小説「悪い音楽」(著:九段理江)を読んで
みなさん、おはようございます。
このブログは、私が自分自身でゆらゆらと試したり考えたりしたことについて記載しております。今回は正月休みに読んだ小説について書いてみました。
「悪い音楽」:芥川賞作家、九段理江さんのデビュー作
単行本「Schoolgirl」に収録されています
今回の記事の進め方
できるだけネタばれは避けたいので、今回はこのような進め方をします。
小説の概要についてPerplexityによる紹介記事を掲載
それぞれの特徴について補足説明
今回の主人公に似た人物を探してきて、比較してみます
Perplexityによるまとめ記事
あれ、なんか変ですね。
いままでのPerplexityさんの記事からは「収集した多くの記事から紡ぎだしたまとめ」という印象を受けていたのですが、今回は「少ない意見からなんとか体裁整えました」かの様に思えてしまいます。
あとは、人間が補うこととして進めていきましょう。
主人公の人物像について
行動や発言の癖についてつぶさに描写
おそらくブログか書評でこのように評している人がいたので、Perplexityさんはその言葉を拾ってきたのだと思いますが、もう少し解像度を上げていきましょう。
1.初動の着眼点が一般の人と少し違う
人の挙動や態度評する際の言葉遣いが独特。ともすれば人間性や共感力に欠ける、という印象を与えるのがこういった点だと思います。
2.スイッチが入ると没頭してしまう
3.閉塞状況下での行動の選択
4.主人公が考えている「常識的な行動」
全編を通して、この主人公は自分の行動や判断の「正しさ」を問わず語りに述べています。それがこの作品のスピード感やテンポの良さにもつながっているのですが、どことなく「重心がずれたまま、くるくると回り続ける独楽(こま)」のようにも思われてしまいます。
う~ん。どこかでこのような人物を見かけたような気がする。
映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の主人公とどこかにている
2000年のラース・フォン・トリアー監督の映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」。ミュージシャンのビョークさんが、この独特な主人公、セルマさんを演じきって話題になりました。
ビョークさんのファンだった私も、その作品に触れ、表現に圧倒され、頭を抱えて劇場から出てきました。映画館からの帰途、車のステアリングを握ったまま、自宅するでもなくぼんやりと運転を続けていたことを覚えています。
1.セルマさんの基本情報
2.セルマさんの妄想スイッチ
3.窮地で選ぶ悪手
セルマさんと「悪い音楽」の主人公の違い
ただし、それぞれのキャラクターには明確な違いもあります。
「私はもう、見るべきものはすべて見てしまった」
映画中盤、クライマックスとなるミュージカルシーンで、セルマさんはすでに何かをあきらめているかのような歌詞を歌っています。
なので、そのあとの不可解と思われる行動は、そんな心情が作用していた、と捉えることもできるかと思います。
「猿だとは知っていた、どんな猿か、までは考えていなかった」
ひたすら視点が内に向かうセルマさんとは違い「悪い音楽」の主人公の視線と言葉は、周囲の人たちをばっさばっさとなで斬りにしていきます。
それはまるで、春風亭一之輔師匠の寄席の枕(本題の前の世間話)のような切れ味の鋭さ、テンポ感、そして独特の「ズレ」です。
閉塞感や切迫感の中のキレとテンポと着眼点
そういえば、落語もラップも、その世界観や登場人物の置かれた状況は必ずしも恵まれたものではありません、その状況を描写したり、受け止めたりするためにあの独特な口上や視点、パフォーマンスのメソッドが生み出されたともいえるのかもしれません。
であれば「悪い音楽」の主人公のセリフ回しの中にどことなくユーモアが感じられる理由も、わかるような気がしてきました。
「悪い音楽」の着地点
どうもこの主人公は、生徒たちの合唱コンクールの進行もそこそこに、今の閉塞状況をラップに乗せたパフォーマンスを披露。文化祭の大トリを演じきったようです。(部分的にしか触れられていない。)
そのあと自宅で過ごしている彼女が、今までとは違う「変化」を感じた。この小説の幕はそこで閉じられます。
なにが聞こえたのでしょうか?
もしかしたら、ラッパーからさらに斜め上の方向に駆け上がり、噺家に転向しようとでもいうのでしょうか?
「悪いラッパー」「悪い噺家」の登場を期待しています。
おわりに
今回はAIに手伝ってもらう部分は最小限にして書いてみました。
九段理江さんの作品は、登場人物の描き方が独特です。だからAIにとっても人間にとっても、ポイントを把握し、感想が書くということに難しさを感じました。もちろんそれが魅力でもあります。
今回は不完全燃焼に終わったPerplexityさん、次回に期待です。