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大きな声が必要な時
みなさんこんにちは。
このブログは、私が自分自身で試したり行動したことについて、考えたこと、感じたことを記載しております。
映画『春をかさねて』を観てから、ゆらゆらしていること。
先日観た映画のことが、まだ尾を引いております。
東日本大震災で、避難の決断が遅れたために多くの子供たちの命が失われた「大川小学校」について。
この件の当事者が作った映画「春をかさねて」を観て私が感じたのは
臨機応変に対応すれば子供たちが助かったのにという残念な気持ち。
遺族の子供に何度も「いい言葉」を言わせようとするマスコミへの憤り。
でした。
その中で、安易な美談化は「大きな声でごまかす」ことではないか、という表現を使って、そういった行為への違和感を記事に書きました。
自分の発言ながら、残る違和感
しかし、その後、自分の主張について改めて考える機会がありました。
「前向きな意見表明を行うことは大切だ」という意見を、安易に「美談でごまかす」と切り捨ててしまうのも乱暴だな、と思います。
では私は何に対して違和感を感じたのでしょうか。
私が違和感を覚えるのは、当事者ではない人が、安易に他者の苦悩や試行錯誤を「乗り越えた物語」として単純化してしまうことです。
人の感情はそんなに単純ではありません。起こってしまった事実を受容、し、次のステップに移行するには行きつ戻りつのプロセスが必要です。
そういった過程を無視して、一方的に結論を押し付けるのは、当事者の複雑な感情や内的な成長のプロセスを無視することになりかねません。
時には大きな声が必要なこともある
一方で、困難な課題に大勢で取り組むとき。「大きな声」が必要なことはあります。
誰もがその場その場で機敏に行うべきことを判断、実行できるわけではありません。躊躇を振り払うために誰かが声を出すことは必要ですね。
進撃の巨人「ピクシス司令官」の名演説
この時思いだしたのは「進撃の巨人」のエピソードでした
![](https://assets.st-note.com/img/1737094201-acu0TXl8DHwn49kSYEs3UxFL.png?width=1200)
進撃の巨人のピクシス司令官の演説は、作品中でも特に印象的な場面の一つです。ウォール・ローゼが壊された後、恐怖で逃げ出そうとする兵士たちを前に、ピクシス司令官は心を揺さぶる演説を行います。
演説の主な内容は以下の通りです:
兵士たちの恐怖を認め、逃げることを許可する
逃げた場合の結果(愛する人々が巨人に襲われる)を示す
過去の出来事(ウォール・マリア奪還作戦)を例に挙げ、現状の深刻さを説明
人類滅亡の真の脅威は巨人ではなく人間同士の殺し合いだと指摘
兵士としてのアイデンティティに訴えかける
この演説の効果的な点は以下の通りです:
恐怖への共感と理解を示しつつ、さらなる恐怖を煽る
兵士たちが気づいていない問題を提示し、解決策を示す
兵士としてのアイデンティティに訴えかけ、プライドを刺激する
ピクシス司令官の演説は、恐怖を認めつつも、それを乗り越える勇気を与え、兵士たちの使命感を呼び覚ます効果的なものでした。
公と私の優先順位
ここでピクシス司令官出すのはいささか強引かもしれないですね(笑)。
個人レベルで心の傷に向き合うこと、それについては当人のペースで進めるのがよく、ほかの人が安易に結論付けしない方がいいかもしれません。
一方、集団の中で対応しなければいかないときに、躊躇する個人がいることで全体に悪影響が出るのであれば、全体を統べる立場の者として、強い言葉を放つ必要はあるかもしれません。
今回はなかなか話の落としどころが見つかりません。もう少し考えてみます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。