「拓也さん」動画の削除騒動は防げなかった

今回の騒動、私が驚くことは一切なかった。
…などと書くと嘘である。

しかし冷静に考えれば、これは驚くべきことでない。
既に2年前、淫夢周辺でまったく同様の事件があったからだ。
それは、2022年秋の「ハマコースト」である。


ハマコーストの概要

例のアレ界隈で散々に「ネットリンチ」されてきたsyamuさん。西暦2022年に復活を発表、「第三期」と呼ばれる各種プラットフォームでの活動を決行し、ネットの一部を騒然とさせた。

この時期、syamuさんは自身を素材にした動画に対する不快感を露わにしはじめた。さらには弁護士に相談している旨を述べるなど、法的措置を示唆しはじめた。

これを受けて動画投稿者たちの多くがsyamuさんに関連する動画を「自主削除」したのである。

削除動画の中には再生数が数万回を越すものも含まれ、一部動画は再投稿されるも、多くの動画はネットから消失した。(なお、現在syamuさんは自ら削除依頼をしているらしく、syamuさんの肖像を含む動画を投稿することは、困難となっている。)

淫夢民と俺オナ民

syamuさんをネタに動画制作をしていた人々、いわゆる俺オナ民は、淫夢民を兼ねていることが多い。
代表的人物としては、砂鉄兄貴が挙げられるだろうし、かつてブロマガを投稿していた星りん兄貴もsyamuさんに関する考察を展開していた。

そもそもの歴史的経緯を鑑みてもそれは当然のことである。
syamuさんを「発掘」した月影兄貴は淫夢民であり、転載された「オフ会0人」動画は「ホモと見る」として転載された。視聴者も淫夢民であったことは言うまでもない。俺オナ民の正体とは、淫夢民もしくは淫夢周縁の人々に他ならない。

syamuさんは数年に渡り、俺オナ民=淫夢民から罵倒され、粘着され、自宅に不法侵入までされることとなる。

syamu界隈という人権侵害の園は、2022年に大きく衰退するまで相当規模で存続した。


拓也動画の大量削除

淫夢民はわずか2年前、「オモチャ」にしてきた本人からの苦情を受けた。それに対して「動画の大量自主削除」という対処をするしかできなかった。

今回の拓也さんの動画大量削除は、その繰り返しに他ならないように思える。

「ハマコースト」の一件以降、淫夢民は何をしてきただろうか。もし本人からの申し出があったとしても、コンテンツを守り抜く方法を考えたりしたのだろうか?

無論、否である。
淫夢民はそのようなコンテンツ滅亡の可能性をまじめに考えたりなどしてこなかった。
従来の「ホモコースト」においてさえ、勢いで乗り切る以外の方法が実践されてきたわけではなかった。

本人からの申し出があったとき「自主削除」以外に対処する方法を考えていなかった淫夢民。同じ事態に対して同じことを繰り返したのは、もはや必当然的である。

しかし、なぜ戦う淫夢民は出現しなかったのか。
動画削除を悲しむならば、なぜ淫夢民は何もしてこなかったのか。
その理由は、淫夢民がどのようにして淫夢と接してきたのかを考えれば明らかになろう。

淫夢はなにが「楽しい」のか?

今回の騒動は、きわめて示唆的である。
淫夢民が、どのようなモチベーション(動機)で淫夢に接しているのか、全て明らかにしたように思える。

結局、淫夢を支えるのは「侵害そのものが楽しい」という感性でしかない。
こういうことではないのか。

淫夢の本質的な「楽しさ」がコンテンツ=動画にあるのだとすれば、淫夢民たちは何よりも動画を守ろうとするはずである。
けれどもこの度、淫夢民はあっけなく、動画を自主削除してしまった。
まるで動画そのものは「どーでもいい」ものだったかのようだ。

ちなみに、拓也さんへの罪悪感から動画を削除した、という主張があれば、それは欺瞞である。
拓也さんが一言申しただけで罪悪感を覚えるような人なら、余程の気まぐれ者でもない限り、そもそも淫夢動画の投稿なんてできるはずがない。
その上、拓也さんの動画を「削除」だけして淫夢投稿者の廃業宣言をする者が一切存在しないのは、淫夢民が拓也さんへの本気の罪悪感など感じていないのではという疑惑を増さしめるばかりである。

話を戻そう。
淫夢を支える「侵害の楽しさ」は、なぜ拓也さんの一言を前に無力だったのか?本当に「侵害の楽しさ」なるものがあれば、「拓也さんへの嫌がらせ」を益々過激化させるのではないのか?
このような疑問が湧いてくる。しかし、これは別に難しい問題では無い。
なんならここで重要なのは、「楽しさ」の内実でなく、「楽しさ」が動機であるという事実なのだ。

淫夢民たちのモチベーション(動機)が「楽しさ」にすぎないとすると、「こわい」「なんか嫌」のような小学生並みの感覚によって、「楽しさ」は損なわれてしまうはずである。
つまり、拓也さんのマジギレによって、訴訟リスクなどを負うという「こわい」「なんか嫌」という思いが、もともと脆かった創作の動機を打ち砕いてしまった。こういうことではないのか。

つまり、こう言いたい。
淫夢なんていうものは、結局のところ「なんか楽しい」からやってるだけの不真面目なコンテンツでしかないのではないか。

「本当に今更w」と思うかも知れないが、2010年台後半あたりにかけて、淫夢を高尚な芸術表現媒体かなにかと勘違いする一部の風潮があった気がするし、そういうものを見てきた以上、「淫夢に高尚な何かが隠されているのではないか」と考えたくなるのも自然であろう。
もし淫夢が小並感で駆動するものでしかないなら、彼らのやってきたことは無駄でしかなかったのだから。
(それとも、彼らはダダイストだったのだろうか。)

ともかく、淫夢における創作の動機とは、個人の楽しさでしかないのだろう。ゆえに、嫌になったからやめた。
今回の拓也動画の自主削除とは、所詮はこのような矮小な事情に他ならない。


ふまじめな淫夢厨

第810インターナショナル兄貴(現:第二ファシンテルン兄貴)と直次郎兄貴の論争(?)を思い出した。以下のnote記事を参照。

このnoteの最後、第810インターナショナル兄貴は直次郎兄貴に対して「なんのために「視聴者を喜ばせる創作」を志しているのでしょうか?」という問いを発した。

淫夢・クッキー⭐︎などの人権侵害コンテンツを創作してまで達成したい目的とはなにか?
この問いは、淫夢で創作する全ての人間に投げかけられたものではないのか。

当の私は、この問いに答えることができない。
そしてたぶん、殆どの淫夢民もこの問いに答えられまい。

今回の拓也さんの騒動は、このような淫夢民の「ふまじめさ」、もっといえば淫夢民の無責任さから来る脆さを露呈させたに違いない。
動画を削除した投稿者たちは上の問いに答えることができなかった。だからあっけなく、動画を消して拓也さんに従うしかなかった。

もし動画削除を欲しないならば、淫夢民たちが「楽しさ」を超えた動機を有することができるように努力するしかないだろう。
それはつまり、自らの身を滅ぼす可能性と引き換えに、淫夢を守るための動機…


さいごに

ここまで、色々と述べてきた。

けれども、それがなんだというのだろう。
ただ楽しいから投稿しただけなら、別に動画を守る理由も元からなかったのではないか。
拓也さんに従ったのは、従わない理由がなかったからに他ならない。

だとすれば、今回の大量削除は防ぎようがなかった。
そう結論するしかないだろう。


従来のホモコーストが強制削除であったのに対して、ハマコースト・ウリコーストは自主削除の連鎖という性質の違いがある。
つまり、淫夢民は此の度、みずからのせいで負けたのである。

拓也さんの怒りは正当なものである。
けれども、淫夢民はこれでいいのだろうか。
所詮は下品なネット文化、露と消えるのもまた一興、そう開き直るのも自由である。
けれども、それならどうして貴重な時間を淫夢に投げ込むのか?
どうして、長くも持たない差別文化にこだわるのか?

淫夢にいるべきでないと思ったなら、淫夢民をやめてもいいんじゃない?(適当)

それでも淫夢にいつづけたいなら、糞と血にまみれて生きることを覚悟しなければならないだろう。

【おしり】

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