その向こうに「四条橋」があり、「五条橋」は次に大山町の住宅街から延びてくる道にかかっている。さらに「六条橋」があって、次が代々木大山公園から登ってくるT字路にかかった橋、あの最初に書いた交差点「常盤橋」である。

代々木大山公園のあたりは、もともと国有地だったのか、かつては高等師範学校時代かあるいは東京教育大になってからか、その体育学部があったところに国際協力機構(JICA)の施設や独立行政法人「製品評価技術基盤機構」それに東京消防庁の消防学校やらその寮、グランドなどの施設ができている。また、背後には江戸時代からあったという火葬場の場所に、いまは立派な代々幡斎場の建物がたっていて、住宅が密集している間に忽然と姿を現すのには意外の観がある。

JICAの宿泊施設の前の道が玉川上水を渡るは「相生橋」、その先代々幡斎場へ向かう道にかかっている橋は「代々幡橋」、さらに西原小学校に突き当たる道にかかっている「山下橋」(この橋は山下汽船に由来する)次に上水を渡るだけの「美寿々橋」、そして、京王線「幡ヶ谷」駅方面から来る道にかかっているのが「二字橋」と続いて、玉川上水は甲州街道沿いを初台方面に向かっていく。

佐々木孝丸が「大山公園にほど近い三角橋」と言っているのが、幡ヶ谷をこえるとさすがに「ほど遠く」なってしまって、それ以上調べてみたが、「三角橋」は新宿に至るまで現れなかった。

ところで、話を元へ戻すようで恐縮だが、笹塚駅目指して流れてきた玉川上水が、突然真南にV字ターンするのを、長年そのすぐそばに暮らしていたというのに不思議とも何とも思っていなかったのが、この「三角橋」探索を機会に「何故か?」と思うようになった。
そう思ってみると、そのわけはすぐに判明した。
笹塚駅を北に出ると、すぐに甲州街道である。この甲州街道に立って新宿方面をみるとかなりの坂道を下ることがわかる。道はどんどん下がって、やがて中野通との交差点、幡ヶ谷と接するところが最も低くなり、それから先はまた東に向かって上り坂になるのだ。甲州街道本線は、この低地に高架を渡して中野通と立体交差している。そのくらいここはくぼんだ土地なのである。

この低地は、江戸時代から牛ヶ窪といわれたところで、この文を書くのに大いに参考にしたブログ「時空散歩」には、「この地は雨乞い場でもあり、また、牛裂の刑を執行する刑場跡でもあった。牛窪地蔵が祀られたのは宝永・正徳年間の疫病を避けるため。地蔵尊の祠、といっても現在は結構モダンな造りとなっているが、その脇には道供養塔、庚申塔が祀られる。」とある。

たしかに、ここを通るたびに、「牛窪地蔵尊」と書かれた幟がはためいて、ビルの谷間にひっそりとしかし現代的なデザインのほこらがあったのは覚えていた。そこにこんな由来があったなど、二十年間知るよしもなかった。太古、北前船が停泊する東北の港町から風に吹かれてやってきたデラシネの目(僕の号は、あまり人には言っていないが「渟風」だ。)には、いつかどこかで見たようなぼんやりとした風景の一つに映っていた。

面白いことに、調べもだいぶ後になって、文明開化のあと、牛乳の需要が高まったことを受けて、このあたり一帯(たぶん、今の新宿中村屋の工場から幡ヶ谷の玉川上水北側あたりまで)には牧場が最盛期で十一もあって、毎日新鮮な牛乳を東京市中まで届けていたという。あくまでも、牛に縁がある土地らしい。

余談だが、僕が笹塚に移り住んだ頃は、この低地から中野通が甲州街道を越えて南側に延びてきたあと、まるで通せんぼをするようにぴたりと道一面に塀が立ちはだかっていた。つまり、中野通は行き止まりだったのである。
僕は、この道がいつまで経っても開通しないので、大いに迷惑を被った。塀の間から中を覗くと、家はとっくに立ち退いているらしいが、もっと先に問題があるのか整地すら進んでいない。

中央区にあった僕の事務所までいくのに、まず一方通行を中央区とは反対の方向に相当程度走ったあげく、違う道を同じくらい戻って甲州街道に出る必要があった。「行きはよいよい帰りは怖い」とはよくいったもので、帰りは一方通行で元の道を通れないから、今度は違う一方通行の狭い商店街を通ることになる。

ところが、この商店街は、午後三時から午後七時まで通行止めになる。コンクリートの土台にさした進入禁止のマークが道の真ん中におかれてムカッとくるほど愛想もなにもない。ここを通ったらわずか百メートル先に家があるというのに、である。
そうなると、中野通の塀の手前にあるまるで迷路のように細い道(車がすれ違うためには、他人の家に頭を突っ込まなければならない)を教習場のクランクよりはるかに難しいハンドルさばきで通って遠回りしなければ、我が家にはたどり着けないのである。
風邪で高熱を出しながら通ったときなど、ぼーっとしていたせいで道に張りだした電柱に車の横っ腹をこすったこともあるくらいだ。

これをずうっと迂回して例の大山公園から登ってくる「常盤橋」の方から戻る経路もあるが、当時は中野通がまだ工事中で(つまり塀の向こう)通るのが面倒だった。
たしか、2008年頃だったと思うが、これが大山の交差点まで開通して、実に立派な道路になった。ようやく、あの迷路に入り込まずによくなった上に、中央区にいくのに、井の頭通りに出て青山通りを行く方がよほどましで、渋滞にも遭わずにいけることが分かって、もっぱらこのルートを使うようになった。表参道を通るから気分がいいし……。

話を元へ戻そう。
玉川上水が笹塚駅に突き当たって南に進路を変えたのは、この牛ヶ窪があったせいである。甲州街道と中野通の交差点に水を溜めると南北に細長い楕円の池が出来るはずだ。玉川上水は、正確にその池の岸辺をたどり低地を回り込んでいたのである。
自然の川は、低いところを求めて流れるが、人工の川はそうは行かない。取水口の羽村から新宿大木戸まで十一里(43km)この間の高低差100m弱である。つまり1kmにつき僅か2mあまりを下げるという神業に近い土木工事である。窪地を避け、精妙ともいえる高低差を測って流すという難事業を一年もかけずに成し遂げたというから江戸時代の人々の技能がいかに優れていたかがわかる。しかし、夜、提灯をかざした人々を並べて土地の傾斜を測ったという言い伝えが残っているくらいで、実際にどうやったのかはよくわかっていないという。

さて、「三角橋」であるが、玉川上水にかかった橋でないとすると、このあたりに昔あった橋かも知れないと考えた。橋がある以上川がなければならない。すると川があった証拠が見つかれば手がかりになる。
そこで、グーグルマップで調べてみた。代々木大山公園は坂道の途中にあるといったが、たしかに、一帯は小田急線代々木上原駅北側に向けて傾斜している。駅は、南側が代々木上原というくらいだから高く、北側が渋谷区西原と渋谷区大山町に属する一段低い土地の境目、崖のようなところにある。
幡ヶ谷方面から西原の南にかけて住宅の間にいくつもそれらしき小道はあったが、暗渠であるかどうか判別できないし、あれは、高低差を知るにはほぼ役に立たない。

そのうちに、現在の住宅を取り除いた地形だけが分かる地図でもないかと探していたら、このあたり一帯は高台から南に向かっていくつか谷が切れ込んでいて、大山公園の裏手あたりが「狼谷」と呼ばれていたことが分かった。「牛ヶ窪」で股裂きの刑が行われていた頃この谷には狼がうろついていたというのだろう。その谷から幾筋かの小さな流れがわき出て、それが現在の代々木上原駅北側の低地に流れ込み、代々木上原の台地に阻まれて現在の代々木八幡の駅方向に集まり「宇田川」となって渋谷に流れ、やがて「渋谷川」となったらしい。
してみると、JICAの施設の中庭とおぼしきところに池が見えるが、それがここに言うわき水かも知れないと思った。
とはいえ、谷から湧いて出る川などわざわざ橋を架けるほどの流れになるだろうか?跨いでも通れるくらいの流れに橋を架けてご大層に「三角橋」など名付けるものだろうか?「三角橋のほとり」といかにも立派な具体的な橋が存在していそうな表現なのだ。

この頃になって、どうも俺は方向違いをおこしているらしいと思うようになった。
というのも、「三角」はどこかで見た記憶があったからだ。「三角」の次が「橋」だったかどうか覚えていなかったが、交差点の標識であった。ならば、調べはつきそうなものだ。と考えたとたん、「三角」の場所を思い出した。

山手通りを目黒方面から笹塚に向かって帰るとき、途中松濤あたりの三叉路から左へ向かって小田急線東北沢駅に向かう道がある。長い間、地下に高速道路を通す工事が続いてよく渋滞した場所である。左折してまもなく日本近代文学館、旧前田侯爵邸の門がみえる。通りの右側は、代々木上原二丁目で、左は目黒区駒場。まっすぐ行くと少し道が狭くなり右へカーブしている交差点があって、そこを進むと東北沢の駅脇にある小田急線の踏切を渡って井の頭通りに出る。
道が狭まるのと踏切を越えるのが難儀でここを通るのに躊躇することもあったが、なにしろ近道であった。
その難儀な場所に入り込む手前の交差点が「三角」なんとかであったことを思いだした。ところが、そんなところが佐々木孝丸が言っている「三角橋」であるはずはない。そのわけは、それが「三角橋」なら「代々木大山公園」はあまりにも遠いのだ。直線距離にしても800m以上はある。その間に小田急線の踏切があり、井の頭通りを跨いでさらに住宅街を突っ切っていくことになる。
「大山公園近くの三角橋」とあっさり書いているが、昔のひとの感覚でいったとしてもとても「近い」とは言えない距離がある。
それに、川がないではないか?
では「三角橋」の地名は何か川に関係しているのか?

この交差点は三叉路になっている。もう一つは井の頭線「池の上」駅に向かう細い商店街と交差しているのである。
いくら調べても、川に関する情報は出てこないし、商店街の説明も三叉路だから「三角橋」なのだろうといういいかげんなことでお茶を濁している。

そんなことだから、とりあえず、大正十年頃にここ「三角橋」に立ったら「代々木大山公園」はどのあたりに見えて、それが「近い」と言えるほどの距離に感じるかどうか確かめることだと思った。

大正時代のこのあたりの地図を探し出すのはそう容易ではなかった。国土地理院が保管している大正十年の地図のうち「世田谷」の区分図に、うまい具合に対象の部分は含まれていた。それで確認しようとしたが、解像度が悪くて細かいところが分からない。国土地理院に赴くとコピーを購入できることになっているらしいが、九段まで行くのもおっくうだから取りあえず分かるところまで確認することにした。

その地図によると、代々木上原は山林の間に畑が点在し、家はまだまばらであった。小田原急行が営業を始めるのは昭和二年のことで、井の頭通りも和田堀の給水場から渋谷まで水道管を埋設する工事と、せっかく掘り返すのだからその上を道路にしようと言う計画が進行中で、まだそれらしい道ははっきりしていない。

家屋は、現在の代々木上原の駅の周辺の道沿いに何軒か建っていて、たしかに「三角橋」とおぼしきあたり(現在の上原二丁目あたり)に住宅の影がいくつか見える。道の向かい側の駒場には東京帝国大学農学部の校舎と農場が広がっているばかりで人が住んでいる気配はない。
汽車に乗って大きな町を離れていくと家屋が途切れ始めて田畑が目立つようになり、やがて家は田畑、山林の間に点々と見えてくるという。あの郊外から田舎にかけての風景が、代々木の高台に展開していたと言うことなのだろう。

大発見でもないが、現在の小田急線代々木上原駅の北側には建物らしきものはなにもなく、地図によればここは山林ばかりが広がっている。そのために等高線がはっきりと見え、あの、代々木大山公園を右に見て幡ヶ谷方面へ登っていく道路は両側の高台から落ち込んでくる谷筋に沿ってつけられていたのである。谷は東側からこの道の途中に合流するもう一本があって、昔、狼がうろうろしていたという狼谷はそのどちらかであっただろう。
いずれにせよ、今の大山公園にあたるところに少なくとも「公園」らしき場所は見あたらないのである。

すると、今の代々木大山公園はいつごろできたものか?
佐々木孝丸が大正十年に引っ越してきた「三角橋」がその渋谷区上原二丁目と目黒区駒場四丁目、それに世田谷区北沢一丁目の接触する三叉路付近であったとして、「大山公園に近い」と書いた当の「公園」はどこのことをいったのか?
それとも、「大山公園」が代々木の別の場所にあって、そこにほど近い「三角橋」が他にあるとでもいうのだろうか?
いくらなんでもそれはないだろう。
ひとまず「三角橋」はここだと決めつけなければ、話は進まない。

それで、大正十年に「代々木大山公園」の姿が見えない以上、現在の公園はいつできたものか?あちこち調べてみた。
すると、この公園はなんと、戦時中の昭和十八年に出来ていたのである。大正十年頃、「大山公園」は影も形もなかったのだ。しかもおかしなことに、この公園の地番は東京都渋谷区西原2丁目53-1なのだ。何故、「代々木西原公園」ではなく、通りの向かい側である大山町の名称をつけたのか、謎である。

それよりも、佐々木が言っている「大山公園」は、明らかにこの公園のことではなかったというのは大げさに言えばショックだった。「三角橋」がおおよそ見当ついたとたんに今度は「大山公園」が消えてしまったのである。

それで、やっかいなことに大正時代に遡って「大山公園」を探し出さねばならなくなった。「大山公園」と引けば、「代々木大山公園」ばかりがやたらに出てきて、らちが明かない。これは困ったとと思っていたら、何かの会社の沿革に「これが大山公園の跡」と言う記述に出会った。

それがまた大発見であった。
大山町を散歩で通ったり車で通ったりするときに実に不思議な大邸宅があった。一軒一軒は松濤よりやや小規模といっても高級住宅街で名の知られた町である。その中でもひときわ目を引く大きな屋敷があった。御影石を磨いたような立派な石材を十メートルは超えていそうに恐ろしく高く積み上げた塀に囲まれて、それが東西150メートル南北に100メートルもぐるりと廻っているのである。途中僅かに壁が入れ子になったようなところの奥に出入り口が見えるが、執事か女中でも密かに通る隠し扉のようで、他といったら360度まるでとりつく島がない。北西の端っこにあるひっそりとした玄関は数寄屋風で石造りの塀には不釣り合いだが、高額な固定資産税を払っている他人様の趣味に文句は言えない。それで表札は?と探しても無駄であった。
どうせ、枕を高くして寝られない悪党か金持ちが住んでいるに違いないと思っていた。

昔、荻窪に住んでいた頃、近所にうっそうとした木々に囲まれた大きな屋敷があって、石柱で出来た門構えと右翼の大立て者を思わせる表札が異様な威圧感を醸していた。今にも足駄に袴、白シャツ姿の書生が飛び出して、何の用だと因縁を付けられそうな気がしたものだ。
それに較べると、こっちは思想性は希薄でIT成金くらいの軽輩を思わせる構えで、因縁どころか、うろうろしているところを監視カメラで捉えられて、狙撃でもされそうな冷たく怖い雰囲気である。

この屋敷が、その昔大山公園だったところだというのである。
そうだと知って、いろいろ調べてみると、代々木上原の駅北西の窪地は「大山公園」の池があったところ、また、そこから五十メートルほど北に行った例の谷底にあたるところに、どういうわけか現在も場違いな交番があって、そこもまた池の跡だという記事にも出会った。

すると、この大邸宅というのは「大山公園」の中核部分に過ぎず、もっと広い範囲で公園になっていたのであろう。
そうか、佐々木孝丸が「代々木の大山公園」といったのは、その「公園」のことをいったのだ。佐々木が昭和三十六年、著書にそう書いたとき、別の「代々木大山公園」が渋谷区西原2丁目に存在することを知らなかったか、あるいは、大正年間に「大山公園」と言えば、ここのことを指しているのは自明であろうとしたものか?
いずれにしても、ここであったなら、「三角橋」からは500mくらいで、当時は小田急線も、井の頭通りも細々と出来たばかりで、住宅もまばらだったろうから、目と鼻の先といえるくらい「ほど近い」距離だったに違いない。ずいぶん紛らわしい書き方をしたものである。

それで、今度はこの「大山公園」がどういうものだったのかを調べにかかった。
取りあえず、どういう範囲に公園は広がっていたのか?
国土地理院所蔵の大正十年発行「世田谷」の地図には「大山公園」の記載はなく、このあたり一帯は家屋の影もなくただの山林を示しているに過ぎない。
そこで、大正時代の地図を他に探してみたら、測量は必ずしも正確ではなさそうだったが、大正十年より少し前の地図が見つかった。
それによると、「場葬火」(現在の代々幡斎場)のすぐ下に「園山大」とあって、もしこれが「大山公園」の中心なら、現在の「代々木大山公園」にもかかっていることになる。しかし、大山町のあの大邸宅が中心だとするなら、この地図では、北側、つまり玉川上水寄りに偏りすぎていることになる。これはどう見ても適当に「大山園」はこのあたりと示したに過ぎないように思える。
いったい、この「大山園」はどの程度の広さがあったのか?この地図ではまったく不明であった。

ただ、ここで、一つ解決したことがある。
「三角橋」の下を川が流れていたのだ。
玉川上水は、現在の杉並区和泉のあたりにあった荻久保という低地を避けるために一旦代田橋寄りに流れを変え、ついで笹塚駅に突き当たってV字ターンで南下する。一旦開渠になって笹塚橋の向こうで再び暗渠になるが、その先で水路が別れ、一本は玉川上水、もう一本は北沢から三角橋方面にながれて農科大学の塀に沿って下っていくのである。
また、三角橋付近でもう一本池尻に向かって南下する水路も見られ、まさしく「三角橋」は川の三叉路でもあったのだ。

他にも、狼谷を水源として一旦代々木上原駅方向に流れ、谷に沿って代々木八幡方向に向かって宇田川となる川も確認できる。
あとになってブログ「時空散歩」でわかったのだが、笹塚橋の向こうで二手に分かれる水の流れは「三田用水」と言うらしい。
この「時空散歩」から引用する。(よく調べてあって感心した。)
「笹塚橋を越えると渋谷区から世田谷区に入る。笹塚橋の脇、三角になったコーナーが三田用水の分水口、と言う。最も、笹塚橋が記録に表れるのは明治39年(1906)であり、当然のことながら三田用水は、それよりもっと古く江戸の頃、寛文四年(1664)であるので、正確には三田用水の分水口付近に笹塚橋が架けられた、ということだろう。

(註:グーグルマップの笹塚橋をこえて暗渠になる手前で流れが二手に分かれているように見えるのは、そのせいだったか?)

三田上水
 玉川上水から分水された三田上水は、当初、三田、白金、北品川まで飲料水として給水され、その距離は10キロにも及んだ。亨保七年(1722)には、神田上水と玉川上水を除いた、青山・三田・千川上水が廃止されることになるが、それは、八代将軍吉宗の御用学者である室鳩巣が、当時頻発した江戸の火災の主因が、上水網による地脈の変化であるとの妄言を建白し、採用されたためである。その後、上水は沿岸の人々の要請により、農業用灌漑用水として復活。三田用水も亨保10年(1725)、1宿13ヵ村に農業用水として復活した。明治以降は、海軍火薬庫(現在の防衛省技術研究所)や恵比須ビールで利用されるも、昭和49年(1974)に、分水口は閉じられた。

三田用水の水路跡は残っていないが、小田急線・東北沢駅を越えた、東大駒場手前の三叉路は三角橋と呼ばれる。これは三田水路の名残の地名である。いつだったか三田上水の下流部を彷徨ったことがある。窪地を避けるために迂回したり、導堤を築くなど、工事は結構大変であったろう、と感じた。以下、簡単に流路をメモする;分水口<北沢五丁目商店街の通りの裏を南に下る>三角橋交差点(北沢川溝ヶ谷支流や宇田川水系の富ヶ谷支流の分水界のあたり)<東大駒場キャンパスの塀に沿って下る>山手通り<井の頭線の上を通過>松涛2丁目で旧山手通り<西郷山公園脇>鑓ヶ崎交差点を懸樋で渡る<別所坂を上り切ったあたり>茶屋坂隧道跡(平成15年に水路橋は撤去される)<起伏の激しい港区白金を迂回、導堤で進む(白金台3丁目12に堤跡;三田用水路跡の案内)>桜田通り脇の雉子神社(東京都品川区東五反田1丁目2)<高輪3丁目交差点あたりで二つに分岐>ひとつは南に下り、新高輪プリンスホテルをこえたあたりで東に折れ<品川駅前に降りる。もう一方は尾根道を北東に進み井皿子交差点を経由し三田3丁目に下り>慶応大学近く・春日神社あたりから東に進む。また、もうすこし北 に進み東に折れる水路もある、といったところ。」
どうです。詳しいでしょう。

佐々木孝丸が住んだ「三角橋のほとり」は間違いなくここだと断定してよいだろう。

そもそもこのあたりは江戸時代、将軍が鷹狩りをした場所で、駒場という地名はその馬をおいたことに由来するという。
ここから先は、「まちの記憶」(辻野京子、2003年8月、個人出版)に詳しいので、全面的に寄りかかって書くことにする。

明治になって、この一帯を木戸孝允が所有した。
「木戸孝允書翰集には、明治9年(1876年)12月の品川弥二郎宛ての手紙の中に「駒場、代々木合わせ八万坪ほどの地所二千七百にいたしもらい度云々」という下りがあり、『一昨年には三千円にもつき候ものが、値が下がり』と嘆いています。」

というわけで、桂小五郎も晩年には少々せこいことをいっていたようだが、ものの本によるとその後、青木周蔵に所有が移った。
青木は、ご案内の通り、大津事件の時の外務大臣で、演劇の方では三谷幸喜の「その場しのぎの男たち」で、滑稽で情けない男と描かれていたが、実際は陸奥宗光とともに不平等条約の改正に尽力した。
それより前、青木はドイツに医学留学し、後に専攻を法律と経済に変更したため召還されそうになったが、留学生は近代日本建設のために広く学問を吸収すべきという持論を展開し、ついには学生でありながらベルリン公使館の書記官、後に公使としてつとめた。

辻野京子さんは言う。
「彼は、当時ヨーロッパの貴族の大土地所有の事態を目の当たりにして、森林と荒蕪地によるプロシャ流農林業に感化され、折しも大名家の土地が放置されていた東京で、農場用にと土地の購入に努めました。」
なるほど、青木周蔵は、欧州貴族風農場経営をしたかったのだ。

ところが、辻野さんによると、
「実父三浦玄仲にあてた明治9年の書簡の中に「木戸家の地面は強く所望いたし候と言えども、い
ささか不都合に候間、決して不目立様にて~」とあり、結局この土地は青木周蔵の実弟、三浦泰輔のものになったようです。この人もドイツ農学校に留学し、帰国後、代々木村字富ヶ谷と上目黒村駒場に大農式農業、牧畜を行ったとされているからです。」
というわけで、青木周蔵はどうも手元不如意だったらしく、後に那須高原に土地を得て、望みを叶えたらしい。

この青木周蔵の弟、三浦泰輔がどういういきさつでこの土地を手放したものか不明だが、大正二年になって、鈴木善助なる人物がこの場所に広大な庭園をつくり一般に解放したのが「大山園」であった。
「大山園」がどんなものであったか、唯一残っている資料「東京府豊多摩郡誌」に次のような記述がある。

「代々木大山、西原に跨がり面積七万六千余坪、中央の庭園は二万坪に超え四周みな松林翆緑頗る濃やかに園内の楓桜春秋の色嫋やかなり、大正二年十月公衆のために解放して以来、園内三カ所に四阿を設け又到る所に休憩台を配し略ぼ公園の趣を成せり、夏期は南崖に男滝女滝をかけて銷暑に資す、蓋し郊外一日の清遊地たるを失はざるも、地やや僻して遊覧の客多からざるは惜しむべし。」

明治39年に開園した横浜本牧の「三渓園」と、自然を生かした景観は似たようなものだったと想像できるが、「大山園」はあれを上回る規模であった。
七万六千の平行根は約276、つまり二百七十六間=約500mである。現在の大山町と西原の一部を含む広大な公園が、あの「三角橋」の目と鼻の先にあったのだ。

鈴木善助がどういう来歴の持ち主か不明であるが、昭和10年には芝新門前町に住んで、まだ西原、新町にいくらか土地を所有していたようである。
鈴木のあと、紀伊徳川家の徳川頼倫をへて、大正の中頃には山下汽船の山下亀三郎が所有した。
山下は、浮沈の激しい事業家だったが第一次世界大戦の海運業で成功を収めたいわゆる船成金で、大山園を含む大山から西原にかけた十万坪を400万円で購入し、最初は城のような大邸宅を構えるつもりであったらしい。
しかし、自分の成金趣味を反省したのか途中で嫌になり、宅地として分譲することにした。

これが実現するのは、関東大震災のあと、都心から人が移り住むようになってからで、とりわけ昭和二年の小田急線開通によって加速された。

堤康次郎と山下亀二郎の関係はよくわからないが、大山町分譲は昭和十年から「コクド」と山下が組んで造成、販売が行われた。
山下は、閨閥を作るのに熱心でその関係は賢きあたりにまで及んでいたので「プリンス」が大好きな堤が近づいたのかも知れない。(というのはげすの勘ぐりか?)
それで「大山園」を何回かに分けて、分譲したのが今の渋谷区大山町だったのだ。現在の「代々木大山公園」は、その境界あたりになるから、ひょっとしたら、「大山園」の一部に含まれていたので、地番は西原だが「大山園」に敬意を示す意味で名称を残したのかも知れない。

ところで、あの謎の大邸宅は、実は山下亀二郎が別邸とするために売らずに自分で確保した土地であった。
戦後、レバノン人の貿易商A・H・デビスの手に渡り、現在はなんと、某アパレル会社社長邸になっているということがわかって、長年のどにつかえていたものがとれたように感じている。

某アパレル会社は多数の店舗を構えているが、せいぜい二十代から三十代の店員ばかりで、年寄りというものを見かけたことがない。ということは、年をとると店舗からいなくなって、どこか別の事務所にでも行くのかと思ってみても、それは考えづらい。つまりは年寄りはきっとやめざるを得ないのだろうと考えるのが自然だ。
案の定、この会社の離職率は相当高いと評判で、一説によるとブラック企業といわれているらしい。
こういう薄情な経営者は、やはり塀を高くして住まなきゃならないと思うものなのだろう。
新宿中村屋などとは格が違うといっても、なんだかむなしくなる世の中だ。どのみちさっさといなくなる身だからどうでもいいが、近頃この会社が日雇いの非正規社員を正社員にしたというニュースを耳にして、たまにはいいこともするものだと思った。
儲けた金をせっせと社員に配って、厚生年金も保険も負担しなければ、そのうち豪邸にも住めなくなる(かもしれない)とおそれをなしたのか?
そう、儲けを配らねば資本主義はやっていけないことを政府も認める時代だ。

佐々木孝丸が、「立て!飢えたるものよ……」と代々木大山公園近くの農家の藪のなかでうたった時代とは隔世の感がある。
その農家がどのあたりにあったかという関心から出発した過去への旅だったが、「大山園」があまりに大きく広かったために、また、わずか百年にも満たない間のあまりの変わりように、近代とは我々日本人にとって何であったかという思いに茫然とたじろいでいる。

一時期は、金で何でも買えるとか、会社は株主のものとか、時価総額とかうかれたこともあったが、それがつまらぬ考えだとわかったのか、経済学者とか評論家とかがTVに登場することも少なくなったのはいいことだ。
何が起きるか分からないが、ただ、この先、再び「飢えたるもの」が出ない世の中であって欲しいと願うばかりである。