冥い(くらい)時の淵より
序 5
夜10時。
京都から知人が駆け付けた。
夕刊で読み、取る物もとりあえず飛んできたのだった。
まだ若い夫妻であった。
取りあえず、少女を見舞った。
妻は少女の名を繰り返し呼んでは泣いた。
何度も少女の髪を撫でた。
夫は、目をつぶって壁際に凝然と立っていた。
そして案内を請うと、両親の、ふたりにとっては
帰らぬ友人に面会すべく出発して行った。
ふたりとも、今夜はこの村で過ごすつもりでいた。
良ければ病院に泊めてくれぬか、
と院長に頼んで出て行った。
遅くなるかも知れぬ、迷惑をかけてすまない、
と低く腰を折った。
院長は気の良い男であった。
門を開けておき、少女の隣の部屋をとっておく、
と約束して夫妻を送り出した。
人間の死は、実に様々な、
生前の交友関係を浮かび上がらせる。
院長は、それまでに遭遇した数多くの死を思い返し、
感慨深げであった。
個人的にも、駆け付けた夫妻には好感を持った。
あの少女が、この夫妻に引き取られる事が
最善であると言う気がした。
世の中の利害関係が、一筋縄には
行かない事はよく知っていた。
それでも院長は、憐れな少女の未来に、
考えられる限りの最善の条件を与えてやりたかった。
夫妻が、神奈夫妻にお別れを告げて、
丸山病院に帰って来たのは0時を過ぎていた。
夫妻は院長に簡単に挨拶を済ますと、就寝に部屋に向かった。
妻の目は泣き腫らして真っ赤であった。
夫は殆ど物を言わなかった。
少女を取り巻く人々に、よく眠れぬ夜が明けた。
朝6時。院長は看護婦の大声で目を覚ました。
「院長!院長!」と看護婦は叫んでいた。
「由希ちゃんが、神奈由希ちゃんがいないんです!」
院長は飛び起きた。
隣の部屋の夫妻も顔を引きつらせて起きていた。
看護婦に、病院の内外を徹底的に捜すよう命じて、
院長は駐在に電話を入れた。
少女の不在はまだ告げず、とにかく早く来てくれるように
まくしたてて、電話を切った。
院長は混乱していた。
少女が消えた理由がわからなかった。
自分で出歩ける精神状態でない事は自分がよく知っていた。
だとすれば、誰かが連れ出したのか?
あり得ない、と思った。
友人だった人が隣の部屋に来ている。
自分達に無断で連れて行く人などおるまい。
また無理矢理、少女を誘拐する理由も思いつかない。
もしそうだとしても、私にしても、隣の夫妻にしても
ほとんど寝ていないのだ。
物音ひとつ立てず、少女を運び去る事など
不可能ではないか・・・。
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