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考察 ウルトラシリーズにおける【縦軸】①黎明期のウルトラシリーズ(1966年〜1971年)
「縦軸」とは
今日本で放送されているドラマの多くは「縦軸」が存在する。ここでいう縦軸とは物語の根幹を貫く大きな軸を指す。例えば恋愛ドラマで言うのであれば、主人公たちの恋愛が成就するというのがゴールで、そこまでで描かれる様々な出来事は「恋愛の成就」という縦軸に連関しながら描かれていく。基本的に日本のドラマは1クール(10〜12話)単位で放送されるが、その中で起きる出来事は全て物語の縦軸の中で意味を持つのであり、その物語の着地点に向かって絡み合っていく。
しかしそのような縦軸を持たない作品も勿論存在する。例えば長寿の刑事ドラマがそれに当たる。『相棒』『科捜研の女』『警視庁・捜査一課長』などだ(これらの多くが東映制作なのは非常に興味深い)。『水戸黄門』などもそうだろう。これらの作品に基本的には終着点がない。杉下右京や榊マリコがどれだけ事件を解決しても、光圀公がどれだけ悪人を成敗しても、次の回では必ず事件が起こる。だからこれらの作品では、時系列的に話が進むことはあっても、何か一つの終着点に向かって(つまり縦軸に沿って)物語が進んでいくことはほぼない。個々の事件はそれぞれがそれぞれとして起こり、関連性は乏しい。
少し毛色は変わるがアニメでもこれは同じことが言える。国民的アニメとも言える『ドラえもん』や『サザエさん』にも縦軸はない。日本で放送される長寿アニメには相当にこの傾向がある(20年以上放送されていながら常に物語が縦軸に沿って前に進行している 『ONE PIECE』は相当に稀なケースだろう)。
これはいわゆる「シチュエーションコメディ(situation comedy, シットコム)」というジャンルに相当するもので、固定された場面・人物の中で起きる小さな事件を楽しむものだ。『相棒』や『科捜研の女』をシットコムと呼んでしまうのは違和感があるが、ただ本質的にはそう間違ってはいないだろう。
さてここまで様々な作品における縦軸の存在を話してきたが、私がふと思ったことに『ウルトラマン』シリーズにおける縦軸はどうであるのか、ということである。
結論から言うと、『ウルトラマン』シリーズは縦軸を持たざるを得なくなった、というのが私なりに考えた答えだ。ではなぜそのような結論に至ったのか、そもそも『ウルトラマン』シリーズにおいて縦軸は存在していたのか。このようなことに関して個人的な考えをまとめた。
長い話になりそうだが、興味がある方はしばしお付き合い願いたい。
黎明期のウルトラシリーズにおける縦軸(1966年〜1971年)
ウルトラシリーズは1966年の『ウルトラQ』に端を発するシリーズで、翌年の『ウルトラマン』を皮切りに巨大ヒーローが登場するようになり、2024年現在では最新作の『ウルトラマンアーク』が放送されるなど今なお健在の人気を誇るシリーズだ。
ではウルトラシリーズの黎明期(ここでは1966年の『ウルトラQ』から1971年の『帰ってきたウルトラマン』までとする)における縦軸を考える。
この間の放送作品
1966年 『ウルトラQ』(全28話)
1967年 『ウルトラマン』(全39話)
1968年 『ウルトラセブン』(全49話)
1971年 『帰ってきたウルトラマン』(全51話)
存在しない縦軸
この間に放送された4作品は、結論から言うと縦軸に当たるものは存在しないと言って良いだろう。黎明期のウルトラシリーズはまさに「シットコム」のように固定された人物・設定を崩すことなく一つ一つの話が展開していく。
例えば第1作となった『ウルトラQ』は、星川航空のパイロット・万城目淳、その助手の戸川一平、新聞記者・江戸川由利子の3人の主人公が登場する。彼らは3人揃って様々な事件に巻き込まれることが多いのだが、彼ら3人の人間関係が大きく変化したりすることはない。なんなら3人がほとんど物語に絡まないエピソードも存在する(第6話「育てよ!カメ」や第15話「カネゴンの繭」など)。中心に据えられるはずの人物が端に追いやられることがある時点で、縦軸は存在しないと言っていいだろう。最終回のあたる第28話の「あけてくれ!」も特別何が終わるというエピソードでもない。更にウルトラQの場合、製作された順と放送された順に大きな隔たりがあるため、時系列的な進行もやや歪んでいる。
では巨大ヒーローが登場するようになった『ウルトラマン』以後はどうだろうか。実は状況は大きく変わらない。基本的に固定された場面設定に対して、様々な怪獣や宇宙人が現れ、それをウルトラマンが退治するというフォーマットだ。そのため、何か倒したい巨大な敵がいてそこに向かって物語が進行するというRPGのような進み方をしない。
一方で、『ウルトラQ』の時に比べ、時系列の進行を感じさせる描写は強く見られるようになる。
例えば『ウルトラマン』では、バルタン星人が実に3度も登場する(第2話「侵略者を撃て」、第16話「科特隊宇宙へ」、第33話「禁じられた言葉」)。特に2度目の登場となる第16話のバルタン星人(二代目)は第2話でやられた同胞の轍は踏むまいと、ウルトラマンの必殺技であるスペシウム光線を跳ね返す術を提げて現れる。これはまさに時間的進行を表す描写であり、この点は『ウルトラQ』との大きな違いになっている。
『ウルトラセブン』でも同様の時間的進行が見られる。『セブン』では第48話「史上最大の侵略(前編)』で、変身解除後に血まみれで倒れる主人公モロボシ・ダンの姿が描かれる。これは1年に及ぶ長い戦いによって蓄積したダメージによるもので、ここにも1年間戦ってきたという時間的な経過を感じさせる工夫がなされている。
変容する作品像
1968年の『ウルトラセブン』から1971年の『帰ってきたウルトラマン』までは3年間のブランクがある。この間、円谷プロは『マイティジャック』など新機軸の特撮作品を手がけるも苦戦。最終的に再びTBSと手を組んで、ウルトラシリーズに立ち返ることになる(この辺りの経緯は、賛否あるものの円谷英明著『ウルトラマンが泣いている』がかなり詳しい)。
さて『帰ってきたウルトラマン』ではどうかというと、まだ縦軸と呼べるものは存在していない。だがこれまでの作品像を覆す出来事が3つ起きている。
①ウルトラブレスレットによるウルトラマンの強化
②他ウルトラマンの登場
③主要登場人物の交代・退場
まず①についてだが、『帰ってきた』で主人公となるウルトラマンジャック(この名前は後付け設定なのだが)は、第18話「ウルトラセブン参上!」で宇宙大怪獣ベムスターに敗れる。ジャックにとって初めて宇宙から飛来した敵との戦いだったのだ。この戦いで敗れたジャックは自ら太陽に突っ込んでそのエネルギーを得ようとする一か八かの手段を取るが、そこにセブンが現れてジャックに専用武器「ウルトラブレスレット」を授けていく。
以降ジャックは戦いの中でウルトラブレスレットを多用しており、明らかにウルトラマンジャックは強化されたのだった。このように、明確な1つの出来事の後にウルトラマンが強化されたというのはウルトラシリーズを通して、ここが初めてである。後のシリーズではウルトラマンが強化されることは当たり前となるが、まさにその走りとなる出来事だった。
さらに②に関して言うと、①の中にもあった通り、前作の主人公であるセブンがジャックの助太刀に参上している。この瞬間を持って『ウルトラシリーズ』という世界観が誕生したことになる(それまでは関わりのない個々の作品という側面が強かった)。最終的に『ウルトラQ』を出発点とする昭和ウルトラシリーズは2006年の『ウルトラマンメビウス』によって一つの大きな世界観の中に組み込まれていく訳だが、そのような世界観の基盤になったのはまさにこの他ウルトラマンの客演だったのであろう。『帰ってきた』ではこの他にも第38話『ウルトラの星 光る時』で、初代ウルトラマンとセブンが登場、最終回『ウルトラ5つの誓い』でも初代ウルトラマンが声のみで登場する。
そしてこれまでの作品と大きく異なるのが③の「主要登場人物の交代・退場」だ。まず交代に関しては、主人公の郷秀樹が所属する防衛チームMATの加藤勝一郎隊長が第22話をもって転任となり、第22話からは伊吹竜隊長が指揮を取ることになる。これは背景にどういう事情があったのかは明かされていないが、「シットコム」形式をとっていたウルトラシリーズの大きな転換となる出来事だったはずだ。
さらに『帰ってきた』はそれに留まらない。郷秀樹が働いていた坂田自動車工場のオーナーで郷の良き理解者でもあった坂田健、そして健の妹で郷とは恋仲だった坂田アキの2人が第37話「ウルトラマン 夕陽に死す」で退場となったのだ。
その退場の仕方もかなり凄惨で、2人ともウルトラマン抹殺を狙う暗殺宇宙人ナックル星人によって殺害されたのだった。これはウルトラマンの正体が郷秀樹であることを見抜いたナックル星人による、郷の精神を動揺させるための作戦だった。事実この直後、郷はウルトラマンに変身して立ち向かうも、ナックル星人とその相棒である用心棒怪獣ブラックキングとの挟み撃ちにあって敗北。磔刑に処され、宇宙へ連れ去られるという衝撃的な展開で第37話は幕を閉じる(ちなみに前述の通り、続く第38話で初代マンとセブンが現れ、ジャックを救出する)。この退場はアキを演じた榊原るみのスケジュールの都合という大人の事情でもあるようだが、それにしても思い切った判断だ。「シットコム」の前提である「変わらないこと」を思い切って破壊したのである。
この後、郷は残されたアキたちの弟の次郎と共に生きていくことになり、新ヒロインも現れて"穴埋め"が行われる。
ここで少し興味深いのは、坂田兄弟の死によって、郷と次郎に「困難を乗り越えて生きていく」という強いイメージが付与されたことである。『帰ってきた』はこれまでのウルトラシリーズと少し違って、スポ根的な要素が部分的にあった。例えば第4話「必殺!流星キック」はその典型だ。必殺技のスペシウム光線をバリヤーで弾き返してしまう強敵キングザウルスⅢ世に敗れた郷が、勝利のために特訓を積み重ねて、新技の流星キックを習得するというエピソードである。まさにスポ根エピソードで、郷が丸太を担いで斜面を駆け上がるシーンは印象的だ。
さらに続く第5話では同時に現れたグドンとツインテールという2体の怪獣に挟み撃ちされ敗北。第18話では前述の通りベムスターに敗北…などこれまでのウルトラマンとは違って無敵なヒーロー像ではなく、苦戦しながらも最後はどうにか勝つ、というある種人間的な側面が強い。
『ウルトラマン』のハヤタ・シンや『ウルトラセブン』のモロボシ・ダンは作品を通して何か変化や成長を遂げたかと言われると郷秀樹ほどではないだろうと考える。
郷は凄まじい敗北と喪失を乗り越えて、最終回のバット星人とゼットンに立ち向かうのである。
ここに貫かれているのは「郷秀樹の1人の男としての成長」であることは間違いない。
これは『マン』『セブン』では2人とも主人公が最初から防衛チームに入っていたのに対して、郷秀樹は第1話時点では一般人であり、本格的には第2話から防衛チームに所属したという部分からも言えるだろう(この点は次回作、次々回作でも同じである)。
この「郷秀樹の成長物語」という側面は、それが物語の縦軸になっているかといえば、まだそこまでには至っていないだろう。
しかしこれまでの『ウルトラQ』〜『ウルトラセブン』で強く見られることがなかった、主人公の変容というのは大きな転換点と言えるだろう。
そしてこの翌年放送される『ウルトラマンA』で、ついにウルトラシリーズ初となる本格的な縦軸を持った物語が展開される。しかしこの縦軸を持った物語はそのまま続く訳ではなかった。
次回は『ウルトラマンA』〜『ウルトラマン80』に至るまでのシリーズを題材に、この点を考察してみたい。