冥い(くらい)時の淵より
一 2
村上は、いつもと変わらず
あまり機嫌の良い状態ではなかった。
ここ1、2年、この虚無的な表情が、
村上の平均的な顔と言っても良かった。
何かを考えている、と言うよりも、
常に、得られなかったものを回顧しては、
不毛な追想にふける、と言ったイメージであった。
そして、アルコールの摂取量と比例して、体の奥から、
不気味な、陰鬱な、殺気のような妖気が滲み出すのだった。
もう店には客はいない。
村上は物思いに耽っている。
そして、先ほどから、村上の股間に顔を埋めて、
村上に快感を与えている女がいた。
店内の空気は殆ど動いていない。
かろうじて聞き取れる程のヴォリュームで、
ビリー・ホリデイが流れていた。
女の姓を殆どの者は知らない。
学生達も「名美さん」と言う名のみ、知っていた。
『馬酔木』のママであった。
正確な年齢(とし)も皆、知らない。
村上は、38と聞いていた。
-もう古い話だけどね、
60年安保ってのがあったでしょ。
あの時、私は、女子大に入ったばかりでね。
これがまた、右も左も分からない
ミーハーのくせにね。
いっちょ前に、頭のいいK大の学生さんに
入れ込んだりしててねえ-
村上は、何回か聞かされた、名美の恋物語を思い出す。
60年6月。
名美の恋人は、国会へのデモに行くと言って
京都駅に向かったと言う。
-男はね、若い時に、ああ言う馬鹿気た事に
真剣になっちゃうんだねえ。
私はまだ18だったし、そこらが分からなくてね。
後から聞いたら、東京で女の子が
ひとり死んだって言うじゃない。
私は、そんな状況って事、何ひとつ分からずにね、
愚かにも、デモになんか行かないでくれって、
泣いてすがったものさ。
そんなこんなで、酒を覚えてね。
身を持ち崩してパトロン持って、
小さな店のママって訳さ。
よくある話で、ちっとも面白くないねえ。-
名美から、そんな話を
初めて聞かされたのはいつだったか-
村上は思う。
あれも、この店で、若原に初めて
連れて来られた日だったのではないか-
俺は名美に惚れているのか?
これまで幾度も自問してきた事も、
未だに色褪せず村上の胸の奥で息づいている。
外見は、名美が俺に惚れ、俺が、ぐずぐずと
言いなりになっている、と見えるに違いない、と思う。
一面、そうだと言える。
しかし、問題は、俺が名美に惚れているか、と言う事だ。
と村上は遠くを見つめて思う。