冥い(くらい)時の淵より
二 4
『馬酔木」のドアを叩くと、しばらくして名美が現れた。
「テッちゃん!待ってたんよ。さあ入って」
名美は嬉しそうに言うと、
若原を抱き込むようにして中に入れた。
「すみません。こんな遅くに・・・」
歩きながら若腹は詫びる。
「何言ってんのよ。ほら、愛人のお待ちよ!」
「よお、若原。」
カウンターから村上が迎えた。
「すまんな村上。邪魔だろうとは思ったんだが、
つい甘えてしまった。すまん。」
若原は謝りながらも、
村上の横のストゥールに腰掛け、コートを脱ぐ。
「水臭いこと言うなって。邪魔も何も、
俺たちに気兼ねは無しにしてくれ。
なあ、名美さん。
俺たちのマンネリの空気に、ちょうど新風が
欲しかったとこさ。」
村上の口調は軽くなっている。
「そうよ、テッちゃん。
私がテッちゃんのファンてことは知ってるでしょ?
いつでも大歓迎よ。」
名美はもう、カウンターに入って
作りたてのオードブルを用意していた。
「テッちゃん、何作る?オンザロックでいい?」
名美が快活に聞く。
「すいません、お願いします。」
若原は恐縮する。
代金を払おうにも、名美はツケとくと言ってのけるに違いなかった。
そして必ず、ツケの請求などしないのだった。
若原は金のないことに、ここでだけは辛い思いをするのだった。
『馬酔木』が好きなだけに、なおさらそう思う。
世に出て稼ぎまくろうにも、その気も、
おそらく才能もないであろう若原である。
因果なものだ、と思う。
こうして教育学部の院に残ったまま、就職いやさに
研究の道を選んだ自分が、果たして良かったのかどうか
外で飲むたびに自信がなくなる。
せめてもう少し金があったら、という生活の
レベルの悩みは、自分の選択した生き方に反して、
やはり胸に沈殿しているのだった。
「ま、2日ぶりの再会を祝って乾杯しようや。」
村上が陽気に言う。
若原は、目の前に置かれたオンザロックに手を伸ばす。
いつものようにダブルを越えて、
なみなみと琥珀の液が揺れていた。
「ああ、嬉しいなあ。
私の大好きな殿方がふたりも揃ったんだから。
本当に幸福よ。さ、乾杯しましょ!」
名美がグラスを差し出した。
若原と村上がそれに応える。
チン!と澄んだ音が響いた。
若原は一口、ウィスキーを口に放り込む。
喉に芳香を放ってウィスキーは胃に落ちて行った。
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