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冥い(くらい)時の淵より

二  1

広瀬由希が失踪して一週間になる。
若原徹也の焦燥は日ごとに深まり、
快活な顔に苦悩の翳りが刻まれていた。

深夜。

若原は安物のコートの襟を立て、
寒風に晒されて東山通りを南に歩いていた。
どこに行くのか、あては無い。
頭の中は、広瀬由希の行方の事で一杯であった。
この一週間、若原は、刻一刻と
身を削がれる思いで暮らしていた。
由希の家には毎日電話を入れた。
母親は、今日も帰っていない、と言った。
でも、まだ手配はしたくない、
もう少し待つつもりだ、とも言っていた。
由希の学生仲間にも尋ねて歩いた。
しかし、誰も行方を知らなかった。
手がかりもなかった。

若原自身、由希からどこかに行くような話も
聞かなかったし、そういう素振りも感じなかった。
全く突然に、ふいと居なくなってしまったのだった。
そして、その理由が若原にはわからなかった。
少なくとも、由希に関しては、よく知っているつもり
だっただけに、失踪の原因が謀りかねる事は苦痛であった。
やがて若原は熊野神社に出た。
時計を見ると、12時半になろうとしていた。
結構、タクシーが走っていた。
若原はしばらく佇立し、ポケットを探ると
セヴンスターをひっぱり出す。
1本咥えると、ズボンのポケットから
赤い100円ライターを取り、火を点ける。
夜空に大きく煙を吐き出して、なお、考え続ける。
今からどうしたものか、途方に暮れている、
と言った風情であった。
やがて吸い殻を投げ捨て、靴で踏み消すと、
ズボンのポケットを探る。
いくらかの小銭が出てきた。

丸太町通りに面した電話ボックスに入ると、
若原は『馬酔木』に電話を入れた。
名美が出た。
深夜の非礼を詫び、村上を尋ねた。
すぐに村上に替わった。
来い、と言ってくれた。
村上に感謝した。
誰かと酒でも飲まねば、神経が焼き切れそうであった。
若原は、丸太町通りを横断すると『馬酔木』に歩いた。
歩きながら、またも由希を想った。

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