「淫夢」の衰退を考える 5

注意
前回記事との整合性がとれていません!
さらに論理的矛盾や事実誤認も修正されていません!
つまりはゴミ出しです。
本シリーズの区切りとするため、ここで一旦提出します。


「淫夢」が犯せなかったものとは、なにか。

淫夢と、その派生コンテンツを手掛かりとする。
すると、そこには淫夢の脆弱性が見えてくる。
そしてそれは、オワコン化の風潮の根本原因に他ならない。

淫夢には、メインストリームがある。(「淫夢本流」と呼ぶことにする。)
その一方で「クッキー⭐︎」「syamu_game」「糖質淫夢」などなどの派生コンテンツが存在する。このオルタナティブたちは、淫夢民によって作られたものに他ならない。

しかしなぜ、派生コンテンツたちは淫夢から生まれたのか。言い方を変えれば、なぜ本来は無関係なはずの「東方二次創作」「youtube r」「精神病者」が、淫夢の範疇に収まってしまったのか。

言うまでもないが、淫夢とは「ホモビデオ」「淫夢ファミリー」を一次創作物とする創作物群であり、派生コンテンツとは接点がないように思われる。
特に「クッキー⭐︎」などというのは、本来は淫夢民が忌み嫌うべきだったノンケ的なコンテンツではないのか。お粗末とはいえ、「美少女キャラ」が描かれて、「萌え声」的な演技(?)が意図されている。なぜそのようなコンテンツが、淫夢の兄弟のようになってしまったというのか。

一方の「淫夢本流」であるが、相変わらず野獣先輩や拓也さんがコンテンツのメインキャラクターであるのはどういうことか。
淫夢の歴史を思えば、侵略先のノンケ・コンテンツを経由してアニメキャラクターが淫夢に取り込まれてもおかしくないはずである。実際には、ノンケ・コンテンツのほとんどは「踏み荒らされる」だけで、キャラクターが淫夢に取り込まれるようなことは(我那覇くんを除いて)なかった。
ひたすらに「(淫夢)」認定が行われたが、ついにアニメキャラクターが淫夢の主役の座を奪い取るような展開はなかったし、今後もな意図しか思えない。

どうも淫夢には、奇妙な性質があるように見える。
一方で、淫夢に無関係そうなものが淫夢的になるが、一方で何もかもを取り入れるわけではない。では、このような弁別は何に基づいているのか。

そういえば、クッキー⭐︎というのは、単に「クソアニメ」として消費されてのではなかった。クッキー⭐︎とは、未成年も含む素人声優に対して、個人情報ガン堀リを始めとした攻撃を行い、それに盛り上がるという陵辱的祝祭のコンテンツであった。
そこには淫夢との共通点がはっきり分かる。ホモビデオ男優(=淫夢ファミリー)をひたすらに侮辱的に加工し、玩具化し、恥部を晒し続けるという、やはり凌辱的祝祭に他ならない。

そしてこれは、「syamu_game」や「糖質淫夢」にも観られる特徴である。性的な表現以上に、これらのコンテンツでは露悪的なまでに個人を虐めぬいた。syamu_gameにせよaiueo700にせよ、彼らに対しての言葉は9割型が誹謗中傷・罵詈雑言であるように思える。
つまり、人間を侮辱するという意味において、共通点を持っている。ここまでは別に、従来の淫夢論者からも指摘されてきたことである。つまり、淫夢の本質は「誰かを馬鹿にしたい、侮辱したい」という欲求なのだと。
だから、淫夢とその派生コンテンツは、「侮辱コンテンツ」としての連帯感でまとまりを見せていたのだろう。

しかし、ここで疑問が浮かぶ。
侮辱をしたいというのなら、なにもホモビデオでなくてもいいのではないか。ましてや、「低品質な東方二次創作」だの「零細youtuber」だの「片田舎の精神病者」だのが、なぜわざわざターゲットとして共有されるに至ったのか?
ニコニコにも、事実その種の侮辱コンテンツは存在する。「クソアニメ」をネタにする、「例のアレ」ともつかないニコニコの一流派である。(「チャージマン研!」とか「異世界オルガ」とかを見てる層。)
しかしどうにも、彼らは淫夢民とは違う人種に思える。侮辱コンテンツといったのは、確かに彼らは「クソアニメ」を侮辱しているからなのだが、たとえばチャー研民は基本的にはナックのスタッフに敬意をもってるように見えるし、オルガ民もマリーを叩くような人はいないように思える。

ここに淫夢の本質、一層研ぎ澄まされた本質が窺える。

それはつまり、淫夢とは「この世界に実在している人物を侮辱するコンテンツ」ということである。

さらにこうは言えないか。
「ホモビデオ」と「淫夢ファミリー」に固有の価値、それはアニメキャラクターなどでは代替できない価値がある。「野獣先輩」や「拓也さん」にはあるけれど、「チノちゃん」や「サーバルちゃん」にはないものがある。

それは、身体の存在である。

野獣先輩や拓也さんは、この世界に身体をもって存在している。アニメキャラクターには、この世界に意味として(言語として)存在できても、身体として存在することはできない。その違いがある。

つまり、淫夢の核心的な価値観とは
「身体をもった存在を穢すこと」
ということではないのか。

ここに来て、欲望の正体が明らかになる。
それは、身体をもって世界に存在するものを穢したいという欲望である。

では、欲望が明らかとなった今、オワコン化を叫ぶメカニズムを提示できるだろう。
それは、「身体をもった存在を穢す」のが不可能になっていくことへの嘆きである。なぜ不可能になるかというと、穢す対象たる「身体」が世界に存在するという実感が、年々薄らいできたからであろう。つまり、ホモビデオの中の世界を覗くと、そこにはすでに20年近く前の、異世界的な日本の姿があり、現在の淫夢ファミリーは高齢化していることが明白であるからだ。
つまり、「ホモビデオ」「淫夢ファミリー」の世界と我々の世界とは連続性を失ってしまったのである。そのため、淫夢民は穢すべき「身体」の消費期限を迎え、飢饉にあえぐようになってしまったのである。

これについては、他の施しようがない。
タクヤさんがジジイであることを誤魔化せなかったのと同じで、身体とは滅びていく運命にあるからだ。それに対抗しようとすると、不死身の存在になるしかないのだが、それでは一体アニメキャラとなにが違うのだろうか。

なぜ「身体をもった存在を穢す」のが「楽しい」のかは、正直よく分からない。しかし、原理はわからずとも、淫夢民ならもはやこの快楽を忘れることはできないだろう。射精の快楽を知る前の幼子に戻れないように、我ら淫夢民は汚辱の快楽を知る前の人として生きていくことはできない。

つまり、私は悲観論を唱えている。
どうしようもない。
諦めるしかないのである。

淫夢衰退は、防ぎようがない。
なぜなら、身体は滅びゆくからである。
それが結論なのだ。


しかし、淫夢民にはできることがある。

淫夢の精液を余すところなくぶっかけて、「汚濁の御子」をあまねく孕ませることである。
「汚濁の御子」とは、すなわち淫夢の子供たち、その正体は「この世界に身体をもって存在するものを侮辱するコンテンツ」のことである。淫夢民にできることは、自らの延命ではなく、血筋を絶やさないことなのだ。

淫夢を守ることはできないが、淫夢の系譜を守ることはできる。これだけははっきりと伝えたかった。

私から提示できるのは、以上である。
ヨーロッパ人が、かつての強大な帝国の末裔であるとの誇りをもつように、淫夢が滅びてもなお、淫夢の末裔であることを誇ることができる。そのための条件は、「汚濁の御子」を産むことである。
なによりも避けるべきは、淫夢の系譜が失われることである。系譜が受け継がれるかぎり、「汚濁の御子」たちはネットで暴れ続けることができる。もっともそれは、ポリティカル・コレクトネスの時代には困難であるだろう。
しかし、もはや我々は侮辱コンテンツなしに生きていけないのなら、ポリコレと戦ってでも「汚濁の御子」を産み続けなければならないだろう。

さいごに
今後も何か書くと思います。本シリーズの総括もしたいと思うので、よろしくおねがいさしすせそ(激寒)

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