
書籍紹介 藤田一照『ブッダが教える愉快な生き方』 NHK出版
暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。地震、台風等自然災害の被害を受けておられる方々に、お心より見舞い申し上げます。
前回に続き、12ステップに取り組む方に参考になる書籍を紹介します。
書籍情報

NHK出版から2019年に出た本で、仏教の基礎知識より「仏教的学び方」(学びの態度)を伝えるための本だと「はじめに」と「おわりに」繰り返し書かれています。
この本では仏教の思想体系や、禅の具体的な実践方法は書かれていません。それ以前の考え方の枠組みを述べています。ボタンの掛け違いのようにはじめの考え方が、その後の実践の方向性を左右することを強調されています。
この「学びの基本シリーズ」は文章も簡潔で、一日あれば読めてしまうページ数ですので心のハードルを下げて、気楽に読み始めることができるのも魅力の一つです。
著者紹介
著者は藤田一照さんと言う曹洞宗のお坊さんです。経歴がなかなかユニークで、大学院で発達心理学を専攻。28歳で博士課程を中退し、禅道場に入山して得度を受けられます。
33歳で渡米。以来17年半にわたりアメリカで坐禅を指導する経験を持っておられます。それでは内容に入っていきましょう。
コントロールの限界
ブッダが瞑想や苦行に見切りをつけたのは、それがどこまもハウツーに終始するものだったからです。
瞑想や苦行のエキスパートから教わったハウツーは、自我が心や体をコントロールするためのコントロールするためのテクニックでした。
ですから、やればやるほど自我の意識が強化されてしまいます。
ブッタは、自我が作り出した問題や苦しみは、自我の努力では解決できないことを発見したのではないでしょうか。
ブッダは自我によって自我を乗り越えることはできないという自覚が出発点になり、何も求めずただ座ることから、悟りに至ることができたと著者は主張します。
プログラムに引きつけて考えると、私たちAAメンバーは病的な飲酒の経験から、自分の意思を自分の意思で乗り越えることはできない事を知りました。
学ぶことは変わること
「学んだことの証は、ただ一つで、何かが変わることである」
(『学ぶということ』林竹二著 国土社)
学校的な学びとは、知識を得ることと同義です。
しかし、林先生の主張では、学ぶことは、自分自身が変わること。
つまり、何かを本当に学んだら、「それまでの私」ではなくなって、「新しい私」がそこに生まれてくるといくことです。
12ステップに取り組み、生きようと願う私達にとって何かを学んだなら自分自身が変わらなければ学んだとはいえない。私達の考えや行動が変わらなければいけないと解釈しました。
「生き方が変わらなければ何もわかってはいない」とは耳の痛い話です。
気がつかないうちに
道元は『正法眼蔵随聞記』の中で「座禅すれば自然に良くなるなり」と言っています。修行しているうちに本人の意識に上がらずに「好くなる」状態へと変容していくのは、たとえば、霧の中を歩いていると知らないうちに来ているものがぐっしょりと濡れるようなものです。いつ、どこで、なぜ、そういうことが起きたのかを特定することは困難なのです。
霧の中を歩くというプロセス自体が自然にそういう変化を起こさせるように、その人は好くなろうとして特別なことをしているわけではないのです。
修行生活の全体が有機的に働くことで、時とともにその人が好くなっていくのです。
しかし、そういうことが起きるためには、いろいろな条件が整っていなければなりません。修行というのはいわば発酵現象のようなものです。人間に有機的な発酵へと向かうための条件が整はなければ、何も起こらないか、下手をすると人間に有害な腐敗の方向に進むこともあり得ます。
「自分でも気がつかないうちに自分が変わってきた」という経験をAAでは時々聞きます。AAプログラムによって変えられてきた人達を見ることは、大きな励みになります。
ただテキストの後半には変化が起こるのは一定の条件が必要であり、それを満たしていないとかえって悪化することもあると警告しています。
次は、学びが起こるためのヒントを見ていきましょう。
受けたもう
私は三年前、出羽山で山伏修行を行いました。…その間、私語は一切禁止です。唯一、発することを許される言葉が「受けたもう」でした。
次に何をするかは、あらかじめ知らされていません。直前に星野先達がこれから何をするのかを大きな声で指示し、私達はただ一言「受けたもーう」と応じるだけです。
早朝、前日の疲れで布団の中にいたくても「起床!」と言われたら「受けたもーう」と言って起き出します。腰を下ろして小休止しているとき「出立!」と言われたら足が痛くても「うけたもーう」と立ち上がって歩き出します。
こんな調子で「受けたもーう」ばかり言っているうちに、だんだんと何を言われても「受けたもう」の状態になっていき。自分の中にある抵抗値が減っていることに気がつきました。
そうなってくると、目に入ってくる光景も、周りから聞こえてくる音も、肌に触れてくる木や草の匂いも、足が踏みしめる大地の感触も、そのままダイレクトに受け入れている自分がいるのです。
心身ともにかなりキツイ山伏修行でしたが、「受けたもう」という開かれた態度を教わったおかげで、キツイことすら愉快になって、乗り切ることができました。逃げ腰で嫌々ながら修行をしていたら、とてももたなかったでしょう。
今与えられている環境や、成り行きが心地よいものでないなら受け入れることよりも「嫌だな」「逃げたいな」と思うのは人の自然な心の動きです。
しかしそれでは心が閉じてしまい周りの環境(人、出来事、自然)や自分を越えた力(神、仏、法、宇宙の原理等)との交流は起きないといわれています。開かれた心とは自分に都合のよくないものも受け入れていく態度と言えるでしょう。言葉でいうのは簡単ですが、実践することは勇気がいります。
「その勇気と意欲を与えてください」と祈りながら(できることは限られていても)自分の与えられた役割を果たすよう努力していきたいと思います。
僕はミーティング前後に準備や後片付けをするようになってよくなっていった人達の事を思い出しました。
https://ieji.org/archive/acceptancewastheanswer
続きは実際に読んでみること
プログラムと関連するところを中心に簡単に書籍紹介をしました。
YouTubeなど書籍の早わかりまとめ動画もありますが、一番理解が深まるのはまとめて発表している人であって動画を見ている人ではありません。
続きは、実際に手に取り読んでもらえると幸いです。(Kindleでも読めます)この本を読んで何か感じられた人は次は『現代坐禅講義』に進んでみるといいでしょう。
簡単に紹介するつもりが長くなってしまいました。次回もお楽しみに。
参考文献
藤田一照(2019)『ブッダが教える愉快な生き方』NHK出版