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医療者がバーンナウトしないために必要だと思うこと

医療者はBPD者に操作されやすい。
それは医療者には感謝を求めてしまうような危うい心性があるからだ。とBPDの項で書きました。

人を助けたい、困っている人を放っておけない、
そんな惻隠の情が強い人が医療者には多く、
それが逆に人に感謝されたい、という危うい心性につながってしまいやすくなります。

そしてその心性によって、時に医療者自身も振り回され、傷ついてしまうことがあります。
それが限界を超えたとき、バーンアウトが起こります。


人を助けたい。それを生業にしたい。それによって感謝されたい。
それはあえて言えばスケベ心。
例外はありましょうが、それが嫌だという人は近寄らないのが医療者という職業です。

あくまで職業ですから、お金を稼ぐための手段です
感謝されるのはついでであってメインの目的ではありません
感謝されるのあくまで行きがかり上感謝されてしまうのであって感謝されるかされないかは給料をもらうための条件にはなりません。
役割を果たすのみです。

 誤解しないでくださいね。それがいけないと言ってるわけじゃないです。
私も医療者ですから。

ただ、そこの人を助けたいだとか感謝されたい、
というのはあくまでその医療者の方の欲求であったり願望であって、
当然のように感謝を求めてしまったり、
その支援される患者さんの変化を要求するのも違うだろうということです。

そしてそのことに無自覚でいると、
やりがい搾取にあったり、
バーンアウトに陥ったりしやすくなります 。

医療職のバーンアウト


しばしば新人看護師のバーンアウトによる離職などが話題になります。
ハードワークであるということと同時に、
自分が危うい心性を持っているということの認識と、
そのことの暴走をコントロールすることにに失敗して
離職していく人も少なくないと思います

医師で行けば、研修医からの「直美」「ダイレクト美容」もこのバーンアウトではなかろうか。
医学部を出たばかりの若者が達成感が得られにくい修行=放浪の2年間を過ごすわけで、
惻隠の情が満たされることも少なく、
「資格が使えて目先の報酬が高ければなんでもいいか」とモラルハザードを起こすのは、バーンアウト以外の何物でもないと思うのです。
まあその風潮に流される主体性の乏しい若者もいるとは思いますが、それは二次的なatmosphereの問題だと思います。

更には、医療者を続けたとしても、
患者さんに対する脱人格化もバーンアウトから来る問題です。
相対する医療の対象者、患者さんに対して人として、心をもった対象として扱うことが困難になる状態で、
一番ひどい状態であれば虐待にもなりますし、
医療事故やハラスメントが起きる種になります。


無自覚な惻隠の情は相手の変化を期待してしまう


私は、医療者がサバイバルしているためには自分の中の惻隠の情と、その裏腹の卑しさをある程度自覚しておく必要があると思ってます
極端に価値下げしてしまうと続けられなくなって離職してしまうでしょうから、
そこに絶望してしまう必要はありませんが、
ある程度の割り切りであるとか、
自分の役割をきれいごとにしないこと、
「聖職者」というようなおためごかしや色眼鏡から距離を取ること、
それがプロとして医療者として生き延びてるために必要なことだと思います。
 
自分の中にあるその危うい心性、スケベ心を自覚していかないと、
自分の働きかけに対して、当然のように相手からの見返りを求める心が生まれてきます。 
感謝の言葉を期待するくらいであればまだいいけれども、
相手に行動変容を求めるようなこと、
 患者さんの行動が変容して良くなるとか、
改善することをついつい求めてしまうようになりがちです。

でも、患者さんは患者さんでその状態が続いている理由があるわけで、
苦痛が軽減されれば変化を止めてしまったり、
また同じような状況に陥るような行動をとるのは良くある話です。

そこから起こり得る、よくあるパターンは
「私はこんなに頑張ってあなたのためにこうしているのに、なんであなたは変わってくれないんだ!」
と相手に対して怒りが生じてしまうこと。

 または献身的に尽くしたにもかかわらず、
相手が亡くなってしまったり、繰り返してしまったり。
そういう不幸な転機になることで
まるで医療者自身の努力が実らないように感じてしまい、
無力感に襲われ、
時にそれが自分自身や自身の職業性の否定につながり、バーンアウトしてしまいます。


治る病気と治らない病気、の話


医療者の働きかけがあろうとなかろうと、
変化しないもの変化しない。
亡くなる方は亡くなってしまう。
これは理の自然です。

つまり、医療者の働きかけというのは、やはりある程度報われない
それが報われるべきなんだと思うのは医療者の甘えであり、危うい心性の延長線上です。
 
世の中には2つの病気しかない。
医者がいなくても良くなる病気と、医者がいても良くならない病気だ
なんて表現もあります。

アンタッチャブルとしての医療者


歴史的に見ても、
かつて、病は祟りなどから来る”穢れ”であるとされ、
その穢れに触れることから、
医療や看護は”えたひにん”と言われる不可触民(アンタッチャブル)に押し付けられた役割でした。
時代が進み、そんな理不尽な差別もなくなり、
病を”穢れ”などと意識することはなくなっても、
病は非日常であり、隠すべきものという意識や、
病を穢れとしてとらえる思想というのは生き続けています。
コロナ禍での医療者への扱いを振り返れば自明でしょう。

自分事にしたくはないから、だからありがたがって持ち上げて、それを押し付ける。自分たちとは異質の存在として自分を守ろうとする。
”先生””聖職者”という言葉にはそのように通常の世界から切り離す要素が含まれています。

これも、それが間違っている!と言いたい訳ではなくて、
病という日常生活からの異物は自然発生的にそのように捉えられ、
それを扱う専門家は異能者とされるのもまた自然なことだと思うのです。

自覚的でいよう


我々医療者に必要な事は、
自分のなかの危うい心性に自覚的であること、
病というものの見え方、それに携わる自分の立ち位置についても自覚的であること、
そんなことなんだと思います。

で、いやだな、と感じたら、
その不満を吐き出せるような、
自分の安心できる、同僚とのピアサポートや、
コミュニティ、サロンを持つこと。

それがバーンアウトを防ぎ、
脱人格化などの危険な流れから自分を守ってくれる。
当たり前ですが、それが王道なのだと思っています。

この項ここまで
(そんなコミュニティに参加しようとして馴染めずな翌日に記す)

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