冥い(くらい)時の淵より
序 3
宮西浩二はジャンパーの襟を立てながら、斜面を走り下りていた。
昨夜の情事で寝過ごし、遅刻しそうであった。
朝の冷え込みもキツくなった。
宮西の母は、きちんと宮西の朝帰りを知っていた。
寝ぼけまなこの息子に、露骨なイヤミを言うのを忘れなかった。
「年寄りは眠りが浅く、耳が良くなると来るわ。やりにくいと言うたら…」
それでも宮西は、口元に自然と笑みを浮かべ、
軽やかな足取りで勤務に向かった。
大塔村に唯ひとつのガソリンスタンド。
それが宮西の勤め先であった。
口笛を吹きながら歩く宮西の足が止まった。
道路の乱れを見咎めたのだった。
路肩が1ヶ所、落ち窪んでいる。
近寄って見ると、木立がへし折られ、
明らかに転落事故があった事を物語っていた。
宮西は、木立の乱れを追うようにして転落したものを探した。
よく見えなかった。
しかし、はるか下に小さな黒い点が認められた。
目を細くして見つめた。
-ありゃ、自動車が裏返っとんのとちゃうか?-
宮西は呟く。
-えらいこっちゃ!-
宮西は走り出した。
10数分後。
駆り出された村の若衆が、崖に集まっていた。
駐在も駆け付けていた。
ひと通りロープをかけ、下りるポイントを討論した後、
南へ100メートル程離れた所から、下りる事になった。
青年達は、この不意の事件を、ある部分で楽しんでさえいるように見えた。
非常事態は常に若者を興奮させる。
事件の少ない村の青年には、無理からぬ事であった。
宮西も先頭グループに混ざって、急斜面を下りていった。
ロープを頼りに、青年達は口々に叫びながら崖を下りて行く。
宮西も数回、足を滑らせながらも付いて行った。
駐在も、渋々、若衆に抱えられるようにして下りて来ていた。
先頭が下り切って、悲鳴を上げた。
「こりゃひどい!早よー来んかい!」
続々と青年達は、転落した車の周りに集まった。
勾配が緩やかになった砂利の上に、
ほとんど川にその身を突っ込むようにして、それはあった。
車輪は虚しく天を向いていた。
車体は激しくクラッシュしていた。
上品なホワイトのボディカラーも、生地の鉄板の黒に、
むごたらしく汚されていた。
今にも、転落する時の轟音が聞こえるかのような光景であった。
宮西は、運転席を覗き、吐き気をこらえた。
そこには、血だらけの運転者が目を見開いていた。
宮西は、車を囲む人垣の外に出た。
数人がドアを開けようとしていた。
しかし、クラッシュしたドアは、なかなか開かない。
太い木切れでウィンドウのドアを割った。
運転者を引きずり出した。
その時青年達は、か細い子供の泣き声を聞いたように思った。
青年達は顔を見合わせ、しゃがむと、後部座席を食い入るように見た。
これも血まみれの肉塊と化した、母親と思える腕の隙間から、
小さな手が見えた。そして、その指は、わずかに動いていた。
またかすかな鳴き声がした。
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