逆説を理解できない高校生
平成7年頃、俗にいう「学力崩壊」が起きます。
前々回は、平成7年頃高校で起きた現象、前回は「逆説」を理解できない高校生について述べました。
その続きになります
理解できないのは逆説だけではない
同時に可視化されてきた現象は、「比喩・例え」が理解できない。
「フィクションとノンフィクション」とが区別できない。
これに「逆説」が理解できないが重なります。
抽象的な概念は、比喩・例えで説明することがあります。
もちろん、抽象的概念に100%合致する具体的事例というのはなかなかありません。それでも、比喩・例えとして挙げた具体的事例から、抽象的概念の意味を類推し、理解に近づくことが可能でした。
しかし、このころから、具体的事例を比喩・たとえと理解できない、抽象的概念と結びつけらない生徒さんが可視化されてきました。同様に、小説の内容とリアルを区別できずに感情を高ぶらせる現象も可視化されてきました。これは、テレビドラマでも同じ。
ある意味で、感受性の豊かさ、才能・個性とも言えます。しかし、それは、「リアルとフィクションの重複」という前提の理解があるはずです。あるはずなのですが…
ある高校で体験したこと
たとえば、テレビドラマの先生を見て、本当に先生になる人がいます。
大谷選手(エンゼルス)を見て、野球選手になりたいと思うのは、「あこがれ」という正常な感性・思考とされています。
一方で、荒れた学校で暴れる高校生の「暴れる理由」には、「昨日のドラマで、主人公の高校生が担任の先生に殴られたから」がありました。せめてその高校生が、「過去に先生からの理不尽な暴力を受けた過去があり、その記憶が蘇って感情が乱れた」ならばまだ理解できます。しかし、本人にそのような過去はありません。あるのは、「テレビドラマや漫画の学園ものの中で、生徒に対して威圧的にふるまう先生」というフィクション。その存在から生じた感情をリアルの世界に持ち込み、担任に暴力をふるうのです。
ただ、この現象は、「憧れの負の転換」と言えます。
スラムダンクを読んで憧れを持ちバスケット部に入るのも、学園ものに登場する悪役の先生をみて怒りの感情を高ぶらせて担任の先生に暴力をふるうのも、「フィクションのリアル化」という点では共通です。
比喩をどのように曲解してしまうか
抽象的概念があって、その意味に近い具体的事例があります。
しかし、比喩・例えが理解できない生徒さんは、具体的事例の理解できた部分から、自分が知っている概念とを結びつけます。その結果、本来の意味とは異なる理解となります。もう少し踏み込んで言えば、その生徒さんの既知の知識と結びつけるだけです。したがって、未知の概念の理解ではないのです。既知の曲解です。
大きく言えば、未知を既知にすることが難しいということ。
そこに、逆説・比喩の理解が進まないことの背景があるのかもしれません。
こうした現象は進学校でも共通
評論文にある「比喩」を理解できない。
一般論と筆者の主張との区別がつかない。
自分の理解できた内容を筆者の主張と思い込む。
自分が理解できる内容を切り取り、それを根拠として自己の正当性を証明しようとする。このパターンが、採点結果に対し「なぜ不正解なのですか。私はこの部分を根拠に、このように考えました。これも正解なはずです。納得できません」という質問につながります。
思考は間違っていませんが、根拠が違うのです。
これは、論理的な正しさのワナとの共通点もあります。
人を殺す理由を、論理的に立証することはできます。しかし、論理的に正しければ人を殺してもよいとか、人を殺しても許されるというわけではありません。その区別がつかない、考えが及ばない、あるいは理由を主張できれば正当化できる…そういうことが顕在化してきて、しかも一定の支持を受けるようになってきたのです。