「淫夢」の衰退を考える 2

あらためて、オワコンとはなにか。

オワコンという言葉が理性的に、すなわち「感想」以上のものとして使われた例を、私は知らない。

あるコンテンツがオワコンであるかの是非は、なにかしらの基準が示されてなされるものではない。いわゆる「エビデンス」はもとより、意味・価値という人文的な基準が提示されることも滅多にない。

オワコンとは、一種のレッテルではないのか。

オワコンがレッテルに過ぎないのであれば、その言葉としての意味内容を吟味することは、大した意味をなさないだろう。問題とすべきは、オワコンという言葉が使われることで実現する機能と、それを求める欲求である。

淫夢民が、その故郷たる淫夢コンテンツ・界隈に対して「オワコン」と言い放つとき、一体淫夢民の中にはどのような欲望があるというのか。これを分析しなければならない。

では実際に、ネット各所の淫夢民の声を見てみると、淫夢がオワコン化・衰退している要因として、主に次のことがいわれているようである。

・コンテンツのマンネリズム
・コンテンツの「淫夢らしさ」の喪失
・淫夢の「一般化」

ここでは詳細には立ち入らない。しかし、これらの要因と指摘されるものは、確かに説得力があるようには感じる。
しかし、これらの要因には究極の根拠がない。つまり主観レベルの「感想」の域を出ない。そのため、場合によっては、
・コンテンツはマンネリ化してない
・淫夢らしいコンテンツも存続している
・淫夢民が消えない限り淫夢は不滅である
などと、同様に主観レベルで反論されてしまう。実際にそのような反論は、yahoo知恵袋やXなどでもたまに目にすることができる。

つまり、淫夢がオワコンであるとの主張には、客観的な根拠が欠如している。(汚ねぇケツジョだな)

では、オワコンと主張したがる兄貴たちは、結局なにが言いたいのだろうか。
上記の「要因」に再び注目してみよう。「マンネリズム」「淫夢らしさの喪失」「一般化」という要因には、共通点があるように思われる。すなわち、元々の淫夢は、「常に新しく」「淫夢らしく」「ネットの片隅で」栄えていたという、過去の栄光への賞賛である。

ここで「原理主義者」という言葉を思い出す。
この言葉も正直言って、レッテルに他ならない。そもそも言葉の意味内容を問い始めると、「原理主義」なるものがあることになるが、「主義」なんてものは、(いちぶのひねくれた投稿者を除いて)淫夢界隈に存在しないと、私はみなしている。
原理主義者への批判というのは、存在しない彼らのイデオロギーへの批判というより、「懐古厨がくさい」ということでしかないだろう。つまり、「昔の淫夢はよかった…」などというノスタルジーへの攻撃である。

しかし今、淫夢のオワコン化を叫んでいる人のほとんどは、斯くもかつて唾棄されたノスタルジーと、同じようなことを言っているように思える。

だがここで、オワコン化・衰退を唱える兄貴たちを「原理主義者」として切り捨てようとすることは何も生まないどころか、害悪ですらあるだろう。なぜかというと、有名投稿者のかなりの部分でさえも、ノスタルジーに囚われざるをえない現状があるからだ。現状を変えることなく、ノスタルジーに浸るなと批判することは、まさしく根性論に他ならない。(淫夢民がそのような根性論に耐えられないであろうことは、各人の素質以上に、前回指摘した同質性の喪失が決定づけていよう。)

ところで、オワコン化を唱える欲望とは、ノスタルジーの一言で言い尽くせるのだろうか。やはり、そうではないと思う。

そもそも、ノスタルジーがあるなら、復古運動を志向すればよいではないか(嵐を呼ぶインム帝国)。
淫夢の利点として叫ばれる、「空前のブーム」の仕掛け易さは、復古運動が単なる夢物語ではなく、実現に至る可能性を示すものである。
余談だが、私はタクヤさんブームを復古運動として位置づけることが可能と考えている。このことは別に機会に論じようと思う。

あるいは、現代淫夢の支柱である「AI淫夢」により解決可能ではないのか。生成AIの利用により、新素材を作り出すことは容易になった。マンネリズムの解消は、これにより実現可能なのではないか。

しかし、現実には何も解決していないようである。
淫夢をオワコンと唱えるに至る欲望とは、ノスタルジーだけではない、なにかもっと複雑なものに思える。
これもう分かんねぇな…


欲望の正体は、もう少し考えないと分からなさそうなので、ここで一旦閉じたい。終わり!閉廷!以上!みんな解散!(気が向いたらまた続きを投稿するから見とけよ見とけよ〜)

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