「淫夢」の衰退を考える 4

淫夢が侵略できないところとは何か。

プラットフォームから考えてみる。
前回記事のとるぴこ兄貴のコメントに着想を得たが、「youtube」における淫夢の侵略は、顕著な結果を見せていない。これは一体どういうことか。

淫夢の実効支配が及んでいるプラットフォームは、「ニコニコ動画」であるということに異論はないだろう。
また、いわゆる「ホモガキ 」が跋扈した場としては、Twitter(現X。ウィヒッターとも。)があげられる。その他、NANじぇいはじめ掲示板文化圏においても淫夢はいまだに影響力があると見える。

「youtube」とそれらのプラットフォームにおける違いは、さまざまに指摘できるだろうが、もっとも重要な点とは「ほんへ」の許容度ではないだろうか。
テン年代初頭の「youtube」といえば、あまりに露骨なものはともかく、かなりの「控えめな」性的コンテンツが存在していた印象がある。それにしても、「ほんへ」は明らかなセックス・シーンを含むものであるから許容されるはずもなかった。(そして現在のyoutubeによるAI検閲の過激ぶりとくれば、もはや「ほんへ」の投稿はまったく不可能である。)

どうして、「ほんへ」の許容度が重要なのか。
まず、淫夢では「ほんへ」そのものがコンテンツである。それも、「淫夢ファミリー」や「語録」の大半を産出するのは「ほんへ」=ホモビデオである。
このことを考えたとき、「youtube」においては淫夢の重要なコンテンツ群が欠落せざるをえないことになる。ゆえに「ほんへ」の許容度が重要な差異を作り出すように思われるのである。

そういえば、「FC2」に淫夢コミュニティが形成され、盛り上がっていた時期があったという話を聞いたことがある。
今は全削除されていると思うが、かつて「FC2」には「ほんへ」が無修正で転載されていた。ニコニコ比べものにならないぐらいあからさまなセックス・シーンが閲覧できた。(糞尿レストランもアップされていた。)
注目したいのは、「FC2」が単なる動画保管庫ではなくて、コミュニティの場と化していたことである。ニコニコにおいても淫夢は十分過激であり、むしろガチホモ=ゲイでもないのに、彼らが「ほんへ」投稿サイトに集ったことは一見意味不明である。

ここには、淫夢の本質を知るための鍵があるのではないか。
淫夢とは、「ホモビデオ」というコンテンツを鑑賞するコミュニティである。事実として、そうである。
ここでの鑑賞とは、性欲充足という本来の使用目的に沿っていない。しからば、そこにはどのような目的があるのか。それはつまり、「面白さ」であろう。淫夢が「見る抗うつ剤」などと呼ばれるように、淫夢民にとっては笑いの対象であることは疑いようがない。
詳細な「面白さ」の解明については、次の記事で書くことにする。

「本当に今更w淫夢がホモビで遊ぶコンテンツなのは有名な話」と思われたなら、そりゃそうなんだが、これは重要な点なので確認する必要があるのだ。
なぜならこれは、淫夢の影響圏、すなわち侵略可能性に関する事柄であるからである。淫夢が侵略できる/できないものを明らかにすることは、「淫夢帝国」の境界線を明らかにすることに他ならない。
淫夢と認めることができるものの範疇を示すことで、「淫夢とはなにか」という本質に迫ることができるのである。

さて、淫夢の営みが「ほんへ」=「ホモビデオ」に代表されるとして、淫夢の現状を表現しきることはできているだろうか。おそらく、できていない。
淫夢というのは、たんなるホモビデオ鑑賞どころか、ホモビデオの編集・加工の域からも既に脱していよう。
淫夢のコンテンツを構成する「BB劇場」「淫夢実況」「長編淫夢」などは、もはや「ほんへ」映像・音声を直接にいじることなく作成可能である。
また、現在の淫夢民のどれほどが「ほんへ」を閲覧済みであるのかも、問われるべき点である。おそらく現在、「ほんへ」をそこまでじっくりと閲覧していない「ゆるふわ淫夢民」とでも言うべきライト層の方が多いのかもしれない。
また、前回指摘したように、淫夢の歴史とは「風評被害」を与えることで外部を侵略し続けることであった。つまり、「ホモビデオ」が中心ならば、その外側を目指していくことは不可解である。しかし実際には、「ホモビデオ」から遠ざかり続けているのである。
(たとえば「ホモと見る」シリーズなどは、無関係な動画の転載である。)

それでも、淫夢は「ホモビデオ中心主義」が支配し続けてきたのである。これはどういうことか。

淫夢コンテンツにおいては、結局のところ「語録」なり「淫夢ファミリー」なり、「ほんへ」から抽出されたネタを素材とするほかない。つまり、淫夢コンテンツは間接的にはホモビデオに規定されざるを得ないのである。

そして、淫夢の外部への「風評被害」についてであるが、今に至るまでに「淫夢」と呼ばれてきたたものは、はたして淫夢が外部から収奪してきたものだろうか?

このことは、野獣先輩が「10年やってるネットミーム王子」(YJ-POP兄貴)であることからも全く明白である。淫夢はその外部に「風評被害」を与えつつ、常に「ホモビデオ」中心であり続けた。「帝国」の比喩で言えば、植民地が本国になれず、本国からすれば搾取の対象でしかなかったことに一致する。
2020年代になって現れた淫夢の新星が、たとえば「風評被害」の憂き目を見た過去のアニメヒロインなどではなく、KBTITことタクヤさんであったことも、どこまでも「ホモビデオ」中心であったことの証左である。

これが、侵略の限界であろう。
「ホモビデオ中心主義」から脱することはできず、「淫夢ファミリー」で遊び続けることこそが、淫夢の最大領域である。

つまり、淫夢の正体とは「ホモビデオなど」を一次創作として、二次創作(淫夢ファミリー、語録、BBなど)、三次創作(淫夢MAD、BB劇場、淫夢実況など)…を作っていくという営みに制約される。
つまり、「ホモビデオなどのn次創作」こそが、淫夢コンテンツの正体である。そしてそのコンテンツを生産するスタンドアローン・コンプレックスこそが淫夢コミュニティの正体である。
(「ホモビデオなど」という表記は、拓也さんの一連の「怪文書」や変態糞土方の書き込み、あるいはTDNのホモビ外での活動などといったことを含んでいることを意味する。)

ゆえに、n字創作と認めることができないほどに、「ホモビデオ」から乖離してしまった動画などは、淫夢民から淫夢として認められない。
「ホモと見る」論争(つまり「ホモと見る」はもはや淫夢に無関係となっているのでは、という論争)が生じるのは、淫夢の正体が上記である以上やむなしである。

「syamu_game」や「糖質淫夢」といったコンテンツが、結果として「ホモビデオ」を中心とする潮流から派生・独立していったのも、当然の話である。(これについては次の記事で再度ふれる。)

総括をしよう。
「youtube」で淫夢が伸長しきれなかったのは、「一次創作」たる「ホモビデオ」がプラットフォーム内に存在できなかったことが一因であろう。
「ニコニコ動画」は「ホモビデオ」の投稿をかなり許容する運営姿勢があり、それこそが淫夢のメッカと化した理由と思われる。

(「Twitter」および「掲示板」については、動画投稿サイトではないという性質もあり、今回では論じきれない。仕方ないね♂)

一次創作の欠落が、n次創作の困難を生じるのはいうまでもない。
n次創作とは、n-1、n-2…次創作のパロディに他ならない。原作を知らないでろくな同人誌が作れないように、淫夢においても「ホモビデオ」を知らずにろくにパロディすることはできないのである。
(その意味では、youtubeで活動した「淫夢界の英雄」兄貴は、ホモビデオ不在の空疎なyoutubeの淫夢界隈における創作力の貧弱さをアイロニカルに表現していた可能性が微レ存…?たぶんそこまで考えてなかったのだろうけど、ニコニコで同じことをやってもたぶん面白くなかった。)

では、どうして淫夢の中心がホモビデオなのだろうか?
ホモビデオである理由は何か?
考察は遂に危険な領域へと突入する…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?