Turn the lights back on にKANさんを想う
ビリージョエルの新曲が発表された。
何度か聴いたが、こんな試みをしてみた。
脳内でKANさんにカバーしてもらおうと。
KANさんの声はいくらでも脳内で再現できる。半生をかけて聴いてきたのだから。
だが、ダメだった。
やはりKANさんのすべてをかけて、KANさんが音楽的に分解して、再構築して、音にして声にして初めてそれはKANさんのカバーになる。
無力だ。
だけど、その工程を経ていくつかの発見があった。
今まで当たり前に愛してきたKANさんの姿、仕草。
いつも弾き語りの時は下手側に座っていましたね。
マイクに口をほぼくっつけて歌っていましたね。
高音でおでこにしわをよせて、少し首を傾げて歌っていましたね。
低音では少しあごをひいて、喉仏をおろして。
歌のない部分では盤面に目線を落として少しほほえんでいましたね。
リーディンググラスをかけるようになってからは、曲に入る前にお上品に装備して、歌い終わると丁寧に置いておしゃべりをしてくれました。
少し早口の「ありがとうございました、KANでした!」の挨拶。
また会えるかな。また会えるよね。
と思っていた。
まさかビリージョエルの新曲を聴かずに遠くにいってしまうなんて。
ずっと、ビリージョエルとは我々KANさんのファンにとって何者なのかを考えていた。
ビリーのコピーでは決してないし、かと言って影響を無視できるような存在でもない。
先日の東京ドームライブでのUp Town Girlを聴いて愛は勝つを思い出さないわけがないし、
Longest Timeを聴いてKANのChristmas Songを思い出さないわけがない。
かと言って、私はビリーの音楽が一番に好きかといえばそれは違う。
決してビリーはKANさんの上位互換ではないし、逆もまた然り。
違う人間だもの。それはそうだ。
でもどう捉えればいいのか悩んでいた。
KANさんはビリーのことを、「ビリー・ジョエルという存在・演奏・その作品のすべてが私にとって“正しい”手本であるからです。」と綴っている。
では私たちにとってKANさんは?
私は音楽家ではないから、手本にすることはできず、ただただ憧れ、聞き惚れ、共感し、救われてきた。
今のところ、それ以上の答えは持てていないし、これからも何かうまいことを言える自信はない。
けれども、ビリージョエルという人が存在するこの地球に、木村和という人が生まれ、生き、音楽に巡り会ってくれたことに感謝の念を禁じ得ない。
木村和という青年がやがて音楽家として一定の成功をし、私の耳に届き、私を支えてくれたこと。
たくさんの人を支えたこと。
たくさんの音楽家に、また影響を与え、それに支えられる人たちがたくさんいること。
ビリーは
I'm here right now
と高らかにうたう。
サビではアルペジオが叙情的に響く。
KANさんだったらどんなふうにうたうんだろうか。
どんなピアノを弾くんだろうか。
その単純な好奇心が満たされることは絶対にない。
KANさんは違う星にいった、と表現する人々の気持ちはとても理解している。私もそう表現するようにしている。
しかし、同時に
KANさんが死去した
という事実と向き合うことの重大性をこの2ヶ月弱で日々痛感している。
彼が生前(この言葉を使うのにも少し躊躇うが)綴った歌詞にこの絶望を見出してなぐさめたりもしている。
KANさんの曲に、直接的に他人の死を扱ったものは見当たらない。
だが、二度と会えない誰かに対する想いと重ねることはできる。
私がそれに充分救われるかどうかはわからない。
KANさんにその責任はないし、そもそもKANさんは最期までファンにとってバッキバキのアイドルでいてくれた。それはaikoが受け取ってくれた、全ファンへの最高のメッセージだ。
たくさんのファンたちが、
そろそろ前を向かないと、
まだ立ち直れない、
いろんな思いを抱えて生きている。
そのことがもう美しいじゃないか。
泣いてても、叫んでても、笑ってても、みんなKANさんの曲を思い出したり聴いたりすることができるのは一緒だ。
なんならそれすらしなくたっていい。
つらくて思い出さなくったっていい。
遠ざかって、目を閉じ耳を塞いでこの先を生きたって、誰も咎めないよ。
KANさんが生きた事実は消えないし、何千年後に愛は勝つが伝承歌のようになって、作者不明の日本発祥の応援歌になってくれるかもしれない。
私たち、すごい音楽家と出会えたんだ。
すごい音楽家と同じ時代を生きたんだ。
だから私も高らかにうたおう。
I'm here right now. と。
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