他人への期待感・自他の境界の曖昧さ
私は人と関わる仕事をしていた。そこで良好な関係を作れる人と良好な関係を作れない人がいた。また、私の短気が理由で人間関係のトラブルになることがあった。
その根本に他人への期待感や自他の境界の曖昧さがあるということが腑に落ちたため記す。
前職では顧客相手に物事を教えるようなことをしていた。その時、相手を下に見てる上に見てるなんて考えたことはなかったが、振り返るとおそらく相手を下に見ていた。その根拠として、同僚については苛立つことが多々あった。同僚は私と同じような立場におり、知識を有しているはずなのに不適切な説明を行ったり、不適切な行動等を取っているという事に対して気持ちを乱していた。話は戻り、お客様に対しては知識を有していないと勝手に判断して下に見ていたのだろうと考える。勝手に下に見ていたため、良好な関係を築けていたと振り返ると思う。
なぜ、他人への期待感や自他の境界の曖昧さが人間関係を築く時に足枷になっているという答えに立ち止まることが出来たのだろうかと言えば、私の短気さにあった。
私は出来るのに、同僚はなぜ出来ないのか?といった所から次第に苛立ちに変わっていた。ここに上下関係を用いると、私は下、同僚は上という関係性を脳内で作ってしまっていると考えることができた。それを更に考えると自己肯定感の低さが関連してると言えるはず(明確な根拠はないがこの前提で進めていく)。私は人間を自分含めて大きく3つの層に分けて区別していたのだろう。勝手に見下していた人たちを下の層。自分自身を真ん中の層。同僚などを上の層とする。層を優劣として考えてもらっても良いかもしれない。そう考えると、私より上の層にいる同僚が、私より出来ない状況を見ると、なぜ?というを疑問を抱いてしまっていたということが腑に落ちる。その疑問が次第に苛立ちになっていたのだ。つまりは、同僚を勝手に私より出来る人として捉え、勝手に期待して裏切られるを繰り返していた。私は期待を裏切られると悲しみや苛立ちなどのネガティブな感情が生まれる。そのため苛立っていた。
これを少し別の視点で見ると自他の境界の曖昧さとして捉えることが出来る。私を周りの人間が包括しているといった表現になる。出来ること出来ないことで表現するなら私の出来ることを同僚は出来て、プラスαでその人なりのことが出来ると認識しているというようになる。自他を切り分けることが出来ていないためこのような認識になっていると言える。当たり前だが、同僚は私とは別個体であり私を包括していない。
まとめると自己肯定感が低いことにより勝手に他人の立場や評価を上げていたことや自他の境界の曖昧さによって勝手に他人に私を包括させていた。そのため苛立っていたということになる。この答えに立ち止まることが出来てすごく腑に落ちて人と関わることが楽になった気がする。まとめた内容を掘り下げると私の環境から紐解く必要があるため、書きたくなったら残すこととする。
私は忘れっぽいため、見返すという意味と、いるか分からないが私と同じような人がいるならば少しでも楽になってもらうための契機になれれば嬉しいと思い残す。