わたしたちは主観を殺して生きている
わたしたちは主観を殺して生きている。自動販売機の黄色がかった照明に照らされながら、ふとそんなことを思った。設置から3、40年ほどだろうか。外装は黄ばみ、その色が過剰なくらい板についている。そのためか、かつての白さを忍ばせることはない。パッケージを陳列したガラスには、木の枝によく似た亀裂が走っている。メビウスが450円、キャメルが430円。現代風のパッケージがどこか痛々しい。わかばは500円。安煙草の代表選手が、今となっては形無しである。そんなことにすら無常を感じて、胸の奥で潮騒が呻いた。無地のパッケージにひらがなで「わかば」とだけ書いてあるのが潔い。どこか時代錯誤さを感じさせるそれに、暗闇を漂う幽霊みたいなぼやぼやした照明がよく似合っていた。
わたしたちは、受動喫煙幼少期のたぶん最後の世代だ。少し誇張した。正確には、最後の方の世代だ。小学校に上がった頃、受動喫煙、分煙、禁煙、そんな単語を徐々に耳にするようになった。学校で定期発行された保健誌の中で、ニュース番組で、週の後半の夜に放送される討論番組で。ともかく、喫煙者への世間の風当たりがちょうど強くなった頃だ。正しくないもの、汚いもの、有害なものは須く排除するのだ。そんな誰のものでもない声を聞いた気がした。居間で作業する祖母の姿が思い出される。冷めて酸っぱくなったブラックコーヒーを飲みながら老眼鏡越しに新聞を読む姿。2週間くらい前の新聞を幾重にも重ねて、名前も知らない丸いお椀みたいな仏具から線香の灰と燃え残りを掻き出す姿。次に思い出すのは、わたしのせいで不機嫌になった父の姿だ。わたしは学校の宿題をちっともしない子どもだった。そのせいで、父は度々機嫌が悪くなった。緑色のラベルの発泡酒を飲んで、低い唸り声みたいな煙を吐き出し、灰皿の縁で落ち着かなげに灰をととっと落とした。背中越しで表情は見えない。けれど父が怒る時の、純朴で実直な人間の顔が繊細に傷つけられた時の顔を、わたしはよく知っていた。
ともかく、そんな幼少のあれこれを、まだ浅く踏み固められた狡猾な稚児の心で型取りされたあれこれを、煙草のにおいと一緒に思い出す。煙草の有害さと一緒に。受動喫煙の健康被害と一緒に。型取りされた過去の出来事の上から、灰色のペンキで大きくバッテンをつけられる。どれだけ心に痕跡を残すものだったとしても、正しくないものは否定されるしかない。
公の正しさのもとで、主観は否定され続ける。ある人は恋愛市場で自分の客観的な価値によって自己評価を否定され、またある人は公の場で憂鬱な顔を浮かべることを否定される。あるいは、自分の言葉ひとつ並べるのにも根拠つけを行い、想定されうる反論に対する反論を用意し、断言を避け、留保し、理論武装と予防線を幾重にも重ねるしかない。そんな営為の中で、わたしたちの主観は歪み、客観性の膜に覆われ、いつの間にか自分自身ですら当初の形を思い出せなくなって、喉が開かなくなる。
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