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Jazz danceとは・・?歴史を探る ep1

ここではダンスの歴史について学んだことを振り返っていきたいと思います。
今回は、ジャズについてです。

フランス国家認定の資格、ダンス教師の試験内容でもジャズは絡んできます。そもそも、ダンス教師の種類はバレエ・コンテンポラリー・ジャズの3種目から選べます。テクニックの試験でこの3つの中から自分の専門を選びます。

理論の試験では必ずジャズに関する問題が出ます。音楽の理論だと、リズムの中にジャズがありますし、音楽分析にもジャズが紛れてます。私が本番で引いてしまった課題の分析がまさしくジャズでした。テンポの違いの説明などもできなくてはいけません。コンセルヴァトワールでもジャズ選択がありますしね。

ここではダンスの歴史におけるジャズの発生を記録していきます。

【ジャズのイメージ?】
ジャズ、だけで言葉を止めると、ジャズ音楽、アメリカはニューオーリンズ発祥の音楽、黒人の方がよく演奏している?というようなイメージがあります。
実際アメリカ人にジャズ?というと、我々の文化だよと胸を張っていいます。

マストで受けなければいけないジャズダンスの歴史を受講していた時、最終講義で定義が非常に広くなり目がまんまるくなったのを覚えています。

【悲しい歴史】
17世紀、ヨーロッパが航路によって巨大な財産を築き上げていた時代にまで遡ります。この時代の経済の流れとは、三角貿易です。ヨーロッパ(主にイギリス)から繊維や銃火器がアフリカに、アフリカからアメリカ・カリブ海に奴隷が、アメリカ・カリブ海から砂糖やタバコなどがイギリスをはじめとするヨーロッパに、と三角にぐるぐる行われる貿易システム。歴史の授業でもみたことがありますが、黒人奴隷として売られた人々は船の中でみっちりと隙間なく寝ることを強いられました。
これでは後々体が言うことをきかなくなります。そこで、健康面から船上でも踊ることは許されていたのでした。

海に面しているニューヨーク、ミシシッピ川経由でニューオーリンズ、そしてカリブ海。この3箇所で奴隷は売られるのですが、3カ所によってそれぞれのカルチャーが形成されていきます。

【そもそものアフリカ文化?】
西アフリカをメインとして奴隷が連れ去られていたわけですが、アフリカ大陸は大きいです。みんながみんな同じ言葉や文化という背景ではありません。
しかし互いに生きていく上で、違う国・文化・言語であれども奴隷として連れてこられた彼らはある共通のものを使ってコミュニケーションをはかりました。
・口頭継承の文化
・集団生活を基準とした文化
・アミニズム文化
このような似通った文化をベースにし互いに交流を図る工夫をおこなっていました。


【ニューヨークの発展の流れ】
ニューヨークに到着した黒人奴隷は主に土木建築業をさせられていたのですが、日中の厳しい労働に耐えた後、夜と朝は自由でした。これが徐々に夜中や日曜など、Catherine's marketという広場で踊りのコンクールが開かれるまでになります。18世紀〜19世紀の頃のことです。
また黒人奴隷による踊りの祭りやコンテストであるPinkster dayやlection dayといった催し物も開催されるようになっていきます。
白人は彼らの激しい踊りを"congo dance"と名付けました。主に男性が円になって体を叩きながら踊っていたようです。そしてそれがJubaというステップの名にのちになりました。break downという方法も生み出され、これは文字通り、トランス状態に入って気絶するまで踊る方法です。


ニューヨークのもう一つの特色が、宗教色の強い地域であったことです。イギリスから逃れてきたプロテスタント(WASP)が多い地域であったため、新たなクリスチャン獲得(黒人奴隷が対象)のために教会側は彼らの踊りのひとつ、pattin'(体を叩く)を取り入れました。他にもring shoutやshuffleといった、牧師に近づき、円になりながらステップを踏んだり祈りを捧げる手法をとるようになります。これが19世紀には更なる進化を遂げてゴスペルへと変貌を遂げました。

【ニューオーリンズの発展の流れ】
ミシシッピー川を利用し貿易が盛んだったニューオーリンズですが、フランス領⇨スペイン領、、とフランスとスペインで領主がコロコロと変わっていた地域でもありました。領主は変われど基本はラテン文化、カトリックの地域です。
当時のアメリカの中では黒人奴隷に寛容な地域として発展し、黒人によるオーケストラが結成されたり、黒人ブルジョワが誕生したりしました。
congo squareとstory villeという二つの場所で特に独自の音楽が発展、ragtimeなどの演奏方法が生まれたりしました。



踊られていた踊りは、先に書いていたように体を打ち鳴らすpattin'や、バトル形式のdéfi。動物の動きの特徴を捉えた踊りなどが踊られるようになりました。Pigeon wing(翼を広げるような動き), Turkey trot(足で砂をかいているような動き)などなど・・

この時から、リズムにしっかり乗りつつ、膝を曲げて重心を下げる方法、アイソレーションを巧みに使うことなどが磨かれていきました。
踊り手は円になって、円の中心で踊る人はメインの即興を踊る。という方法がとられていました。

次第にこれがコンクールになって、勝者にはケーキが贈呈されるようになります。こうしてcake walkが始まるようになっていくのです。

【カリブ海の発展の流れ】
カリブ海は場所によってスペイン領・フランス領などと分かれていたものの、ベースはラテン文化でした。そのため住民はカトリックです。カリブ海ではカトリック文化と黒人奴隷によるアニミズム文化の融合が行われました。plantation(農業)の踊りが独自に発展していったのに加え、ヨーロッパから伝わる踊り(メヌエットやポルカ、ワルツなど)が黒人奴隷によって踊られ、形や名前が少しづつ変わっていきました。

いかがでしたでしょう。悲しい歴史のお話です。こうして逆境にめげず踊り歌って日常を耐えたカルチャーは更なる発展を遂げていくのですが、これはまた次回に記録していきたいと思います。

それでは、良い一日をお過ごしください。

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