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『サンショウウオの四十九日』を読んで

周りからは一人に見える。でも私のすぐ隣いるのは別の私。不思議なことは何もないけれど、姉妹は考える隣のあなたは誰なのか?そして今これを考えているのは誰なのか?

「サンショウウオの四十九日」販促コピーを引用

第171回芥川賞受賞作『サンショウウオの四十九日』を読みました。

一度目の読書では理解が及ばず、アオミドロがたゆたう沼にはまり込んでいるような気分でした。二度目の読書でようやく、自分の方に物語を引き寄せることができました。

この物語の中心にあるのは、体と感覚と感情と意識です。通常、一つの個体に一つずつ備わっているものと思われているそれらが、実はそうではないのかもしれない。そうではない場合、何が起こるのだろう――。そういった問いから始まった実験的な小説だと思っています。

読者の反応と違和感

アマゾンの書評を見ると、この作品に対する評価は必ずしも高くなく、134本の評価の平均値は3.6点にとどまっています。その理由として多いのが、「物語に入りにくい」「共感しにくい」「そんなことあるの?」といったものです。

特に印象的だったのは、「作者の朝比奈さん自身が、この部分は姉妹のどちらの言葉なのか分からなくなることがあるという表現に対する違和感」でした。作家にもわからないようなことが読者にわかるはずがない、という指摘です。

しかし、これは人の体を我々よりも深く知っている医師であり、かつ文芸作家としての著者の思いを、一つの形として表現したものなのです。その思いを受け止めていきたい、と私は思いました。

私の中の私たち

私の中には私しかいないのでしょうか?

なぜか謝ってしまう自分

例えば、グラスを落として割ってしまったとき。それは私のものです。私が落としたのだからがっかりすればいいだけなのに、「ごめんなさい」って言ってしまう人がいませんか?これは「インナーチャイルド」という現象かもしれません。幼少期に強い印象を与えられた人間が自分の中にいて、何か強いインパクトがあったときにそのことを思い出してしまう。自分の中にその頃の自分が出現し、その人に謝罪してしまう――そういったことは心理学的に説明がつきます。

自分の意志とは別に爆走してしまう自分

マラソンを走ったことがある方、スポーツをやったことがある方は思い当たるふしがあると思います。走っているうちに自分じゃない誰かが自分の体を動かしているような気分になることがある。これを「ランナーズハイ」と言います。体の中のホルモンが作用して実力以上の動きを体に求めている状態です。結果として、マラソンの終盤で体力が尽きてしまい、ゴールにたどり着けないこともある。理性的な自分であればそんなことはしないはずです。自分じゃない何かが体に作用したと言えないでしょうか。これは、生理学的に説明がつく現象です。

共存としての他者

自分にとって苦手な人がいますよね。「あの人はあんなことを言って、あんなことをしている」だから嫌だ――。でも、その理由は何でしょうか?その人が自分と違うと思っているから嫌なのでしょうか。嫌だなと思っている人の中に、自分の嫌な部分を見てしまう。その瞬間に人は激しい嫌悪感を覚えてしまう。そうではないでしょうか。

意識の刷り込み

苦手な先輩や上司がいました。自分が先輩や上司になりました。その時に後輩や部下に対して思わず言ってしまう一言――それって、そうはなりたくないなと思っていた先輩や上司の一言ではないですか?では、そう言ってしまうあなたは誰なのでしょう。

溶け合う意識

人にとって楽しいな、豊かだなと思う瞬間はどんなときでしょう?グループ活動が楽しく終わった時、とてもいい意見があってプロジェクトが進んだ時。でもそれって、そもそも誰の意見だったのかな?今となっては覚えていないけれど、チームとしてよい結果になったんだからいいよね。それってすごく素敵なことですよね。

さて、どうでしょう。あなたの中のあなたは、あなたに良いことをしましたか?あなたの中の誰かが、あなたに何かを指示しましたか?大人になると、「じゃあ自分の中の自分ってなんだろう」って不思議な気分になりませんか?

実験小説

この小説は、物理的に自分の近くに誰かがいて、意識の境界線がはっきりしない。体に対する感覚は一つでありながら、そこから覚える感覚は少し別れ、感情は別個に動いている。そういった特異な人物像を具現化し、そういった人物がどうふるまうのかということを試みた、極めて野心的な実験小説だと言えます。

「継ぐのは誰か?」

実験小説と言って思い出す作品が私にはあります。SF作家・小松左京さんの隠れた名作『継ぐのは誰か』です。この作品は、スマートフォンやインターネットが普及するはるか前に、今の人類を予想していました。電気仕掛けの知的なツールを自分の体の一部のように自由自在に操る人間が現れた時、世の中はどうなるのだろう?そういった作品です。

おそらく今の我々は、完全な同一化までは至っていませんが、そういったツールを体の一部であるかのように使っています。小松左京さんはそういったツールが現れる前に、そういった人間像の登場を予想していました。素晴らしい洞察力です。恐るべし、と言った方がいいかもしれません。ただし、その頃の読者は「何がなんだかわからない、『日本沈没』の方がわかりやすくてよかった」といった感想を持った人の方が多かったと思います。

未来への予見

『サンショウウオの四十九日』は、もしかしたら、AIが進化した結果、人々の意識がどんどん溶け合っていく、あるいは機械と人間の意識が交わっていくような状況を予見する作品なのかもしれません。これは誰の意識だろう、誰の考えだろう、ということがどうでも良くなってくる。そんな将来を、特殊な体を持つ姉妹によって予見しているのかもしれません。

作品への違和感

ただし、私もこの作品に一つ違和感を覚える点があります。作家であれば、自分が生み出したキャラクターに対する愛情のようなものを持つようになるのかな、思うのですが、この作品にはそれがない。ただ生きている。ただ、その意識を淡々と綴っている。実験動物を眺めているかのように描写しているように思えてなりません。

主人公は29歳の女性、妹の顔立ちは可愛らしいようなのですが、それ以外は具体的にイメージできないほど描写が少ない。看護師として病室を回った時に入院患者から「あっ」と言われているような姿形。それでも周囲の家族や友人は違和感なく接しているようではあるのですが、もやっとした印象をぬぐえません。

そういった点も踏まえて、この小説は実験的でありますし、主人公に対しての冷静な作家の接し方、それに対する違和感、そういったものが、もしかしたら星3.5という結果につながっているのかもしれません。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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