KANタービレを心のどこに置くのか
※現実的な表現があります。ただ、そういった表現を肯定するに至ったプロセスを記しています。
2024年11月12日、私はKANタービレに参加することができた。
心ある友人(と、もう呼ばせてもらいたい)のおかげで、私はそのチケットを手にすることができた。
会場に集うたくさんの人、人、人。羽の生えている人、KANさんのグッズを身につけた人、KANさんに扮している人。もしくは、そういった物がなくても。
ホストやゲストアーティストのファンもいたことだろう。
とにかく、「KANタービレ」という看板の下に多くの人が集まった。彼は、そういう人だ。
各アーティストの名演については、ここで個別に触れることはしない。感じ方はそれぞれだし、評価することはひとまず置いておきたいというのが私の今の気持ち。
ではここで何を記したいかというと、KANタービレというこの集いを、心のどこに配置して、どう受け取ったらよいのか、ということ。
これをこの1週間、少しずつ咀嚼して、ようやく少し消化がはじまったからである。
1年前の、悲しいという言葉では表しきれないあのニュースに、多くの人々が驚き、困惑し、嘆き、後悔し、戸惑い、ひとりでは抱えきれない感情を持ち寄ったりもした。
KANさんに関して、「訃報」「命日」「逝去」という表現を嫌い、避ける人も多かった。
それは紛れもなく、己の心を守るためにその人にとっては必要なことだったのだろう。
しかし、一般的なニュースやプレスリリースは当然「他の星に異動した」などと洒落たことは言ってくれない。そこに怒りを表明する人も多く目にした。
やがて、彼の仲間が語り出した彼の最期については、実に生々しく、彼がもうこの星にいないことをたたきつけられるようで、辛い思いをした人も多いだろう。私もそのひとりだ。
でも、私の場合、KANタービレを経た今は少しずつ受け入れられるようになっているし、そうすることが前を向くためのステップだと考えている。
何より、彼の「人生」という作品を真正面から見つめようとした時、始まりがあるならば、必ず終わりがあるのであって、「終わり」から目を背けたままでは彼の人生を全力で称賛することができない、と私は感じたからだ。
それを思ったのは、KANタービレの最後、「愛は勝つ」でモニターに映し出されたKANさんの幼少期・青年期の写真の数々を思い出したからだった。
幼いKANさんがピアノに向かう姿は、きっと第二章くらいかな。
熱く情熱的な旋律を奏でた中盤の章を過ぎ、いくつもの盛り上がりを経て、突然訪れた最終章は、未来への余韻を残したまま急に終止符が打たれてしまった。
もちろん悲しみが消えてしまうことはないのだけれど、彼が「いい曲だねぇ」と絶妙な笑顔をたたえながらホスト・ゲストたちの演奏をひっそり見ているように思えたとき、「木村和の人生」「KANの楽曲」の両方を、それぞれ別の目線で愛し、語り継いでいくこともまたひとつの(私の)これからの生き方ではないかと考えるようになった。
奥様をはじめとするご家族や、病床を見舞った親しい人たちは、私が逃げ回っていた「死」という未知でおそろしいものと真正面からぶつからざるを得なかったはずだ。
何より、KANさん本人がいちばんそのおそろしさや絶望と向き合い、遠くなっていく希望に手を延ばし続けたのではないか。反対の片手には愛する人の手を握り続けて。
ちっぽけな私が、そのおそろしさに、悲しさに、絶望に思いを馳せることに特に意味はない。誰に勧めるものでもない。
でも、私は私の意志で、彼の最期を見つめてみたいと思ったのだ。
やがて自分も向き合うことになる現実に、自分の大切な家族が辿るであろう道に、すこしでも彼の「あり方」が生きていてくれるようにと願って。
人は悲しみを受け容れるまでに、さまざまなプロセスを経るという。
詳しくはリンク先に譲るが、以下のような5段階に分けられている。
この考え方は、本件に関わらず私を助けてくれた。
今自分がどこを歩いているのか、そのマイルストーンとなってくれた。
この5段階は、決して一方通行ではなく、進んでは戻り、また進んだりする。だから、いったん抑うつに至ったとしてもまた怒りがよみがえったり、神仏にすがったりするケースもある。
だから、まだ立ち直れない自分はダメなんだ、とか、いつまでもクヨクヨしていてはいけない、と自分を責める必要もない。
KANさんは「僕はどの宗教もすきだよ」と言っていたと聞いた。実に彼らしく、すてきだ。
我々もまた自由なもので、多摩川にいっては彼を感じ、ポップコーンに心躍らせ、空に浮かぶ羽のような雲に「会えた」ような感覚を得て、銀座でおいしいカレーを食べては彼に思いを馳せる。
そうした日々のひとつひとつが、受容を深め、癒しとなり、彼への愛が変わらずに、より深まっていくことを肯定してくれるのかもしれない。
これはXにも記したことだが、悲しみが消えていくことと彼への愛が消えていくことを混同しないでいたいと思っている。
この悲しみを手離してしまったら、自分の中からKANさんがいなくなってしまうような、そんな不安を持ったこともあった。
でも今は、KANタービレのおかげで、彼の「不在」をあらためて認識し、「悲しみを見送りながら」一歩進んでいくことができそうな、そんな感覚を得ている。
こんなことを書いているが、KANタービレでは滂沱の涙を流し、タオルを口にあて嗚咽の音が響かないようにしていたのもまた私である。
それに、「悪い夢だったらいいのに」と、今でも思う。
KANタービレという場は、奇跡のエンターテイメントショーであったとともに、KANさんが奥様に伝えた「3回お葬式をしてほしい」という言葉の3回目であったのだと考えている。
愛する夫のそんな言葉を聞いた時の奥様の心境を思うととてもつらいけれど、彼女はKANさんの関係者たちとともに、彼の夢を叶え、ライブツアーの映像やベストアルバムを私たちの手に届けてくれた。こんなにありがたいことはない。
「お葬式」という言葉はやはりあまりにつらいが、KANさん自身がそう話したのであれば、私はそのまま綴りたいと思って記した。
しかし、その響きは「KANタービレ〜今夜は帰さナイト〜」というこれ以上ないネーミングに昇華され、素晴らしい音楽家の友人たち、関係者、そしてファンを一堂に集め、そこに再会や出会いや語り合いをもたらした。
何より、彼の楽曲が(彼の言葉を借りれば)「いい曲だねぇ〜」ということを全員で共有する場であったように思う。
一方で、参加できなかった、しなかった方々も、その選択や事情を後ろめたく思うことがなければよいなと思っている。
KANタービレに参加することだけが、彼を思う方法ではないと、ここ数日いろいろな人のいろいろな文章を読んであらためて感じた。
一歩外に出て、空を見上げて彼を思うことだってできる。彼の「僕はどの宗教もすきだよ」は、そういった形にこだわらない愛し方を内包しているのだと考えている。
もし参加しなかった・できなかった方が、いつか映像としてご覧になる日がきたら、それがあなたにとってよいものであるようにと願う。
私は、KANタービレを3段階目のお別れとして捉えるとともに、どう感じてもよい、という精神の解放として心の中に置くことにした。
誰に強制するでもされるでもなく、でもなるべく誰も傷つけないような表現で、私には私なりの表し方で、これからもKANさんという人を思っていきたい。
「いい曲だねぇ〜」
そう思いながら、なんどもKANさんの楽曲を聴いて暮らしていきます。